私が起こしたトラブルがきっかけで、私に怒ってきた相手の名前の漢字がトラウマになっても、私が夜な夜な発狂していても、相手は私の苦しみなど考えないし、どうでもいいと思っている。私が匿名質問サイトで相手に対して「性癖ゆえに社会で孤立してませんか」と尋ねたら、相手は全体公開SNSで「性倒錯者呼ばわりされたー」と騒いだ。
こちらの善意は相手には悪意にしか見えず、こちらの謝罪文は相手にはゴミでしかない。相手は私をどこまでもモンスター化し罵倒することで、溜飲を下げているのではないか。相手がサディストにしか見えないが、私が相手を「サディスト」呼ばわりした時、相手は必死にそれを否定した。
相手からすれば私なんてネオナチ同然の屑なのだろう。溝は永遠に埋まらず、私の発した言葉は、私が発したという理由で、相手の脳内でぐにゃりとねじ曲げられ、思いっきり汚されて、相手の中核に伝わる。そしてSNSでは私叩きという娯楽が始まる。私は何につけてもサンドバッグであり、怪物なのだ。
私を殴って遊ぶ相手も、相当な精神的苦労をしてきたのではないかと思う。虐待とかされたのではないか? しかし、相手がどのような苦労をしてきたかなんて、私には知る由もない。断絶は永遠である。永遠とは、面識のないSNSユーザーからのブロックである。SNSでは容易く他者化ができてしまう。恐ろしい。
永遠の傷、永遠の喪失を抱えた上でどう生きるか。これは私だけの課題ではなく、今を生きる人たち全員の課題であるだろう。こんなに身近に「永遠」という概念があるなんて、思いもしなかった。私も死んだら「永遠」になるのだろう。「永遠に帰らぬ人」に。「永遠」は「死」である。何の進捗も変化もない。
何の進捗も変化もなく、同じ状態がずっと続くことを「永遠」と言うのではないか。死んだら「永遠」になるのだ。この日本社会も私の心も既に凍死しているのではないか。永遠の冷たさ。永遠の寂しさ。永遠の傷。永遠のブロック。永遠の排除。永遠の憎悪。どんなに社会体制が変わっても、私の傷は永遠だ。
マジョリティは、社会やコミュニティをガッチガチに固めることで、生き延びようとしているのかもしれない。でもそんなのはいつか私のような無秩序な存在によって打破されるであろう。永遠とは案外脆いものなのかもしれない。私は太平の眠りを覚ます狼藉者である。ミソッカスとか言って馬鹿にするなよ。