ガチャリッ、と。
鍵を回して扉を開ける。
辺りは既に真っ暗だった。
みんなが寝静まっている時間帯。
そんな時刻に、ディートリヒは栗栖椎菜の家へ帰宅する。
母親は既に眠っている。父親は連続無差別焼殺事件の犯人を追っているため、最近は家に帰宅することがない。兄は……まだ夜遊びしているかもしれない。
念のため、帰りが遅くなるという連絡は両親に入れておいたが、随分と心配されていたことだろう。
(いかんなァ……第五位の安置に時間がかかったァ。明日の朝に問い詰められるかもしれん……何か言い訳を考えておかねばァ)
その姿は一見いつもと変わりがない。
だが、中身は全然違った。
栗栖椎菜の中にディートリヒが憑依している……という意味ではなく、表面上は治癒魔法で誤魔化せていても、体内の負荷までは治せなかったという事だ。
それほどまでにディートリヒは疲労していた。肉体、精神、魂、異能、その全てが。
「遅かったなぁ、椎菜」
「…………たっ、ただいま、兄さん」
栗栖裕也。
栗栖椎菜の兄で、六道伊吹の親友。
玄関で、その男は立っていた。まるでずっと椎菜の帰りを待っていたかのように。
「こんな夜遅くまで何をしてたんだ?」
「えっ、えーと、伊吹さんの所に行ってた……」
「ほえー、折手さんの次はうちの妹までお持ち帰りするとか……なかなかヤるねぇ」
「そっ、そんなじゃないってばっ‼︎」
必死に栗栖椎菜の記憶をひっくり返し、口調や癖を思い出す。顔を赤らめて手をワタワタと動かす。
まさかまだ起きているとは思わず、もう少しでボロが出るところだった、とディートリヒは少し焦る。
「あー、でも、母さんに聞かれてもそれは言わない方がいいだろうな……。適当に友達の家で遊んでたとでも言っとけ」
「えっ、どうして……?」
「いや、ほら、母さんは伊吹に……というか、
「…………え」
栗栖椎菜の記憶から該当する物が浮かび上がる。
ディートリヒは栗栖椎菜の全ての記憶を持っている訳ではない。記憶を見ることが可能なだけで、既にその記憶を知っている訳ではない。
インターネットで様々なことを検索できる現代人が、一方で全ての情報を得ている訳ではないように。
そして、浮かび上がった記憶はこうだ。
(
血が繋がっていると言っても、兄妹ではない。
はとこ、あるいは又従姉妹。
栗栖椎菜の母親と六道伊吹の母親が従姉妹だったのだ。
六道伊吹の母親……旧姓、
それが一七年前に突然椎菜の母の元に現れ、当時まだ赤子だった六道伊吹を預けて失踪した。“六道”というのは父親の苗字だったようだ。
栗栖椎菜は幼い頃、六道伊吹を実の兄だと思っていた。
その誤解が解けたのは小学生の頃。
伊吹さんを意識し出したのもそれくらいで───
「つーか、椎菜は折手さんをどうすんだ?」
「えっ⁉︎」
ドグン、と。
心臓が嫌な音を立てる。
ディートリヒの意思ではない。
これは肉体が反応している……?
