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古井義昭 『誘惑する他者──メルヴィル文学の倫理』 序章の一部を公開!

 2024年3月、小局では古井義昭氏の新刊書『誘惑する他者──メルヴィル文学の倫理』を刊行しました。
 立教大学教授の著者はいま、最も今後の活躍の期待されるアメリカ文学研究者の一人。2019年にすでに1冊の英語の著書を出されていますが(Modernizing Solitude: The Networked Individual in Nineteenth-Century American Literature, 2019)、この書で「アメリカ学会第25回清水博賞」と「第5回アメリカ文学会賞」を受賞されています。

 今回の新著は、専門であるハーマン・メルヴィルについての待望の、初の日本語単著です。各章が、寂しさ、自己、手紙、郵便、暴力、障害、情動、内面……などの主要テーマをめぐる、きわめて精緻な批評的探究となっているとともに、代表作『白鯨』のみならず、『イズラエル・ポッター』『ピエール』「エンカンタダス」「ベニト・セレノ」、そして日本でも多くの読者のいる「バートルビー」や『ビリー・バッド』などの作品群への刺激的な手引きにもなっています。論じられている作品のすべてがいま日本語で容易に入手できるわけではありませんが、かつて国書刊行会から刊行された坂下昇訳『メルヴィル全集』や杉浦銀策訳『乙女たちの地獄 上下』などを図書館で見つけられれば、その多くの邦訳を読むことができるでしょう。

 専門的な研究書なのに、たくさんの発見とともに楽しく読み進められるのは、世界史的な作家メルヴィルの恩恵であることはもちろん、膨大な研究史をふまえつつ現代の問題へとしっかりと接続させる著者の見事な手さばきのおかげです。無性に作品世界の大海へと漕ぎ出したくなってくる本書、ぜひ多くの読者のみなさんが、見知らぬ鯨たちのしるしに誘惑されますように……。

 ここでは本書の「序章」から、全体の問題意識と構成にかかわる2つの節を抜き出して公開します!

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Herman Melville(1819-1891)


序 章


 「書記バートルビー」(1853年)において、バートルビーという厄介な書記を雇うことになった語り手は、この謎の人物を知ろうとさまざまな形で接近を試みる。しかし、「しないほうがありがたいのですが(I would prefer not to)」という台詞をはじめとするバートルビーの奇怪な言動によってその試みはことごとく挫かれる。突然働くことをやめてしまい、生まれ素性も分からないバートルビーは語り手にとって理解しがたい他者であり、だからこそよりいっそうこの人物を知りたいという欲求に駆られることになる。それは作品の読者も同様であろう。不可知な他者性をバートルビーに認めるからこそ、この人物を理解したいという欲求を抱き、さまざまな解釈を繰り出してはバートルビーの沈黙に跳ね返され、それでもやはり彼のことを知ろうと試みるのではないだろうか。語り手であれ読者であれ、バートルビーを前にした者の多くはこの人物の不可解な他者性に魅惑を感じずにはいられないはずだ。他者は誘惑するのである。

 ハーマン・メルヴィル(1819─1891年)の作品において、バートルビーのような「自分とは異なる理解できない誰か/何か」、つまり他者が登場するのは珍しいことではない。むしろ不可解な他者の存在がメルヴィル文学の中核を成しているといってもよい。これから本書で検討していくように、例えば『白鯨』(1851年)における巨鯨は、その捉え難い象徴性ゆえにエイハブ船長だけでなくさまざまな登場人物たちの解釈を誘うし、「ベニト・セレノ」(1855年)では、奴隷反乱の首謀者バボは捕えられたあと一言も抗弁することなく処刑を迎え、内面が窺い知れない存在として死ぬ。これらはあくまで一例だが、メルヴィル作品には、作品内の視点人物そして読者にとって理解することがそもそも不可能に思える他者に満ちている。メルヴィルはそのような他者をなぜ繰り返し描き、他者表象を通じて何を探求していたのだろうか。この二つが本書を貫く問いである。そして結論から言えば、メルヴィルは文学作品の執筆を通じて他者について書くことの倫理を探求していたのであり、メルヴィル文学の読者は読むことの倫理を要求される。本書において、〈書くことの倫理〉とは他者性への暴力を回避しながら他者の内面を描く作家の姿勢を指し、〈読むことの倫理〉とは他者性を侵害せずに他者の内面を想像する読者の態度を意味する。この倫理の問題に関しては本章次節にて詳しく説明を加えたい。

