音楽喫茶ヲルガン座17周年企画 「黒井ひとみの好き勝手劇場」昼の部を鑑賞した(この投稿には一部に性的な表現を含みます。)。「私」と「他者」の境はどこにあるのかというテーマだったと思う。表現者にとっての「私」とは何か。「他者」はその人にない「私」の要素を鑑賞しているのだろう。これがまず一つ。そして「私」と「他者」の肉体や精神はどこまで共有するのがよく、どこまで交わらない方がよいのか、というのがもう一つ。1作品目、名前がテーマ。名前は重要な私を形作る、そして他者と区別する重要な要素である。2作品目、一人芝居の冒頭で主人公が叫んだ、ある他者と一度セックスをしたらその相手からセックスをずっと受け入れるのは当たり前では「ない」という宣言。これは、精神面でも観察しにくいだけで、もちろん恋愛感情のように分かりやすいものもあるが、肉体の交わりと同じということだろう。3作品目、今度の主体性は精神面から肉体面へと継がれる。4作品目、黒井さんはテーマと関係ないと言っていたけれど、本来は自分が選んだ肉体の使い方が、危うい精神によって「選ばされている」ことへの懸念であり、その意味ではつながっているのかもしれない。