サンライト カーニバル、Kukuna、の曲、ハワイの段のハパ ハオレ ソングの説明に

入る前にやはりハワイ王国の歴史について簡単に見ておくのが良いと思います。

というのは、ハパ ハオレ ソングの出現にはハワイの合衆国編入が大きな要因と

なっていることは間違いないからです。

 

ハワイ王国の歴史の捉え方によってはいろんな考え方が出てきます。また、現に

ハワイで生活されている方々に関係するかも知れません。従って、ここでは事実のみ

紹介するにとどめます。ただし、歴史上の事実であっても、それを記述するのか

無視するのかによっても一つの考え方を示したことになることには注意しておいて

下さい。

 

ハワイ王国(Aupuni Mōʻī o Hawaiʻi)の歴史(注1

     「ハワイのフラ」
     1779年 ディスカバリー号(クック船長)船医サミュエルの報告

1795年
     ハワイ王国建国(カメハメハ1世)
1810年
     全ハワイ諸島統一(カメハメハ1世)
1820年
     米プロテスタント宣教師たちが到着

     「ハワイ語」
          1822年 アルファベットによるハワイ語の確立。
     1834年 ハワイ語新聞の発刊:6月「カ ラマ ハワイ」(マウイ島)、
         10月「クム ハワイ」(ホノルル)

     「公共でのフラ禁止」(カメハメハ2世の時代)
     1830年 クイーン・カアフマヌ(カメハメハ1世の王妃)による条例。

1835年 	
     カウアイ島のコロアで製糖会社が設立される。以後、製糖業が盛んになる。
1840年
     憲法制定(カメハメハ3世)

        「日本」
        1841年 捕鯨船に鳥島で救助されたジョン万次郎がホノルルへ寄港。

     「第一回ハワイ文化復興運動」
       フラの禁止を緩和(カメハメハ5世)
             1874年 「Hawai'i Pono'ī」を国歌とする(カラカウア)
       1874年 フラ(フラ・カヒコ)の正式な解禁(カラカウア)
       フラ・アウアナの誕生(カラカウアの時代)

        [ハワイー日本]
        1867年(慶応3年 ) 日布(日本ハワイ)親善協定 (注2
        1868年(明治元年) 民間の第1号移民団153名がハワイに渡る。
                  (注3

1875年3月
     米布互恵条約調印(カラカウア) ー 排他的領土特権(米国以外の国
                      への領土の貸与の禁止)
     76年より施行。結果、ハワイの砂糖産業の爆発的拡大。
1881年  
     カラカウア国王、世界一周旅行に出る

        [ハワイー日本]
        1881年 カラカウア国王の来日、明治天皇に謁見
        1885年 日布移民条約が締結され官製移民団が組織される。(注3
        1885年〜1894年 官製の移民総計29,339人がハワイに渡る。

1887年7月
     修正憲法(銃剣憲法)公布 ー 在地米国人に依るハワイ支配の確定
1887年11月
     米布互恵条約改定 ー 米国海軍の真珠湾の独占的使用権。
1891年1月
     リリウオカラニが女王に就任。
1893年1月16日
     米海軍艦ボストン、ホノルルに到着。
1893年1月17日
     ハワイ臨時政府
        [日本]
        1893年2月23日
             在留邦人保護のため巡洋艦「浪速」がホノルル港に
             寄港。(注4
        1894年1月17日
             ホノルル港再寄港の「浪速」が臨時政府1周年の祝砲
             拒否。(注4
1894年7月4日
     ハワイ共和国の成立
1895年1月6日
     王政復古を求める武力蜂起が起きるが、結局、鎮圧される。
1895年1月16日j
     リリウオカラニ女王逮捕、廃位、イオラニ宮殿に8ヶ月間幽閉。(注5
1898年8月12日 
     米合衆国、ハワイの編入宣言。
1900年4月30日
     米合衆国、ハワイを準州とする。
1959年8月21日
     米合衆国、ハワイをの50番目の州とする。
1964年
    「メリー・モナーク・フェスティバル」が始まる。(注6
1970年代
    「第二回ハワイ文化復興運動」
      「メリー・モナーク・フェスティバル」がフラを中心として再出発

(注1:ここでは事実のみを羅列する。事実の背景や影響を議論すると歴史的価値
判断が求められるが、それは我々の目的にはそぐわないと思う。

(注2: 当時の東京にはハワイ王国公使が駐在しており、群馬県の伊香保温泉
にはその別邸も現存する。

(注3:「ハワイの人口激減」 カラカウア王のの時期、ハワイ人の人口が減少の
一途をたどっていたことは、ハワイ人の活力の低迷と労働力不足という深刻な問題
を惹起した。18世紀末の西洋人との接触以降、白人によってもたらされた伝染病
の蔓延によって、キャプテン・クックがハワイに訪れた1778年時点で約30万人いたと
推定されるハワイ人は、1823年には142,050人へと半減し、カラカウアの即位から
4年後の1878年には44,088人へと激減した。つまり、ハワイ人の人口は100年前と
比較して25万人あまり、率にして86パーセントも減少したのである。

(注4:「浪速」のホノルル寄港には二説ある。一説では上記のように二回寄港した
と言われるが、もう一説では1893年の11月にホノルルに寄港し翌年の1月まで滞在
していたと言われる。リリウオカラニの自伝では後者の記述があるようである。
日本側の記述には前者が有力のようなので、あるいは女王が1893年の寄港と1894年1月
の出来事を連続したことと考えてしまったためかも知れない。

(注5:2月27日に5,000ドルの罰金と5年間の重労働の判決があるも、9月6日に釈放。
その間に「Ku`u Pua I Paoakalani 」作曲。良い曲ですね。なお、「Aloha 'Oe」は
この時に作った、ハワイ国民への別れの歌だと語られてきましたが、女王の自叙伝に、
1878年のマウナヴィリへの小旅行中のエピソードから生まれたラブソングだと書かれ
ている。女王一行の男性に想いを寄せる女性が彼を見送る姿からインスピレーション
を受けて、「アロハ(愛)があなたとともにありますように」という想いを歌にした
ものであるらしい。

(注6:「メリーモナーク(陽気な国王)」とはハワイ王国第七代国王カラカウアの
愛称。
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