動物愛護問題における他者モデルと「宣王のジレンマ」

本記事は、2023年8月4日に研究室ブログに掲載したものの再掲である


HAI分野の一部には、ロボット・エージェントが他者とインタラクションする他者を「他者モデル」によって実現しようとする一派がいる。

他者モデルとは、「単純化・理想化された他者」であり、我々が他者と関わり合うことができるのは、この「他者モデル」を持っているからだ、と、この一派は説明しようとする。

私はこの研究姿勢には一貫して批判的立場である。このことは、青土社から上梓した「ロボット工学者が考える『嫌なロボット』の作り方」の中でも述べた。

なぜ他者モデルが不要なのか、それを知るには孟子の梁惠王章句上にある「以羊易牛」の逸話を見ればいい。

これは以下のような話である。


『斉の宣王が、祭りの生贄にするために引かれていく牛を見かけた。牛が恐れおののいているのを見て哀れに思った宣王は、生贄は羊に変えて、牛は助けてやれと命じた。それを聞いた人民は、『王は牛が惜しいから、安い羊に変えさせたのだ』と言った』


人民は、宣王は「経済性」という変数によって行動を決定したと解釈したのであるが、実際には宣王は「仁」という変数によって自分の行動を決めたのである。

つまり、人民は彼らの「他者モデル」によって宣王の行動を解釈しようとし、そして上手く解釈できたと思い込んでいるのであるが、実際の宣王の心中を全く理解できていない。それは、人民が「仁」という変数を知らないからである。

どんな他者モデルを考えようと、あらかじめその中に用意されていない変数は入力することができない。

最近書いた論文で、私はこれを「宣王のジレンマ」と呼んだ。



最近、ディスカウントストアの店頭に水槽を設置して、その中で魚を展示することについて、魚への虐待だとしてやめさせようという運動をしている人々がいる。

その主張自体は理解できる。

だが、その一人がSNSで「魚を靴下などと並べて見世物にしていたら、魚も嫌な気持ちになるはずだ」という旨のことを主張していたのを見て、これは「他者モデルの誤用」の好例であると感じた。

この発言者の主張内容は以下のようなものだ。


『人間は、靴下などと並べて陳列されたら嫌な気持ちになる。よって、魚も嫌な気持ちになるに違いない』


すなわち、「魚」という、本来人間と全く違うエージェントを理解するために、人間と全く同じ内部モデルを適応してしまっているのである。

言うまでもないが、魚と人間は全く異なった動物である。魚の気持ちを、人間が正確に理解することなど不可能だ。

よって、本来必要なことは「完全に理解しよう」という姿勢は捨て(そんなことは絶対にできないのだから)、理解不能な存在として尊重するという態度であろう。

本来人間にしか使えないモデルを、他の動物に適応しようとすることは、その動物のことを理解しようという態度からは最も遠いものであろう。

しかし、魚に限らず、あらゆる動物を相手に、この過ちを犯してしまっている人は多いように思う(正直言って、他の人間の気持ちさえもほとんど想像ができない私は、安直に他の動物の気持ちを決めつけてしまえる人のことは全く理解できない)。


爬虫類は即売会イベントでは、プリンカップなどと呼ばれるような小型の透明の容器に入れられて展示・販売されている。

現在、この展示・販売方法をやめさせるための法規制を求めている動物愛護団体がいる。

現在、環境省では爬虫類の飼育管理基準の制定に向けた検討が行われているが、一部の団体はこの中で小さな容器での展示・販売の禁止を盛り込もうと要望している。

その理由は、「狭い所に入れられてかわいそうだから」というものである。

これもまた、他者モデルの誤用の一例であろう。

この思考は、以下のように形成されていると予想できる。


『人間は狭い所に入れられたら苦痛を感じる。よって、爬虫類も狭い所に入れられたら苦痛を感じる』


しかしこれもまた、人間と爬虫類を安易に混同したものだと言うべきだろう。

爬虫類の多くは、狭い所に入ると安心する。野生下でも、ほとんどの時間を狭い巣穴や岩の隙間などに入って過ごしているのだ。

自然界では被捕食者である彼らにとって、身を隠してじっとできる状態のほうが安心できるのは当たり前だろう。

爬虫類を飼い始める時には、身体にぴったり合うサイズのシェルターを入れると落ち着く、またヘビやヤモリなどは大きすぎるケージで飼うとむしろストレスで状態を崩す、というのは、爬虫類飼育者にとっては常識である。

さらに、小さな容器で展示することで、動きすぎて体力を無駄に消耗する危険が無くなるという利点もある。

このように、爬虫類への配慮を込めて定められている展示・販売方法に対して、「一見して狭そうでかわいそうだから」という理由でやめさせようとするのは、自分の感覚を一方的に他者に押し付けようという、傲慢な暴論である。

それは、『仁』を知らずに宣王の心を決めつけようとした人民と同じ態度なのだ。


人間と、他の動物とは違う存在である。それは優劣の問題ではなく、そもそも比較しようが無いほどに違うということである。

なので、動物福祉は客観的なデータに基づいて行われないといけない。

「かわいそう」などといった主観的な印象に基づいてそれを行おうとするのは、その動物を尊重する態度からは最も遠いものである。

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コメント

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動物愛護問題における他者モデルと「宣王のジレンマ」|松井哲也
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