 メルヴィル文学の特徴ともいえる他者表象であるが、批評家たちは「他者」という言葉を直接的に使うにせよ使わないにせよ、多様な角度からメルヴィル作品における他者について論じてきた。メルヴィル研究における他者とは、『白鯨』のクイークェグ、あるいは『タイピー』(1846年)の食人部族タイピー族、あるいは先述の黒人奴隷バボのように、キリスト教白人主人公にとっての人種的他者(racial others)を意味することが多い。捕鯨をはじめとする海洋経験を通じて多くの非キリスト教異人種と触れ合う機会を得たメルヴィルは、白人と異人種間の相互理解の可能性を描いたコスモポリタン作家だった──というのが一般的なメルヴィル像だろう。事実、メルヴィル文学における他者とは、主にポストコロニアル批評ないしは黒人表象をめぐる観点から検討されてきた*1。メルヴィルという作家がなぜ現代まで読み継がれ、研究の対象となり続けてきたかを問うジョン・ブライアントは、作家の人種的他者に対する稀有な想像力を主な理由の一つとして指摘しているし(Bryant, “Persistence” 5, 13)、トニ・モリスンもまた、『白鯨』を例に挙げて、メルヴィルの黒人に対する想像力に同じ作家の立場から感嘆の声を記している(Morrison 4)*2。

 もちろん人種的他者という観点だけではなく、古くは神を他者とする研究に始まり、1980年代から90年代は同性愛を他者表象として捉えた研究、21世紀に入ってからは障害学の見地から身体的障害を他者性の徴と見なす研究も行われてきた。さらに近年では、メルヴィルの自然表象に着目したエコクリティシズム論、人間と物質の関係性を読み解くポストヒューマニズム的議論も提起されており、人間ならざるものを他者と捉え、メルヴィル作品における人間と非人間の境界線の越境を論じる研究が盛んになされている*3。かように、メルヴィル研究における他者とは、その時々の批評的潮流に応じて形を変えながら、各々のテーマのもとで考究されてきたといえる。換言すれば、他者表象そのものが研究対象となってきたというより、多くの研究はそれぞれのテーマを探求することを目標としながら、その一環として他者の問題を扱ってきたということになる。

 本書ではむしろ、これまでの研究のように一つのテーマのもとに他者の存在を限定するのではなく、近年の文学研究における多様な展開のうちにメルヴィル文学を位置づけることで、メルヴィル作品に潜在するさまざまな他者の存在に光を当てたい*4。したがって本書では一つの方法論に依拠することなく、人文学における複数の方法論・知見を取り入れながら議論を進めていく。代表的なものを列挙するなら、メディア論ならびにコミュニケーション史、時間的転回、トランスナショナル研究、障害学、情動理論などである。これらの広範なアプローチは、メルヴィル研究が人文学の隆盛と同期しながら発展してきた活発な研究分野であることを示すと同時に、メルヴィルがさまざまな角度から他者を描いている証左となるはずだ。そして、本書においてそれら多様な他者の存在を統合するのが、のちに詳しく議論する他者表象の倫理という問題である。

 もちろん、「他者」という広義の言葉を使用することには注意が必要である。デレク・アトリッジが指摘するように、他者を抽象的な存在として捉えるのではなく、他者それぞれの個別性を認識することが他者を論じるうえでの重要な倫理的態度である(Attridge 21–24)*5。本書が目指すのは、各作品における個別の描写をつぶさに検討することを通じ、その都度浮かび上がる他者の姿を捉えることであり、抽象的な概念として「他者」の理解を提示することではない。いうまでもなく、それは本書の目論見をはるかに超えている。それでも出発点として単純な定義を与えるなら、他者とはある自己にとって、それが自分とは明確に違うと認める異質な存在である。それゆえ、ある人物が何者/何物かを他者として認めるとき、自己と他者という境界線が自動的に立ち上がることとなる。その境界線は両者の動的な相互交渉の過程で生起するものであるため、絶対的というよりは一時的で相対的な「自分ならざる存在」を「他者」とひとまず呼ぶことができる。本書で検討される他者とは、キリスト教白人と区別される人種的他者、新興国アメリカから見た凋落しつつある旧世界のスペイン、「健常者」から区別される「障害者」、生者から見た死者などが挙げられる。

