わたしと伊吹さんは生まれた時から、或いはわたしが産まれる前からずっと一緒だった。
だとしたら、わたしは何時から彼に恋していたのだろう。
小さい頃のことはあまりよく覚えていない。
だけど、少なくとも、わたしが幼稚園に通っていた頃は彼の事を血の繋がった兄だと思っていた。
その認識が変わったのは小学校に入学した時。
初めて名札というものを胸に付けて、嬉しくなった一つ上の学年の教室まで走って、そして彼の名札とわたしの名札を見比べた時だった。
意味が分からなくて。
訳が分からなかった。
実は兄弟じゃなかったなんて、そんな事が頭に過ぎることは全くなく、わたしは家に帰ってすぐ母に問いただした。
『おかあさん、いぶ
──その後のことは、あまり覚えていない。
記憶の片隅に残るのは、泣き叫ぶ母の声とそれを宥める父の背中。そして、申し訳なさそうにわたしを撫でる伊吹さんの手だった。
その時からだっただろうか。
わたしが彼を意識し始めたのは。
兄ではなく、友人でもなく。わたしの中で彼は特別な存在となった。
その辺りから、家で伊吹さんと会うことは少なくなった。
一緒には暮らしていたのだろう。だけど、かつては地主でもあった祖父の建てた家はわたし達だけで暮らすには余りにも大きく、伊吹さんが避けようと思えば家の中で遭遇することはほとんど無くなった。
母の態度もどこか余所余所しくなって、彼も他人行儀に振る舞うようになった。
そして、わたしも。
『
『…………もう、兄さんとは呼ばないんだな』
『………………っ』
『いや、責めてる訳じゃない。俺も、育ての親の気まずそうな顔は見たくないからな』
両親は虐待をした訳じゃない。彼らなりに伊吹さんを可愛がっていた。……それが、わたしと兄さんへの愛には及ばなくても。
伊吹さんはその愛に気づいていたのか。それとも、何度も警察沙汰を引き起こして迷惑をかけていることに罪悪感を抱いていたのか。彼も両親に気を遣うようになって、彼らには独特の距離感が生まれた。
それは両親の子供であるわたしにも適用された。
幼少期と比べて、わたし達には距離ができた。
兄さん…………裕也兄さんは兄弟ではなく友人としてその距離を詰めたようだけど、わたしには同じことはできなかった。
そして、極め付けは一年前の春。
伊吹さんが高校に入学する直前のこと。
『本当に……行っちゃうんですね』
『ああ、いつまでも迷惑かける訳にはいかないからな。それに、この街から離れる訳じゃねぇよ』
『それでも、一人暮らしなんて……』
『お前もあの人達も心配性だなぁ。ほんとは遠いとこで寮暮らしする予定だったのに、いつの間にか近くのアパートで家賃は払ってくれる事になってたし……』
わたし達は一緒に暮らすこともなくなった。
わたし達は家族じゃなくなった。
心の距離だけじゃない。
物理的にも伊吹さんとの距離が広がる。
だけど、距離に反比例するようにわたしの
毎日のように電話をかけた。
毎週のようにアパートに通った。
兄さんに無理を言って、二人のお出かけに連れて行ってもらった。
志望校はもちろん同じ高校、合格発表でわたしの番号を見つけた時は思わず伊吹さんに抱きついて喜んでしまった。
そこからは夢のような日々だった。
道を覚えていないなんて嘘をついて、一ヶ月間登下校について来てもらった。寄り道をして、兄さんに怒られたりもした。
友達が出来ていないなんて法螺を吐いて、昼休みには一緒に昼食を食べた。お礼だなんて名目で、お弁当を作って手渡したりもした。
佐武真尋という恋敵もいたけれど、わたしには幼馴染というアドバンテージがあった。
だから、大丈夫だと慢心した。
──
二度も異能を使ってしまった。
心の中でそう危ぶむ。
一度目は空間を叩き割った時。
異界化した空間は実際の位置座標とはズレている。そのズレを利用して、一瞬だけ異界を無効化することで折手メアへのショートカットを図る為だ。
電話を使って折手メアへの空間を繋げたことも含めて、全てジェンマが考えてくれたことだ。
二度目は俺の偽物を消し飛ばした時。
よく分からないが、どうせ折手がいらない事をしたのだろう。面倒なことになる前に倒した事に後悔はない。
だけど、
あと四度のチャンスで目の前の少女を救わねばならない。
「答え合わせをしようぜ、椎菜」
金に染まった椎菜の髪が揺れる。
暗く、澱んだ瞳を睨みつける。
「答え合わせ、ですか?」
「ああ。既にお前がディートリヒじゃないこと、その上で学校の事件を引き起こした事は分かってんだ」
しかし、疑問は残る。
椎菜の動機が分からない。
ディートリヒなら兎も角、椎菜が凶行に及んだ理由があるはず。
そして、俺はその理由に心当たりがあった。
「答え合わせ……ということは、何となく分かってたんですね」
「俺も、そんなに鈍感じゃねぇ。ずっと一緒にいて気づかない訳ないだろう」
伊吹さんなんて呼び方をされた時からずっと考えていた。
信じたくない、それはきっと真実。薄々勘づいてはいたのだ。
決め手は折手の言葉。
椎菜がヒロインだと断言された時にその考えは確定されてしまった。
ごくり、と唾を飲む音がした。
俺か、それとも椎菜か。
緊張感に包まれた中、俺は指を差して告げた。
「
「…………………………はい?」
………………あれ?
