マーサ・ヌスバウムというフェミニスト哲学者は、ずばり「Objectification」というタイトルの論文の中で、マッキノンたちの考えを引き継ぎつつ、「客体化」とは何を意味するのかをより明確にしようとしました。ヌスバウムによれば「客体化」は7つの相互に異なる要素に区別できます。簡単に言えば次のとおりです。
「道具性」:対象を自分の目的達成のための道具とすること。「自律性の否定」:自律性や自己決定能力を欠いたものとして対象を扱うこと。「不活性」:行為者性や活動性を欠いたものとして対象を扱うこと。「交換可能性」:他の対象と交換可能なものとして対象を扱うこと。「毀損可能性」:壊してもよいものとして対象を扱うこと。「所有性」:買ったり売ったりできるような所有物として対象を扱うこと。「主観性の否定」:経験や感情を考慮しなくてよいものとして対象を扱うこと。
その上でヌスバウムは人を「道具」として扱うことこそが「客体化」の悪さの中心だと考えました。ヌスバウムのこの考えがどこまで正しいと言えそうかにはここでは踏み込みませんが、問題になっているのはやはり「わいせつ」かどうかではありません。問題は、女性が上記7種のようにさまざまに性的客体として扱われることの悪さにあるのです。
性的客体化の表現技法
こうした議論を踏まえるなら、女性表象についてフェミニズムの観点から考えるとき、私たちは「わいせつ」かどうかとはまったく違った水準でその問題点を考えなければなりません。
たとえばとても扇情的な性行為の描写があったとしても、女性のみを一方的に性的客体として意味づけるような描き方がされていなければ、その表象は差別的だとは感じられないかもしれません。逆に性的な行為も裸体も一切描かれていなくても、女性のみを性的客体として意味づけるような描写がそこにあれば、その表象は差別的だと感じられるかもしれません。
つまり、まず考えるべきなのは、女性の描き方の中で「女性は性的な客体(道具的、非自律的etc.)である」という女性観が当然の前提とされていると理解できるかどうかだということになるのです。
では、具体的にどのような描き方をするとそうした理解が生じるのでしょうか。これは一かゼロかではなく程度問題なのでなかなか難しい問いですが、ここではフェミニスト分析美学者のアン・イートンが「(女性)ヌードの何が悪いのか」という論文でおこなっている分類をヒントに、「性的客体としての女性」という考えが前提にされているという理解を生みやすい表現について考えてみたいと思います。