 このように何が他者かを見定めようとするときに必然的に生じるのは、他者から区別される自己とは何か、という問いである。メルヴィル文学における他者を論じる本書ではすなわち、他者と遭遇する自己のありようにも焦点を当てる。例えばメルヴィルのデビュー作『タイピー』では、主人公トンモはタイピー族という食人部族の村落に迷い込んだ当初、彼らを自分とは絶対的に異なる他者として認識し、常にそこから自分を差異化して捉える。しかし彼は、村落での滞在を通してこの他者の共同体に包摂されそうになってしまう。根無し草の存在である自分を家族のように受け入れてくれる彼らに親しみを覚え、そこへ包摂されて同化してしまいたいという誘惑に駆られるのである。そのとき、トンモのキリスト教白人としての自己は揺らいでいる。しかし、トンモはタイピー族に包摂され、元来の自己を失うことを恐れてやはりタイピー族を他者として再規定し、最終的には集落から逃れることで自己を保とうとする。とはいえ、「自分はタイピー族ではない」と激しく否定した末であっても、トンモは「キリスト教圏の白人」という自己認識に安住できるわけではない。彼は白人キリスト教徒による南洋地域での暴力的な布教活動に嫌悪感を抱いており、「タイピー族ではない自分」と「良心の呵責なくキリスト教圏の白人として自己認識できない自分」のあいだで揺れ動いているからである。誰かを他者として規定したところで、確たる自己が約束されるわけではない。

 このように、「〜ではない」という否定を通じて立ち現れる自己もあれば、他者と自己を同一化することで、自己を肥大化させる場合もある。「ベニト・セレノ」が好例である。アメリカ人船長アマサ・デラノは、スペイン人船長ベニト・セレノを同じ白人として同一視しながら、心の底では彼を無能な船長とみなし、自らを上位の存在として差異化している。そして最終的にはベニトから船の指揮権を奪い、スペイン船を収奪してしまう。他者を取り込むことで自己を拡張するこの過程は、アメリカ国家による帝国主義的企図の暴力的歴史そのものである。もちろん、メルヴィルは無自覚にその暴力を描いているのではなく、冷徹にその暴力を捉えてアメリカへ鋭い批判の目を向けている*6。

 以上のように、他者を論じるということは、誰か/何かを自分ならざる他者として認識する自己の姿──他者から自分を引き離すのであれ、他者を飲み込んでしまうのであれ──を逆照射することになる。そしていずれの場合も、他者という存在は、それをまなざす側の理解したい、ないしは所有したいという欲望を惹起する。例えばバートルビーという謎は、語り手と読者を、その秘密の内面を探るように誘惑する。あるいは先述のスペイン人船長ベニトは、アメリカ人船長デラノにとって、自分に利益をもたらす存在として魅惑的である。さらにエイハブ船長は、自分の存在を脅かす白鯨のことを焦がれるように夜な夜な考えており、憎むべき敵を愛しているといってよい。あるいは、メルヴィル晩年の詩集に登場する孤独な元水夫ジョン・マーは、亡霊となった過去の水夫仲間たちを思い、想像の中で彼らと交歓しようと試みる。