なんか、思ってた反応と違う。
緊張感が弛緩したというか、ギャグが滑ったみたいな雰囲気になっている。
「え? 今までずっと恨んでると思ってたんですか? 伊吹さんのことを? わたしが???」
「そりゃそうだろ。お前ん
「あれはっ、お母さんが割り切れてないだけで伊吹さんの責任ではないです。そんなの、お母さんだって自覚してますよ?」
「いっ、いや、でもさ。何回も警察沙汰を起こして、親父さんにも迷惑かけてるし……」
「あれくらいのヤンチャは兄さんもやってますよ。別にそんなの気にしなくていいのに……」
裕也の深夜徘徊とは違って、俺のはヤンチャってレベルではないと思うが(去年の旧校舎破壊事件とか)。
それは兎も角、椎菜が俺の事を恨んでいるという絶対的な証明がある。
「俺が本当の兄じゃないって分かってから兄さんって呼ぶのやめただろ⁉︎ あれってテメェは家族なんかじゃねぇって気持ちの表れじゃないのかッ⁉︎」
「全然違いますよ⁉︎ それはっ、なんかこう……とにかく全然別の事です‼︎」
急に口調が敬語になったのも⁉︎*1
友達の前では関わらなくなったのも⁉︎*2
態度が余所余所しくなってたのも⁉︎*3
近づくと顔が赤くなるのも⁉︎*4
俺の事を恨んでるんじゃなかったら何なんだよ⁉︎*5
「嫌いな人の家に通う訳ないじゃないですか‼︎ 毎日の電話を何だと思ってるんですか⁉︎」
「家族じゃないにしても、俺の保護責任者が親父さんなのは確かだろ? だから、お人好しのお前は俺の面倒を見に来て──」
「伊吹さんはわたしを美化しすぎです‼︎ わたしっ、そんないい子じゃないですよ⁉︎」
だっ、だって……。
椎菜と言えば裕也に泣かされて俺に助けを求めてるイメージしかない。その後にネチネチと何ヶ月もかけて仕返しをしてたのも知ってるけど。
「えー、いやでもさぁ……折手はどう思う?」
「……キミはどの口が鈍感じゃないとか言ってるんだい? 超鈍感クソ馬鹿野郎じゃないか」
「折手⁉︎」
さっきまで俺の学ランの下でぐずぐずと泣いてた折手にまで刺される。
「栗栖椎菜はヒロインだって言わなかったっけ? ボクの勘違い?」
「聞いたよ。でも、それって今から好感度を上げて恋人にするってことだろ? なら今の好感度はゼロじゃねぇか」
「………………なるほど、なかなか奇抜な考え方だね。その深読み力をどうして別の場所で活かせなかったのかな?」
「辛辣!」
ツッコミ代わりに、学ランの上から銀の頭をくしゃくしゃと掻き回す。大したことのない戯れ。
だが、何が気に障ったのか分からないが、椎菜の瞳が更に暗くなる。ハイライトが失われ、視線だけで人を殺せそうなほど殺意が濃くなる。
「というか、恋する乙女の目の前で別の女とイチャイチャしてるのは流石にデリカシー無さすぎると思うよ。ボクでもドン引きする」
「何だよその言い草。まるで椎菜が俺のこと好きみたいじゃねぇか」
「──────────」
沈黙。
世界が、固まったように。
静寂が辺り一帯を支配する。
「ほんとッ、キミって奴は……‼︎」
「えっ…………………………マジで?」
俺の視線が椎菜に向けられる。
椎菜の顔が耳まで真っ赤に染まり、唇が震える。
そして、ダムが決壊するように
「〜〜〜〜〜〜〜っっっ、好きですっ‼︎」
椎菜は叫んだ。
声が真剣だった。顔が真実だと語っていた。
だから、俺はそれを茶化すことはできなかった。
