『新撰字鏡』に見える「鰠」字反切の誤写
先日、無聊を託っていたので『新撰字鏡』をぱらぱらと見ていると、奇妙な反切があることに気付いた。
「鰠」字に対して「蘓(=蘇)連反」と音注しているのだが、『広韻』で豪韻字(騒小韻)にあたる鰠の反切下字に何故「連」が用いられているのか、と首を傾げた。『新撰字鏡』の反切に誤写がいくつか存することは夙に指摘されているが(上田1981)、これもその内の一つだろうと思い、とりあえず『広韻』を開いてみることにした。
「騒」字の反切には「蘇遭切」とある。もしや「遭」を書き誤ったのではないかと勘繰ったが、字形は言うほど酷似しているわけでもない。昌住がこの箇所において依拠した切韻は他の本であるかもしれないので、別の切韻系韻書も見てみることにする。(『新撰字鏡』の所拠切韻に関する研究もいくつかあるようだ)
箋注本では反切下字の「遭」字の字体がやや異なり、「曹」の上部の縦画が一本しかなく、かつ中央にあることが分かる。これは「車」の上部と同形であり、「連」に誤写する心理が働いたとしてもおかしくはない。他の本も以下に挙げる。
後者も同じく「連」に似た字体であり、おまけに「蘇」の字体も一致している。昌住が見たのは、少なくとも「遭」の当該異体字が書かれていた本で、その字が不鮮明であったか、あるいは字形の類似による散発的な誤写であったかもしれない、とひとまず私の中で得心が行った。
また、『新撰字鏡』の「鰠」字の右下辺りに「鰱」字があり、その旁の「連」に牽引されて同化してしまった可能性も最後に指摘しておく。(同化現象に関しては笹原2007に様々な例が挙げられている)
【参考・引用文献】
・京都大学文学部国語学国文学研究室 編『天治本 新撰字鏡(増訂版)』(臨川書店)、1967年
・上田正「新撰字鏡の切韻部分について」 『国語学』第127集(日本語学会)pp.13-20所収、1981年
・笹原宏之『国字の位相と展開』(三省堂)、2007年
・陳彭年等 重修『校正宋本廣韻』(藝文印書館)、2017年
・周祖謨編『唐五代韻書集存(上下)周祖謨文集第6巻』(中華書局)、2023年
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