 メルヴィル作品における他者は、誘惑すると同時に、理解されることを拒絶する。語り手はバートルビーが体現する社会的制度からの自由に惹かれているが、バートルビーを完全には許容できないし、バートルビーの側も彼を拒絶する。そのとき語り手は、もしくは読者は、バートルビーに惹かれながらも、最終的に自分が「バートルビーにはなりえない」と思い至ることで、否定形での自己認識を得ることになる。読者の多くは、語り手の偽善と欺瞞を批判しながらも、かといってバートルビーの側には立つことはできないはずだ。そのとき、自らが実は糾弾すべき語り手の側に立っていることを知る。バートルビーに代表されるメルヴィル的他者は、読者に自分を理解するよう誘惑し、どこまで理解できるかを試しているようである。読者は彼らをどこまで理解できるのか頭を捻らせ、彼らの存在に肉薄しようとし、理解したと思えば突き放され、再度接近を試み、また突き放される。他者との対話の回路を開くべく不断に試みるなかで、彼らと共有しうるものを見つけつつ、最終的には「彼らは自分ではない」という理解を得る。そのような他者理解の試みを通じて、読者は知らず知らずのうちに何かしらの否定形としての自己を見つける過程に参入させられている。メルヴィル文学における他者と向き合うこととは、そのような読書体験であるはずだ。

 誰か/何かを「他者」と呼ぶとき、しばしばそこには他者と名付けられる側の力の欠如が前提とされている。サラ・アーメッドはポストコロニアリズムと他者性をめぐる議論において、「他者は常に弱者であり、この弱さこそがある意味で他者の構成要素である」(Ahmed 142)と論じているが、他者論として著名なツヴェタン・トドロフの『他者の征服』でも、征服される弱者としての先住民が他者として位置づけられている。こうした他者論では、権力者の他者/弱者に対する暴力が倫理的問題として扱われている。また、エレーン・スケアリーは、そのような強者による他者への想像力を指して「寛容的想像(generous imagining)」と批判的に呼んでおり(Scarry 106–07)、ここにも他者と名指す側と名指される側の力の不均衡が前提とされている。しかし、メルヴィル作品における沈黙する登場人物たちの多くは、受動的な立場のみに位置していない。例えばバートルビーの「受動的抵抗(passive resistance)」(The Piazza Tales 23)を想起するなら、彼の沈黙は単なる受動性を超えてなんらかの主体性を含意している。沈黙ゆえに解釈の対象として受動性を帯びながらも、読者に「どこまで私を理解できるのか」と迫っている点で、彼ら登場人物たちを「他者」と名指す側こそが、実は受動的立場に置かれているといっていい。他者は誘惑すると同時に拒絶もするのである。

(中略)

本書の構成

 本書は四部構成になっている。以下、章ごとというよりは、四部それぞれのテーマをまとめることで本書全体の議論の流れを示したい。第一部「他者を求める──孤独な水夫たち」では、メルヴィル作品に繰り返し描かれる「寂しさ(loneliness)」という感情に焦点を当て、登場人物たちの他者への希求を浮き彫りにしながら、個人と共同体の関係を考察する。寂しさというのは、外部から隔絶された個人ではなく、寄る辺ない個人が他者を希求するという意味で、多孔的な個人の姿を浮き彫りにする。自らを他者に開いていなければ、寂しさは感じえないだろう。自己に閉じこもる個人は、寂しさではなく「孤独(solitude)」を経験するはずである。しかし、特に第一章で論じるように、孤独と寂しさの差異は現実の生において明確に区分するのは困難であり、本書を通じて「孤独」をより包括的な概念として用いながら、孤独から生じる否定的な感情に言及する際に「寂しさ」という言葉を用いていくことにしたい。

 寂しさへの着目はさらに、19世紀アメリカの理想とされた個人主義に対するメルヴィルの懐疑を照らし出す。第一章の『白鯨』論ではエイハブ船長が抱える寂しさに焦点を当て、「寂しい個人主義(lonely individualism)」という概念を提起することで、他者を希求するエイハブの自己のありようを検討する。第一部で扱う諸作品のみならず、メルヴィル作品に登場する多くの登場人物は心に寂しさを抱えており、これはメルヴィル文学の大きな特徴であるといえる。抒情性こそがメルヴィル文学の白眉であり、その抒情性は、この満たされざる他者への希求、すなわち寂しさという感情と密接に繋がっている。舌津智之はメルヴィル文学に叙情性を感知しているが、彼の定義に従えば、抒情とは「抑圧の回帰をその本質的な構造とする文学的モード」となる(九)。事実、エイハブの寂しさは作品を通して抑圧され、その抑圧が解除されるその一瞬、一雫の涙となって表出する。あるいは第二章で検討するイズラエル・ポッターにせよ、第三章のジョン・マーにせよ、彼らの寂しさは明示的に表現されることはなく、あくまで抑圧された感情として描かれている。その抑圧をくぐり抜けて表出する瞬間にこそ、抒情が生まれるのである。