「どっ、どうって……?」
「いやだから、伊吹が折手さんと急激に距離を縮めているようだけど、お前はどーすんのって話」
「べっ、別にどうもしないよ。わたしが何か言う権利なんてないし……」
「…………取られてもいいのか?」
「元々わたしの物じゃないもん。折手さんも綺麗だし、仕方ないよ………………いっ、いやッ、別に変な意味じゃなくてね⁉︎」
「ふーん。まぁ、いいけど……」
上手く演技できたのではないか、とディートリヒは自画自賛する。
恋というのは複数の感情が入り乱れる物であり、その反応も複雑だ。だから、元の栗栖椎菜のように振る舞うのが特に難しい。しかし、これは十分及第点が貰える出来だろう。
「あっ、そうだ。キッチンの方に夜食置いてあるから、椎菜もお腹空いてたら食べとけ」
「うん。ありがとう、兄さん」
キッチンへと足を向ける。
そこにはオムライスが置いてあった。
確か栗栖椎菜の好物だったか。グレた兄と同じように娘が反抗期に入ったと危惧した母親が、何とか機嫌を取ろうとしたのかもしれない。
(まずは回復が最優先だァ。栄養を摂り、疲労を治す。ヤツらも立て直すのに時間がいるはずである。先に万全に戻り、リクドウイブキが起きる前にもう一度奇襲をすr
「正義の鉄槌ッッ‼︎‼︎‼︎」
ドゴッッッ‼︎‼︎‼︎ と。
バリアなき頭に鈍い衝撃が炸裂する。
勢いのまま地面に転がり、何かが床に落ちた音を聞く。
そちらへ視線を向けると、そこには炊飯器。
そして理解する。
「おい、お前」
「にっ、にいさ……」
「その顔で俺を兄さんと呼ぶんじゃねーよ」
ガンッッ‼︎ と、首を膝で押さえつけられる。
両腕を手で固められ、立ち上がれなくなる。
栗栖裕也が警察官である父に仕込まれた逮捕術だ。
「誰だお前、本物の椎菜は何処だ?」
「なァッ、何故ばれてッ……⁉︎」
「バレるに決まってんだろ。俺は兄貴だぜ?」
異能は使えない。
この栗栖椎菜の貧弱な体では、固め技から抜け出すこともできない。
「椎菜は深夜でも、帰った時はただいまって言う。椎菜は体重を気にしてるから、寝る前に夜食は食べない。そして、
「たかがその程度の判断材料でッ、炊飯器を投げたのかァ⁉︎」
「俺が伊吹じゃなくて良かったな。俺は悪人であっても命を奪うことはないが、アイツなら初手から包丁だったぞ」
「うっ、うがァァアアアアアアアアアアッ‼︎」
「いいから質問に答えろよッ‼︎」
膝の下でもがく。
だが、圧倒的に筋力が足りない。
体格差を覆すことができない。
(マズイマズイマズイマズイィィ‼︎ 我は先程ッ、リクドウイブキを言い訳にしたァ‼︎ ヤツに連絡されればマズイことになるぞォ⁉︎)
仕方あるまい。
かくなる上は、全てを暴露する。
「本物の椎菜は何処だと聞いたなァ? だが、その質問は的外れだァ。我は変装をしているのでも、似た顔の持ち主でもないッ!」
「…………?」
「分からんかァ?
「な、に……ッ⁉︎」
一瞬、力が
首から膝が退けられることはない。
普通の悪人相手だと大したことがない隙。
その隙に栗栖裕也の手を振り払い、掌だけを後ろに向ける。
それは世界に刻まれた
つまり、
よって、異能が使用できないほど疲労したディートリヒも、
「さぁ、貴様はどんな
魔の手が栗栖裕也に触れた。
白く細い指が彼の右目を抉る。
異能が、前世の記憶が、強制的に引き摺り出される。
「あがァァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッッ⁉︎」
「フハハハハハハハッ‼︎ こんな形で新たな手駒を増やすとはなァ‼︎」
栗栖裕也の肉体がナニカに置換されていく。
間違いなく、
一言で表すなら、
それは人型、シルエットだけならば人間に近い。
しかし異形、頭も皮膚も人間よりは蟲に近い。
目は複眼、皮膚は甲殻、背中には翅がある。蟲のようになった人間というより、人間に近い形へと収斂進化した蟲といった印象を受ける。
「しかも、人外転生であるかァ……都合が良いなァ‼︎」
転生には、主に三つのタイプがある。
一つ目は、混ざり合う形。
主に前世が人間と近い精神構造を持っている時に起こりやすく、前世の人格と現世の知識が融合する。記憶を思い出す時期が幼い時であるほど、現世の人格の影響が小さい。