「それは……」
「ライクじゃないですっ、ラブです! 家族愛でもないです。勘違いもしてません。わたしは、伊吹さんのことが一人の男性として好きでっ、愛していて、恋に堕ちています!」
怒涛の告白。
畳み掛けるように言葉を重ねる。
反論することは許されなかった。
「わたしのこと、妹だと思ってるのは知ってます。お母さんの事もあって、付き合う訳にはいかないのも分かってます。でも、それでもっ……少しだけでもっ、考えられませんか……? お試しでもいい、仮の関係でもいいんです!」
「………………………………、」
「わたしが伊吹さんの理想のタイプじゃないことは分かってます。わたしはカッコよくないし、口が裂けても自分が善人だとは言えません。でもっ、もう止まらないんです。……もう、止められないんです。伊吹さんはわたしにとってヒーローで、伊吹さんが世界で一番欲しい
「………………………………………………………………」
「言い訳が必要なんだったら、それもわたしが作ります。空にある黒い穴が見えますか? あれはこの星を呑み込むブラックホール、わたしが生み出した嫉妬心の塊です。きっと、わたしの恋が叶ったら消えてくれると思うんです。伊吹さんと付き合えたらっ、わたしは世界を救えると思うんです! …………だからッ」
頭を下げて。
片手を俺に突き出して。
震える足で、震える手で、震える声で。
「…………付き合って、くれませんか……?」
椎菜は告白した。
その言葉に嘘はなかった。
その言葉はきっと勇気が必要だった。
だから、俺も真剣に考える。
妹だから、なんて言葉はいらない。
一人の女性として、彼女の想いに応えてなければならない。
考えて。
考えて。
考えて。
考えて。
考えて。
五秒ほど考えた。
一瞬の思考。だけど、彼女にとっては永遠にも感じられる沈黙。
そして、俺は椎菜に向かって手を突き出した。
「
「椎菜は俺がお前を美化してるって言うけどさ、お前も俺のことを美化してるよ。俺はヒーローなんかじゃない。俺は、世界の終わりなんかで意志を揺らぐような善人じゃあない」
無言で、椎菜は自分の手を見つめる。
平手打ちの衝撃で彼女の髪を留めていたカチューシャが外れたのか、前髪が顔にかかる。
瞳も表情も黄金の髪に隠れて見えない。
「俺が付き合ったら世界が救われるだと⁉︎ 自分の行動の責任を他者に委ねてんじゃねぇよ! どんな原因があろうと、誰の影響があろうとッ、テメェの悪行はテメェのせいだろうが‼︎ 被害者ヅラしてんじゃねぇぞクソがッ‼︎」
幼馴染とか、妹とか、そんなの関係ない。
その言葉を聞いた瞬間に、俺の脳は沸騰していた。
「俺はテメェを救わない」
俺は、椎菜のヒーローにはなれない。
だって、俺はもう折手メアの
「俺の手は二つしかなくて、片手はもう折手に差し伸べた。だからテメェには、クソ野郎をブン殴る用の拳しか残ってない。悪いな」
そうだ、既に俺が選ぶ
運命の
あの日……折手メアに手を差し出した夜から、俺は最低最悪の
「………………………………ふふっ」
黄金の隙間から。
僅かに見える口が歪む。
「ふふふふふふふふふふふふふふふふふふふあははははははははははははははははははははっ‼︎」
狂ったような嗤いの後。
黄金の前髪をかき上げ、彼女は告げた。
「────
愛は
恋は
これよりは、〈
世界の命運を賭けた、世界で一番くだらない戦い。
直後。