 寂しさという感情はややもすると感傷性に堕してしまう危険を孕むが、メルヴィルは感傷性に溺れることなく、共同体と個人の関係という、個人の感傷に留まらない問題系を探究している。メルヴィル作品に登場する登場人物たちは、寄る辺ない個人であることにも満足できず、かといって共同体に包摂されることも望まない。共同体と個人という二項対立のあいだで宙吊りになりながら、どちらの選択肢にも安住することなく揺れ動いている。寂しさを抱えた個人は、自分を受け入れてくれる共同体に包摂されてしまえば楽になるかもしれない。しかし、メルヴィルの登場人物たちは共同体に包摂され、個人性を明け渡すこともまたよしとはしないのである。このように、寂しさを抱えた登場人物たちは他者との合一を目指しつつ、最終的に自他の埋められない差異に悲嘆することになる。その差異こそが、皮肉にも個人の個人性を担保するのだということをメルヴィル作品は告げている。

 個人と共同体の関係性は、本書の主眼でもある倫理の問題へと接続される。『イズラエル・ポッター』(1854年)を論じる第二章、詩集『ジョン・マーと水夫たち』(1888年)を論じる第三章では、寂しさを抱えた登場人物たちが、語り手を媒介として読者と間接的な関係を築く可能性について論じる。先に触れたストウファーが呼ぶところの「倫理的寂しさ」は、寂しさを抱えた登場人物を前にした読者になんらかの倫理的応答を求める。これらの作品において、語り手は登場人物と読者を媒介し、間接的な共同体の形成を助けることとなる。ただ重要なのは、そうした共同体はあくまで可能性に留まり、読者と登場人物の関係は不完全なものでしかありえない点である。メルヴィル作品は、繋がりの成就を描くというより、その失敗を描いたうえでなお繋がる可能性を想像することを読者に求めているのであり、それこそが読むことの倫理となる。

 また、寂しさは必然的に人を他者との繋がりへと駆り立てるものであり、メルヴィル作品には自然とコミュニケーションにまつわるメディア・技術に関する言及に溢れている。19世紀半ばのアメリカは、郵便システムの拡充、鉄道網の拡張、電信の発明など「コミュニケーション革命」を経験したと言われているが、個人の寂しさを描こうとするメルヴィルにとって、そのような歴史的背景は自身の文学的課題を表現するうえで恰好のモチーフを提供することになった*9。コミュニケーション手段のなかでも、メルヴィル文学全体にとって特に重要なのは郵便システムである。「バートルビー」に登場するデッドレター(配達不能郵便)は、メルヴィル文学全体を貫く修辞として機能しているといってよい。ここで注意すべき点は、メルヴィル文学において郵便コミュニケーションはほぼ例外なく失敗するということである。他者と繋がりたいという人間の根源的欲求を描きながら、メルヴィルはその試みが失敗し、個人が孤独な状況に置かれるさまも捉えずにはいられない。また、デッドレターが「死」を免れるには何よりも読まれる必要があることを考えると、その生死が読者の応答にかかっているという点で、デッドレターはまさに読むことの倫理を前景化する。

 第二部「他者を見つける──不気味な自己像」では、自己の外部に見出される他者への欲求に焦点を当てた第一部とは異なり、他者が自己の内部に見出されるさまを検討する。『タイピー』の主人公トンモ(第四章)も、『ピエール』(1852年)の主人公ピエール(第五章)も、自己の深みを正確に認識できていない。彼らの欲望は抑圧され、それが内なる他者として彼らの内部に胚胎されることになる。彼らは表面的には外なる他者──トンモにとってのタイピー族、ピエールにとってのイザベル──に関心を奪われているが、実は最も身近であるはずの自己の他者性を見失っている。その意味で、これらの作品では他者は主人公たちによって見出されておらず、抑圧されたまま読者に提示されていることになる。