大半の転生者がこの形で転生し、草薙大史やアドレイドなどもこれに当たる。ただし、折手メアのように産まれた直後に記憶を思い出したため、現世の知識が存在しない場合もある。
二つ目が、分離する形。
主に憑依転生など魂自体が二つある時に起こりやすく、前世の人格と現世の人格が共存する。肉体の主導権は基本的に前世側に存在する。
ただし、ディートリヒのように共存と言いながら、一方の人格がもう片方の人格を自由に利用できる場合もある。
そして、最後。
前世と現世で精神構造が大きく異なるため混ざり合うことは出来ず、しかし魂が一つのため分離することも出来なくなった場合。
『ジジジジジジジじじじじじじじじザザザザザザザザザザざざざざざざざざざざざざざざッッッ‼︎‼︎‼︎』
「ハッピーバースデイッ‼︎ 現世の人格は消滅したようであるなァ‼︎」
ほとんどの人外転生の結末。
救いの無かった白川日向の成れの果て。
どの勢力にも所属できない、理性なき
「耳障りな
ソファの方へ弾け飛ぶ。
「クソがァ‼︎ 上下関係すら分からんかァ⁉︎ これは
『ジジジジジジジじじじじじじじママママママまままままテテテテテテテテテテテてててててててててててェェエエエエエエエえええッッッ‼︎‼︎‼︎』
「喧しいィ‼︎」
首から上が完全に消滅する。
反射的に殺してしまった。
「チィッ……やり過ぎ───」
『ママままままダだァァアアアアアアアッ‼︎‼︎』
首から上が無いのに怪人は言葉を発した。
いや、元からこの生物には声帯がなかった。
声のように聞こえるのは、喉ではなく羽の高速振動が発している音。
そして、本当に蟲ような生態を持っているならば、頭が消えても動いていることに不思議はない。
だから、問題は別にある。
前世の人格には理性がなく、話せたとしても前世の言葉でしかない。
だから、つまり。
『おおオオれレはァァぁぁ、しイなヲぉぉォォ、まモるゥッッッ‼︎‼︎‼︎』
「
片方が消滅する形。
それは、現世の人格が消えるとは限らない。
「相手は死すら超える執念ッ、魂に染み付いた人格であるぞォ⁉︎ 貴様程度がどうやって打ち勝ったァ⁉︎」
『イのウとやラが、タマしいにヨルものデモ、それヲつかうノハおれのカラだダ。だッたラ、オレにだってチャンスはアッたッ‼︎』
「…………前世の精神を凌駕した、のかァ? 生物の一生を圧縮した情報量をッ⁉︎」
『オレからもキかせてもらうぞ。ナゼおマエはこんなことをする?』
怪人の
この短い間に成長を遂げる。
『オレのイモウトにテをダして、オレのタマシイをイジクって。アげクのハてには、オレのシンユウをコロすだと? ふざけるなよ‼︎ なにがモクテキだぁ⁉︎』
「決まっているだろォ‼︎ 生きるためだァ‼︎‼︎」
即答だった。
ディートリヒは情けない言葉を口走る。
『生キる、ため……?』
「そうだァ! 我はまだ七百年しか生きていないんだぞォ⁉︎ もっともっと生きたいッ‼︎ もっともっと人生を謳歌したいッ‼︎ もっともっとこの世の娯楽を貪り尽くしたいッ‼︎ その為に他者を踏み躙ることの何が悪いッッッ?」
『ゲンダイの娯楽にフれてんなら、不死がイいものじゃないと分からなかったのか? 死にたくてもシねない苦しみをソウ像できないのか? 馬鹿ヤロウが……‼︎』
「馬鹿は貴様だァ‼︎ 死にたくても死ねない苦しみを想像できるのなら、何故死にたくないのに死ぬ苦しみを想像できないッ⁉︎ 生か死かの両極端な二択などではないッ‼︎ 生きたい時に生きッ、死にたい時に死ぬッ……それが幸せなのだと何故分からん⁉︎」
『オマエ…………』
大層な理由なんてない。
ただ生き足掻くだけの怪物。
栗栖裕也の
『…………なんかフツウだな』
「……あァん?」
『オレの知っているヤツはもっとめちゃくちゃな理由で暴力をフルっていた。伊吹のヤツなんか、カツアゲしてた不良のハラん中に大量の小銭をツめコんで病院送りにさせたこともある。イラついたって理由だけで、小六のヤツが高校生をアイテにだゼ?』
「…………ッ⁉︎」
『だから、オマエは伊吹に比べると何処にでもいるフツウのヤツだよ』
「………………………………………、」
ふつう、と。
そう言って欲しかった
異世界人の常識は、この世界の非常識だ。
つまり、この世界にとって普通の感情を持つディートリヒは………………。
『オレは椎菜を不幸にするオマエを絶対に許しはしない。……だけど、死に怯えるオマエは本当にアワれだよ。ここで終わらせてヤル』
