渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

80年代のタモリさん

2025年02月24日 | open



おお!新宿ペクター!
俺らの頃とまるで衣装が違う(笑
俺らの時代にはペクターは革ジ
ャン
かアロハだった。


この動画の時代には「打倒
極悪」を
掲げていても、ま
るで極
悪と全く同じコスチ
ュームだ(笑

あれに似ている。
マル暴のデカたちは見た
がまるでヤクザと全く同じ
になる、というのに(苦笑

スペクター、ルート20、
アーリーキャッツの連合
でCRS連合というのを構成
していたが、連合の頭文字
の並びを決めるのは初代3
名が集まってジャンケン
で決めた。ペクターの頭が
ジャンケン負けたので、都
内最大勢力(後年単独チーム
のみで集会で3000名=1977
年晴海埠頭)だったのに、連
合では最後並びになった。
CRS連合は日本最大の員数

だった。
クリームソーダ高橋誠一郎
店長の同級生がペクターの
頭だった。
ペクターは三代目が気合入
っていた。

そういえば、芸能人のヒロミ
が八王子のペクターだった。
ルートとの合同集会の時、
八王子まで行った事がある。
その後、晴海埠頭目指して走
ったが、環七大森陸橋で高度
検問で全員検挙された。
交機だけでなくモノホン機動
隊も応援なのか来ていた。
もう全員ボッコボコの暴行を
受けた。警棒で殴るは蹴るわ
だし、タンクもボッコボコに
叩きへこまされた。その上
「故障」の紙ステッカー貼り。
綺麗に剥がせないやつ。
八王子から大田区大森山王
まではノンストップだった。
その時はあまり数は多くなく、
二輪200台超、四輪300台超
あたりだった。八王子の集会
で数えてる若い奴がいたので
訊くと「今バイクが160いく
つ」とか言ってて戻って来た
時また訊くと「200まで数え
たけどあとわかんねー」と
言ってた。白地のシャツ着て
た奴。
意外と知られて
ないようだ
が、二輪よりも
四輪のほう
が暴走族は数が
多かった。
二輪=暴走族と
いうのはマス
コミや警察が
作った嘘。嘘ま
る出しなの
で皆が笑っていた。
その夜のルート集会は保谷
のルート20が
主軸だったと
記憶している。

ナンバーは全員ガムテープ。
時間はルートのメンツから
聞いていたので、ペクター
からのグループで甲州街道
で合流すると、見知らぬ

が集団から逸れて持って来
て手際よく貼ってくれ
た。
1チーム(その晩は混成だが)
でもそれ
だけ数がいるが、
それらの
規模の別チームが
何チーム
も土曜の夜には都
内を走り
回る。
1970年代後半の土曜の夜は
「首都騒乱」状態だった。
その数年前は、新左翼によっ
て東京の街は「首都内戦」
状態だった。
学生ゲバラッチたちは、数

百人単位で角材で武装して
メット被って山手線や地下
鉄に乗り込んで移動したり
していた。
線路には豊富に投石用の石
もあった。
現実にその学生ゲバラッチ

集団を駅で見ると、こちと
らまだ小学生ながらも「う
ひゃ~」という感じだった。
驚きや恐怖や嫌悪感などよ

りも、ワクワク!という感
じだったのが正直な感想だ。
街路の歩道の敷石は軒並み

剥がされて投石用に砕かれ
た。
そういや、スペクターの赤

いステッカーと革ジャン用
のCRSの刺繍ワッペンは今
でも持っている。

てな話を、昔、誰かから聞
いた
事がある。

 
 
 
 



 
 


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