「累積的な抑圧経験」
このように考えると、表象の「悪さ」についての考えを少し広げることができます。差別的な女性観を当然の前提としている表象は、それによって「女性とはそういうものだ」という意味づけを繰り返してしまっているがゆえに「悪い」のです。
特に私が重要だと思うのは、ある表象が差別的な女性観を前提に作られているとき、日頃からその女性観に苦しめられている人にとって、表象はその抑圧の経験との繋がりの中で理解されるだろうということです。たとえば「家事育児は女性がすべき」と言われてその負担に苦しんでいる女性にとっては、女性があたりまえのように家事育児をしている表象は、「ここにも同じ女性観がある」というように自らの抑圧経験と意味的に繋がったものとして経験されるでしょう。
要するに、差別的な女性観による抑圧の経験(あるいはそうした経験を多くの女性が持つという知識)は、その女性観を前提にした表象を理解する際の文脈を形成するということです。同じ女性観を前提にした抑圧経験との意味連関のもとで特定の表象がより「悪く」感じられることを、「累積的な抑圧経験」と呼んでおきましょう。「炎上」の繰り返しを引き起こす、表象作成者と批判者の間の齟齬の一端は、この累積性に対する理解が両者で異なることに由来すると私は考えています。
このように、「表象を作る」という行為に目を向けると、そこでどのような女性観が前提にされているのか、その行為は他の行為や出来事とどんな関係にあるのかといったことが考えられるようになります。表象は誰かが作り、その意味も特定の歴史的・社会的文脈のもとで理解されるものなのですから、表象の「悪さ」について考えるときにも私たちはそのような視点をもつ必要があるのです。
もちろん特定の表象がどのような文脈のもとで理解されるべきかは議論の対象となりうる事柄ですが、差別的な女性観を前提にしたものを作れば、女性差別の歴史と現状に照らしてその表象が理解される可能性が出てくるのは当然のことでしょう。
「エロい」ことが問題なのではない
さてそのような視点から、ここでは性的な女性表象について考えてみましょう。性的な女性表象が差別的な女性観を前提にしていると言えるのはどのような場合でしょうか。またそのような表象は、どのように累積的抑圧となりうるでしょうか。
性的な女性表象の持つ差別性は、フェミニズムの中では「性的客体化(sexual objectification:対象化やモノ化と訳されることも)」の悪さという観点から議論されてきました。この考え方を知るにあたって真っ先に理解しておくべきことは、それは「エロいから悪い」という考えとはまったく違うということです。
たとえばポルノグラフィ批判で有名なキャサリン・マッキノンとアンドレア・ドウォーキンが繰り返し主張していたのは、ポルノは「わいせつ(性欲を刺激するもの)」だから悪いのではない、ということでした。マッキノンたちのポルノグラフィの定義には、女性が「人間性を奪われ」「辱めや苦痛を快楽とし」「性暴力によって快感をおぼえ」「特定の身体部部位に還元される」ような「性的な客体として提示されている」という項目が含まれています。要するに、女性を「性的な客体」として提示することが悪いと考えられているのです。