「癪に障るッ! ここで終わるのは貴様だァ‼︎」
異能が使えない今、頼れる力は一つしかない。
しかし当たらない。
ダダダダダダダダンッ‼︎ と。
栗栖裕也が室内を跳び回る。
床、壁、天井。足の踏み場所に関係なく高速で飛び跳ねる。それはバッタか、あるいはスーパーボールのように。
(速いッ‼︎ しかもまだ速くなっているッ⁉︎ このままだとすぐに音速を超えるのではないかァ⁉︎)
それが栗栖裕也が手に入れた異能の性質か。
超常的な現象など何も引き起こさない。
ただ単純に身体能力だけを突き詰めた肉体。
発現したばかりの異能の底は知れず、その
「……今すぐに殺す。まとめて吹き飛ばすかァ」
ドシャッ‼︎ と。
栗栖裕也一人を殺す為に、家を一軒丸ごと消滅させる。
そして、それだけじゃない。余波で住宅街の一軒家が纏めて倒壊する。
しかし、それでも栗栖裕也を仕留め切れない。
(…………咄嗟に壁を突き破って逃げたなァ。仕切り直しかァ? だが、これ以上騒動を大きくする訳にいかんぞォ。今の内に我も───)
「───がァッ⁉︎」
ギチギチギチギチッ‼︎ と。
万力によって、首を絞め上げられる。
(ヤツは距離を取って逃げたはずだろォ⁉︎ 一体どうやって……ッ‼︎⁉︎⁉︎)
「あッ…………いき、が……ッ‼︎⁉︎⁉︎」
気道を塞がれて息ができない。
その上、頚動脈洞が圧迫されて脳に酸素が行き届かない。
首をガリガリと引っ掻き、なんとか手を引き剥がそうとするが、栗栖裕也の右腕は
(死んでしまうぞォォオオオオオ‼︎ 一か八か、右手を
ディートリヒは首を掴む右腕に向かって言った。
右腕が魔力に変換され、消滅する。
そして、その力は栗栖椎菜の体にまで及び───
───
『ジジジじじィっ、ザザざざざア⁉︎』
「貴様ならそうするだろうと思ったぞォ‼︎ 妹想いの貴様はッ、たとえ中身が我と分かっていても我を守らざるを得ないとなァ‼︎」
栗栖裕也の胸から下が消滅した。
機動力を削いだ、得意の脚ももう使えない。
無論、相手は蟲の如きモンスター。頭を無くしても動き、右腕だけでも役目を果たすキショい化け物。この程度で止まるとは思わない。
ディートリヒは油断することなく、胴体に手を当てた。
「何か遺言はあるかァ?」
栗栖裕也は呟く。
ディートリヒの、その奥を見据えて。
『……お前、それでいいのか?』
「…………?」
『折手さんに……
ドグンドグンッ、と。
心臓が嫌な音を立てて激しく脈打つ。
『異能の源となるのが魂でも、それを使うのは肉体だ。だったら、お前にだってチャンスはある』
「貴様はなにを…………」
『俺とコイツの実力差は大きかったけど、お前とコイツの条件はイーブンなんだぜ。だったら、うじうじしていないでさっさと立ち上がれよ』
「何を言っているッ⁉︎」
もう猶予はなかった。
遺言などと甘いことは言わず、さっさと
肉体が消滅する直前、最期の言葉が聞こえた。
『挑戦しろよ、椎菜。伊吹を諦めるなんてお前らしくねーぞ』
ゴバァァッ‼︎‼︎ と。
今度こそ、怪人の肉体は完全消滅した。
塵一つ残さず、復活の可能性を刈り取る。
終わった、ディートリヒはそう考えた。
しかし、終わってなどいなかった。
始まりはここからだった。
一番初めに気づいた違和感は左眼。
ぐりんっ、と眼球が勝手に動く。
気色悪く感じて、左眼を抉り出そうと左手を持ち上げる。
その左手首を、右手が掴んだ。
そして、その時にはもう手遅れだった。
「…………あ?」
(何だァ? 何が起こっているッ? 何故我の肉体が我の制御を離れてッ⁉︎)
徐々に、動かせる部分が少なくなっていく。
全身から半身へ。半身から四肢へ。四肢から腕へ。腕から手へ。手から指へ。指から指先へ。
「…………いぶき、さん………………」
「なァッ、口が勝手にィ……ッ⁉︎」
「伊吹さん伊吹さん伊吹さん伊吹さん伊吹さん伊吹さん伊吹さん伊吹さん伊吹さん伊吹さん伊吹さん伊吹さん伊吹さん伊吹さん伊吹さん伊吹さん伊吹さん伊吹さん伊吹さん伊吹さん伊吹さん伊吹さん伊吹さん伊吹さん伊吹さん伊吹さん伊吹さん伊吹さん伊吹さん伊吹さん伊吹さん伊吹さん伊吹さん伊吹さん伊吹さん伊吹さん伊吹さん伊吹さん伊吹さん伊吹さん伊吹さん伊吹さん伊吹さん伊吹さん伊吹さん伊吹さん伊吹さん伊吹さん」
ディートリヒの天敵はずっと
心の奥底から、秘められし
