スピードスケート初の五輪代表 シベリアで終えた37年の生涯

木谷徳雄の唯一の遺品であるベルトのバックル。五輪マークが刻まれている=2月3日、大阪市浪速区(竹川禎一郎撮影)
木谷徳雄の唯一の遺品であるベルトのバックル。五輪マークが刻まれている=2月3日、大阪市浪速区(竹川禎一郎撮影)

4日に開幕する北京冬季五輪で、日本勢のメダルラッシュが期待される競技がスピードスケートだ。2018年平昌(ピョンチャン)五輪では女子が計6個のメダルを獲得。今大会は、かつて「お家芸」といわれた男子500メートルにも実力者がそろう。この競技で世界への挑戦が始まった1932年レークプラシッド五輪で、歴史に名前を刻んだ一人の日本人スケーターがいる。ただ、彼が後に抑留されたシベリアで短い生涯を終えたことは、あまり知られていない。

《OLYMPIC GAMES 1932》

古びたベルトのバックルに、五輪マークが刻まれている。32年レークプラシッド五輪スピードスケート代表、木谷徳雄(1909~47年)の遺品だ。

3回目の冬季五輪開催地となった米ニューヨーク州レークプラシッド。バックルには、第10回を意味する「Ⅹth」の文字があるが、ロサンゼルスで同年開かれた夏季五輪が第10回大会だったため、両大会向けに作られたとみられる。

木谷は中国東北部(日本統治後の満州)出身。昭和初期に全日本氷上選手権を制し、1931(昭和6)年には欧州に遠征するなど、日本のトップ選手として活躍した。昭和50年発刊の「日本スケート史」には、《4歳頃からスケートに親しみ、小学校で既にひとかどのチャンピオンであった》と紹介されている。

90年前に開催されたレークプラシッド五輪は、日本が初めてスケート競技に選手を送り込んだ記念すべき大会だった。日米開戦時に米大統領を務めるフランクリン・ルーズベルトが、ニューヨーク州知事として開会式を見守ったという。

木谷は500メートル、1500メートル、5000メートル、1万メートルの4種目に出場。いずれも予選で敗退した。

スピードスケート元日本代表の木谷徳雄(左)。石原省三(右)らとともに、1932年レークプラシッド五輪に出場した=昭和6年1月(日本電報通信社撮影)
スピードスケート元日本代表の木谷徳雄(左)。石原省三(右)らとともに、1932年レークプラシッド五輪に出場した=昭和6年1月(日本電報通信社撮影)

冬は氷点下に冷え込む満州では、日本人を中心にスケートが盛んだった。土のグラウンドにも水をまけば厚い氷が張り、小学生はスケート靴持参で学校に通ったという。

冬を通じて練習に打ち込める恵まれた環境下で、多くのスケート選手が輩出された。昭和初期の大会記録を見ると、後に冬季五輪の開催地となった北海道や長野の選手に交じり、満州の選手が上位に顔を出している。レークプラシッド五輪では、スピードスケートの日本代表4人のうち3人を木谷ら満州勢が占めた。

木谷は五輪直後に開催された世界選手権にも出場したが、ほどなくして第一線を退く。五輪でともに日の丸を背負った3人の仲間が指導者などに転じ、戦後もスケート界で活躍したのとは対照的に、木谷の名がその後、表舞台に登場することはなかった。

「最後に母が私を連れて部隊まで会いに行ったそうだが、まだ幼かったし、記憶がないんです」。木谷の長男、吉勝さん(80)=兵庫県西宮市=は話す。

木谷は昭和19年、満州で応召し、先の大戦に身を投じていた。満州には終戦と前後して旧ソ連が侵攻。前線にいた木谷はシベリアで抑留され、3歳だった吉勝さんは母と祖母に連れられて日本へと引き揚げた。乳飲み子だった弟はその道中で病死したといい、「幼い子を連れて母は必死だったはず。よく生きて帰ってくれたと思う」。

着の身着のまま満州を離れた母が唯一持ち帰ったのが、五輪マーク入りのバックルだった。「優勝カップなどは井戸に捨ててきたと聞いた。それでもこれだけは、と思ったのかな」

木谷は内地の土を踏むことなく、22年1月にシベリア南部チタ州の収容所で病死。75年がたった今も、遺骨は帰ってきていない。吉勝さんにとって、父は写真でしか知らない存在だ。それでも「おやじはすごかったんだなと今になって思う」。色あせた形見に思いをはせる。

木谷が生まれ育った中国大陸で初めて開催される冬季五輪。スピードスケートは5日に号砲が鳴る。(鈴木俊輔)



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