 第一部と同様、第二部で検討されるトンモもピエールも、家族や国家という共同体の一部に組み込まれ、個人性が失われることを恐れている。脆弱な個人を描くという意味で、第一部で検討した「寂しい個人主義」と共鳴しつつ、これらの作品もアメリカ的個人主義に批判的修正を加えていると見なすことができる。第一部の登場人物たちが他者との繋がり、つまりはなんらかの共同体への希求を求めているのだとすれば、第二部で扱うトンモとピエールは、自身を包摂しようとする共同体の力に反発し、そこから逃れようとしている。『タイピー』と『ピエール』が提示しているのは、共同体なき個人の不可能性である。トンモは何がしかの帰属すべき共同体を求めざるをえないし、ピエールは血縁関係を捨て去ろうとしながらも、自分の体内を流れる血 (縁) から逃れることはできない。彼らの個人性は常にすでに関係性の網の目に捕獲されてしまっている。

 第五章の『ピエール』論に明らかなように、ここでもコミュニケーションが重要な役割を果たす。第一部で検討するコミュニケーションが他者との繋がりを求めるものだとすれば、ピエールは自己と対話できておらず、本作におけるデッドレターは、内なる他者としての自己と通じ合えない分裂した自己のありようを照らし出す。「手紙のやりとり」は英語で「コレスポンダンス(correspondence)」となるが、この単語には「一致」という意味もある。郵便システムの機能不全に着目して本作品を読解するとき、ピエールの自己認識と、彼の中に潜む内なる他者とのあいだの齟齬が明らかになるだろう。コミュニケーションの問題は、自己と他者ではなく、ここでは自己と自己の問題となる。つまり読むことの倫理は、第二部では作品を読む読者の問題というより、登場人物たち自身の問題となっている。

 第二部で「内なる他者」を焦点化したのち、第三部「他者を取り込む──帝国的欲望」では、トランスナショナル研究の知見に依拠しながら、政治的な意味での「外なる他者」を検討する。メルヴィルが生きた19世紀半ばのアメリカは、独立革命から半世紀以上を経て政治的な力を獲得しはじめ、モンロー・ドクトリンという外交政策にも顕著なように、西半球のリーダーとしての自己を誇示するようになった。アメリカにとって、かつてスペインの支配下に置かれていた、あるいは当時も支配下にあった「スパニッシュ・アメリカ」と総称される南アメリカ諸国は、支配すべき対象ないしは魅惑的な他者として立ち現れた。アメリカ合衆国と地続きをなし、同じ大陸を共有するからこそ、スパニッシュ・アメリカは合衆国との差異を提示しながらも、合衆国による同一化の暴力に晒されることになった。同一化の暴力を批判的に前景化しながらメルヴィルが強調してやまないのは、やはり差異である。その差異は特に言語の扱いに顕著に現れており、例えば第六章で扱う「エンカンタダス、あるいは魔の島々」(1854年)、第七章の「ベニト・セレノ」の両作品では、英語話者にとってのスペイン語の他者性が大きな役割を担っている*10。

 メルヴィルが強調するのは差異だけではない。スペインによるかつての帝国支配とアメリカの帝国的欲望を重ね合わせることで、アメリカが過去の帝国と同じ道を歩んでいることを示唆し、アメリカの帝国主義的企図の反復性ないしはオリジナリティの欠如を明るみに出している。国家の自己形成の際に生じる他者への暴力が、新生国家としての力を誇示しなければいけないという自己の不安に根ざすものであるならば、やはりここでも他者との邂逅の根底には輪郭の不安定な自己が存在することになる。

 第一部と第二部で検討する自己と他者の関わりにおいて、コミュニケーションは一方通行であり失敗が運命づけられたもの、つまりデッドレターとして理解される。しかし第三部で描かれる他者との関わりは、同様に一方通行ではあるものの、有無を言わさぬ暴力性を帯びる。特に第七章で扱う「ベニト・セレノ」では、スペイン人船長ベニトと黒人反乱者バボの沈黙と対照的に、アメリカ人船長デラノの饒舌が描かれるが、デラノは友情を装いつつ、最終的には黒人奴隷を制圧するのみならずスペイン船を収奪してしまう。政治的他者を自己の内側に取り入れ、自己を拡大させようとするこのような暴力に、メルヴィルは鋭い視線を向ける。自己と他者の差異に自覚的な作家だったからこそ、メルヴィルはその境界が越境される瞬間を見逃さず、他者に対する暴力を回避するための書くこと/読むことの倫理を提示している。