その少女の名は。
(
もはや口すらも動かせなかった。
肉体だけではない。
(ヤメロォォオオオオオオオッ‼︎ 我は
「知らないんですか? 恋の力は無限大なんです‼︎」
(ふッ、
ディートリヒの意識は端に追いやられ、最終的に辿り着いたのは暗闇の棺だった。
暗い、何も見えない。身体の動きは鈍く、弱い。周囲の音は辛うじて聞こえるが、水底に沈んでいるように不気味な反響で聴き取りづらい。何か柔らかい壁のような物に囲まれている。
(何処だァ⁉︎ 我は今どうなっているッ⁉︎)
「あっ、そこは
(はァァアアアアアアアアア⁉︎ よりにもよって何故そんな所に我を封じ込めたァ⁉︎)
「え。だって、それってディートリヒさんの体ですよね? わたしは要らないし、じゃああげちゃおっかなって」
(⁉︎⁉︎⁉︎)
「大丈夫です、ちゃんと産みます! 夢だったんですよねぇ、学生結婚! 伊吹さんならきっと妊婦のわたしでも受け入れてくれるはず……‼︎」
ワケが分からなかった。
余りにも異常なその考え方。
普段の栗栖椎菜ではない。その証拠に、実の兄が死亡したことに何も感じていない。恋に夢中で、何も見えていない。
しかし、ディートリヒの人格でもない。そもそも彼には他人を愛するという感情は存在しない。
つまり。
「あっ、そうでした。確か、『枯渇』の摂理って概念とかでも奪い取れるんでしたっけ。伊吹さんをイジメてた時に言ってましたよね」
(何をするつもりだァ……⁉︎ オイ、待て貴様ッ、まさかァ……ッッッ⁉︎)
「
(ああアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッッッ‼︎⁉︎⁉︎)
異能も知能も取り上げられる。
魂で覚えていた記憶すらも剥ぎ取られる。
ディートリヒという存在が消える。
「安心してください。わたしと伊吹さんの息子として可愛がってあげますから、真っ
ぐちゅぐちゅ、と。
唯一残った肉体すらも陵辱される。
ディートリヒという人格は怪物に丸呑みされた。
椎菜の髪が黄金に染まる。
それこそは
食べた物が血肉となるように、吸収したディートリヒが栗栖椎菜を構成する物質の一つとなった。
静寂を辺りが包む。
一日振りのひとりぼっち。
もう魂から声が聞こえることはない。
暇つぶし代わりに、吸収したディートリヒの記憶を閲覧する。
「そっか、折手さんってそんな人だったんですね……」
真っ先に調べたのは折手メアの素性。
彼女の最大の恋敵。
折手メアの人柄、性格、所業、異能を知った。
(兄さんは『伊吹のことを絶対に諦めない』とか言ってましたけど、わたしだって普通の女の子なんですから心が折れることくらいあるんですよ)
折手メアのことは入学前から知っていた。
ナンパすら躊躇うほどの絶世の美少女。
そんなのが六道伊吹の同級生と知って、それなりに焦りもした。
(だって、あんなの反則です。手入れもしていないのにツルツルの肌に、生まれ持った色からして美しい銀色の髪。わたしだってそれなりに可愛いと自負してますけど、あんな天然モノの宝石に敵うわけないじゃないですか)
だから、昨日の放課後に折手メアが六道伊吹を連れ帰ったと聞いた時は本当に諦めかけた。
今日一日、ディートリヒを通して六道伊吹と折手メアが協力しているのを知って本当に辛かった。
綺麗な折手メアに嫉妬して、だけど折手メアは六道伊吹を助けてくれて、それでも六道伊吹の隣に立つ折手メアを憎んで、そんなに自分に嫌気が差す。折手メアを引き剥がしたかった。でも、自分の感情だけでそんな酷いことをする訳にはいかなかった。
肉体を動かせない暗闇の中、ずっとそんな自己嫌悪が反芻されていた。
辛くて辛くて辛くて辛くて辛くて辛くて辛くて辛くて辛くて辛くて辛くて辛くて辛くて辛くて辛くて辛くて辛くて辛くて辛くて辛くて辛くて辛くて辛くて辛くて辛くて辛くて辛くて辛くて辛くて辛くて辛くて辛くて。
でも、もう大丈夫。
(
清々しい気分だった。
もう
これからは
ハッピーバースデイ。
ディートリヒが栗栖裕也に向かって言った言葉を思い出す。
そうだ、栗栖椎菜は今ここに生まれ変わった。
焦土となった住宅街の上で。
「見てて下さい、伊吹さん。わたしの手であの女から救い出してあげます」
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