島田裕巳@7刷決定『教養として学んでおきたい神社』マイナビ新書

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島田裕巳@7刷決定『教養として学んでおきたい神社』マイナビ新書
@hiromishimada
宗教学者で作家の島田裕巳です。仕事柄、宗教にかかわるような事柄が中心になるかもしれませんが、映画や歌舞伎、オーディオプレーヤーなどについて発信していきたいと思います。
東京都世田谷区shimadahiromi.comJoined March 2011

島田裕巳@7刷決定『教養として学んでおきたい神社』マイナビ新書’s posts

統一教会と創価学会では信者の数は100倍くらい違う。したがって、創価学会の方がはるかに身近。SNSでは、統一教会ではなく、創価学会に解散して欲しいという声が大きい。その点で、創価学会も難しいところに来ている。さらに批判の声は、宗教全般にも及ぶかもしれない。
神社に行くと、「二礼二拍手一礼」が正式な作法と強調されている。だが、そのやり方は、明治8年の「神社祭式」で定まったものがもとになっていて、明治以前には存在しなかった。明治以前の神仏習合の時代には、神と仏は同時に祀られていたので、合掌と拍手の区別はできない。
庶民が火葬した遺骨をおさめる墓を建てるようになったのは、戦後になってから。土葬時代は墓など庶民はまったく作らなかった。その点で、墓は高度経済成長が生んだブームの一つ。ブームにはいつも終わりがある。だから、最近になって墓じまいが増えている。ブームの後処理だ。
バンス米副大統領が旧統一教会関連行事で講演 「宗教の自由はトランプ政権の重要課題」 sankei.com/article/202502 より 仮に旧統一教会に解散命令が出ると、アメリカから宗教の自由に反するとクレームがつく可能性がある。
創価学会というのは、日本全体に信仰を広める「広宣流布」とか、「国立戒壇の建立」とか、壮大な大義を実現するための宗教団体だったのに、この2つを目標として失い、公明党・自民党を支える選挙に活動の中心を移したことで、宗教団体としての意義を失った。根本的に矛盾した状況にある。
創価学会は都会の単身者や結婚したての家庭に仏壇を祀らせる運動でもあった。そうした家は先祖がいないので、本尊を祀った。ところが、家で座談会をやるので、幹部は豪華な仏壇を購入するようになり、金のかからないはずの宗教(戸田城聖曰く)が金のかかる宗教に変貌した。
創価大学の駅伝が強くなったのは、学会員ではない駅伝に強い選手を入れたから。2年間で創価高校出身は東西合わせてたった2人。駅伝に創価大学が力を入れるということは、大学を成り立たせる上で、創価学会があてにならなくなったということ。創価大学の学会離れが進んでいる。
池田大作氏の夫人香峯子さんが、「10年以上前に『この後は、妙法に説かれる不老不死のままに永遠に指揮を執る』と語りつつ、幸い全てを託してバトンタッチできました」と述べていることは重要。それ以降の、池田氏のメッセージや声明、歌は、代作だという意味だろう。
墓参りという習慣も、火葬が普及してから。土葬の時代には、庶民は墓など作らなかったし、土葬したところに参ったりはしなかった。戦後、マイカーが普及し、郊外に家族で出かけるようになって、今風の墓参りが普及した。新しいものだけに、伝統がなく、だから無縁墓が増えるとも言える。
創価学会も、『新人間革命』の連載が終わり、『SGIグラフ』は休刊。『創価学会ニュース』も月刊が隔月刊に。これはやはり池田時代の終焉ということだろう。組織のなかに池田氏のような指針を示せる人材がいない。佐藤優氏頼みという事態が生まれているのも、そうしたことが関係している。
旧皇室典範で養子を禁止し、戦後の新しい皇室典範では側室を認めなくなった。しかも皇室の藩屏である華族を廃止し、旧宮家は皇籍臣下。そのうえ、万世一系をうたい、摂政についても皇族に限定した。これで皇統の継承がつつがなく進められるはずがない。近代の日本社会は天皇の不在を前提としたのだ。
神社本庁を離脱するという金刀比羅宮は、庶民信仰の場から、皇室重視の路線をとるようになり、その立場から、神社本庁が生ぬるいとみているのではなかろうか。意外と事態は複雑かもしれない。金刀比羅宮の祭神が大物主で、金毘羅大権現など祭られていないことはあまり知られていない。
社会学的に考えると、創価学会の役割は終わったように思える。高度経済成長の時代に都市に流入した下層階級に生活の基盤と識字能力を与えたが、その際には、自分たちが正しいという折伏の論理が必要だった。それが、会員も経済力を身に付け、その必要がなくなり、穏健な教団に変貌しつつある。
神社の社殿の歴史をたどっていくと、現存するもっとも古いものは宇治の宇治上神社の本殿になる。これが11世紀のもの。なかなか全貌が分からないが、神社の社殿が一般化するのは、平安の終わりから鎌倉にかけてのことで、それ以前は本殿も拝殿もなく、鳥居だけがあったところが多いようだ。
創価学会には、ぜひ教学的にも脱日蓮正宗をしてほしい。座談会などで取り上げられる「御書」(これも学会正宗用語)は多くが写本しかない偽書。「御義口伝」など、日蓮の高い知性を完全に裏切っている。実際の日蓮を知ることが、創価学会には一番必要なことではないのか。一日蓮ファンとしてそう思う。