 第三部において他者を自己に取り込む暴力に触れたのち、第四部「他者を覗く──沈黙の裂け目」では、この暴力を違う角度から考察する。すなわち、他者の内面を知ることの暴力が第四部の主題である。自己と他者の境界線を越えることに敏感なメルヴィルにとって、どんな形であれ、他者の領域に侵入することは倫理的危険性を帯びたものになる。メルヴィルは自身の創作物である登場人物たちから、あくまで一人の他者として距離を保とうとする。具体的には、彼ら登場人物に沈黙を付与することで他者理解の暴力への防御線を張っている。そこで、第八章では『信用詐欺師』(1857年)に登場する身体障害者(と思しき)ブラック・ギニー、第九章ではバートルビーを中心的に検討する。沈黙する登場人物の内面を我々は知るよしもない。しかし彼らの沈黙は自身を解釈するよう、見る者を誘惑している。ここで重要なのは、沈黙する登場人物たちが解釈を誘いながらも、同一化しようとする理解の暴力を回避し、相手との差異を保ち続ける点である。メルヴィルは沈黙という言語ならざるものを言語を通じて描き、かつそこにわずかな解釈の可能性を潜ませるが、最終的に彼らの沈黙は読者の解釈を拒む。先に見たとおり、ブラックは他者を一方的に表象してしまう想像力を指して「侵犯的想像力(invasive imagination)」と呼んでいるが、メルヴィル作品における沈黙はそのような想像力に対する防御壁となっている。

 ただここで注意が必要なのは、解釈を拒むからといって、他者を知る試みが無益であるとはメルヴィルは言っていないという点である。メルヴィル作品は、沈黙に「裂け目」と呼ぶべきわずかな開口部を用意することで、読者にその開口部から他者の内面を想像するよう促している。一方的な解釈の暴力、あるいは他者なき他者理解ではなく、あくまで他者を自己とは違う存在として知ろうとする態度、すなわち読むことの倫理を要求する。第三部で論じるように、メルヴィルは他者を自己へ取り込むことの暴力性を熟知していたからこそ、いかにその暴力を回避して他者との対話の回路を開くことができるのかという可能性を模索していたのである。

 メルヴィルの模索は晩年まで続いた。最終章となる第十章では、遺作『ビリー・バッド』(1924年)を検討することで、1850年代からのメルヴィルの他者表象をめぐる奮闘の軌跡を追うことになる。本章では、沈黙よりはむしろ、語り手による登場人物の内面の過剰なまでの言語化に注目することで、他者表象の問題を浮き彫りにする。メルヴィルは『ビリー・バッド』を書く過程で、他者の内面を書く行為に対する本質的な疑いと、それに対する抗いがたい魅力のあいだで揺れ続けていた。この作品でも、文学は他者をいかにして描けるのか、あるいは描けないのか、という作家の倫理的葛藤が読み取れる。なかでも本章は読者と登場人物を繋ぐ語り手の存在に焦点を当て、他者を書くことによって書かない、というメルヴィルの二重の戦略を明らかにする。

(文献情報は省略します)

*1 メルヴィル作品における他者との邂逅を論じた先行研究は膨大なため、ここでは著書の代表例を挙げるとすれば、ポストコロニアル批評としてはHerbert; Sanborn; Samson、黒人表象に関してはKarcher; Sundquist, To Wake the Nations; Castronovo; Freeburgらの研究を参照のこと。また、先住民の存在に着目した研究として大島由起子のものがある。福岡和子はメルヴィルの他者表象に著書の四章を割いて論じており、そのいずれもが人種的他者に焦点を当てている。また、これは人種的他者というよりは宗教的な意味での他者になるが、ティモシー・マーはメルヴィル作品におけるイスラム教徒の「エキゾチックな他者性」(Marr 13)を検討している。

