表象の読解の必要性
以上のような考えは性的な女性表象をめぐる議論の整理に役立ちます。
まず当然のこととして、身体の露出や裸体、性行為や性暴力を描くことそれ自体は、そこに性的客体化が表現されているかどうかとは別のことです。性的客体化の技法抜きにそれらを描くこともでき、そのときはフェミニズムの観点からはそれらは差別的ではないということになるでしょう。
また、問題は表現にどのような女性観が前提されているかという点にあるのですから、「二次元か三次元か」も本質的な論点ではなくなります。アニメやマンガに特有の技法は確かにありますがそれだけが問題だというわけではないし、逆にしばしば言われるように「ただの絵」だから「二次元は問題無い」わけでもありません。
さらに、問題は表象作成者の差別的意図にあるわけでもありません。ほとんどの場合作成者は女性を差別しようという意図などは持っていないでしょう。しかし「お約束」として安易にパターン化された技法を使えば、それは一定の仕方で女性を意味づけることになり、それゆえその是非が問われるものとなります。
逆に言えば、そうした技法を用いて作られた性的な女性表象があればその作品は常に差別的で抑圧的となるわけでもありません。たとえば性的部位を強調することが必要な物語内状況、主体的・撹乱的な「パフォーマンス」としての提示、あえてそう描いていることが主題となるようなメタフィクション設定、男性との対等な描き方、(この記事がそうであるような)批評的な表象使用など、「性的客体としての女性」という考えを当然の前提としているわけではないと理解できるような取り上げ方もいろいろあるでしょう。
要するに女性表象の問題を論じようと思うなら、表象作成/理解に用いられている技法、その技法が表現する女性観とその歴史的・社会的意味、そして表象の提示される文脈について、自覚的な読解をした上での議論が求められるようになるのです。
「法規制より論争を」
とはいえ、そうした読解はそんなに簡単な作業でもありません。表象がどの程度差別的と言えるのか、作品の公表される場がどの程度の公的性格を持つのかといったことについては一義的な判断を下すことが難しい場合も少なくありません。差別的であっても作品に高い芸術的、文化的価値がある場合だってあるでしょう。
また累積的抑圧について言えば、女性に対する性的な意味づけが表象以外の場でどのような被害や抑圧を生んでいるかについての知識や経験の有無も、表象の「悪さ」の理解と大きくかかわってきます。さらに言えば、ある女性観がどの程度差別的と言えるかも、歴史的・社会的に変化するものです。
こうした総合的で文脈的な作品評価の議論は法規制の是非という問いには馴染みにくく、安易にその問いに乗せることは望ましくないと私は思います。しかしだからこそ、その手前のところで、表象がどんな問題点を持ちうるのかについて議論することが重要です。
とりわけ公的な性格をもった作品、誰もが見る公共空間に掲示される作品、批評やファンタジーとして読解する能力の未発達な子ども向けの作品などについては、そこで本当に性的客体化の表現を用いるべきなのか十分慎重に検討すべき理由があることがこれまで述べてきたことからわかると思います。