*2 ブライアン・ヨザーズは過去数十年のメルヴィル批評を概観しながら、これまで支配的だったメルヴィル像は、アメリカ国内の主流文化に対して「例外的な批評眼を持つアウトサイダー」(Yothers, Melville’s Mirrors 138)としてのものだったと総括している。とすれば、メルヴィル自身が社会における他者だったということになり、主流社会から疎外され他者化される経験が、メルヴィルを他者という問題に意識的にさせたことは想像に難くない。

*3 神の他者性に関しては、スタン・ゴールドマンがメルヴィルの長編詩『クラレル』(1876年)を題材にして詳しく論じている(Goldman 12–46)。神と人間の関係を論じた古典的著作としてはLawrenceを参照。ロバート・K・マーティンは、メルヴィル作品における同性愛表象を論じた著書において、男性間の親密性を、アメリカ社会において未だ実現されない民主主義の可能性を宿すものとして「他者」と捉えている(Martin 7)。障害学の観点からメルヴィル作品を論じた代表的著書としてはSnyder and Mitchellを参照。また、エコクリティシズムの観点からメルヴィルを論じた著書のなかで、トム・ナーミはメルヴィル文学におけるエコロジーに着目し、自然を「非人間的他者(the nonhuman Other)」(Nurmi 4)として捉えている。マイケル・ジョニックの著書も、エコクリティシズムというよりはむしろ、ポストヒューマニズムの文脈でメルヴィル作品における「非人間的他者(inhuman others)」(Jonik 26)について論じている。またクリストファー・ステンは、メルヴィルの短編集『ピアザ物語』(1856年)に関する研究書のなかで、この短編集に収録された作品すべてが社会の周縁に追いやられた「他者」を扱っており、メルヴィルは彼らの境遇に共感を示していると論じている(Sten, Melville’s Other Lives 1–19)。
*4 本書に類する研究として、竹内勝徳の著書『メルヴィル文学における〈演技する主体〉』が挙げられる。竹内は〈演技する主体〉という独自の概念に基づきながら、情動理論やトランスナショナル研究など他種多様なアプローチを用いて、主体と他者の関係性を探究している。竹内が〈演技する主体〉、すなわち他者に開かれた多孔的な自己のありよう(二九)を前景化することでメルヴィル文学における他者を論じているとすれば、本書は他者に焦点を当てることで、他者をまなざす自己を逆照射する試みといえる。

*5 Ahmed 143; Hanssen 130も参照のこと。

*6 メルヴィル作品における自己形成と、その過程で他者が果たす役割について論じた研究は多い。ここでも代表的な著書に限定して紹介するなら、例えばピーター・J・ベリスは自己と区別される他者との関係を論じており、シャロン・キャメロンは身体に注目しながら、ワイ・チー・ディモック(Empire)は帝国主義の観点から、そしてジェイミー・ローレンツェンはキルケゴールを参照点として、それぞれメルヴィル文学における自他の関係を論じている。また、この問題を『白鯨』に絞って論じた研究としてBrodtkorbのものがある。

(中略)

*9 コミュニケーション革命とメルヴィルを含む19世紀アメリカ文学との関係については、Furuiを参照のこと。

*10 近年、メルヴィル作品におけるスパニッシュ・アメリカ表象は批評的関心を集めている。代表的な成果としては、メルヴィル研究専門誌『リヴァイアサン(Leviathan)』における、2021年に出版された特集号「メルヴィルとスパニッシュ・アメリカ(Melville and Spanish America)」が挙げられる。

■ 目次

序 章

第一部 他者を求める──孤独な水夫たち
 第一章 『白鯨』における寂しい個人主義
 第二章 『イズラエル・ポッター』における倫理的寂しさ
 第三章 痕跡を書き残す──『ジョン・マーと水夫たち』 における孤独の共同体

第二部 他者を見つける──不気味な自己像
 第四章 他者を貫く──『タイピー』における個人と共同体
 第五章 「誰も自分の父たりえない」──『ピエール』におけるデッドレターと血縁

第三部 他者を取り込む──帝国的欲望
 第六章 時間の暴力に抗う──「エンカンタダス」における不確かな未来
 第七章 差異を超える──「ベニト・セレノ」における認識の詩学

第四部 他者を覗く──沈黙の裂け目
 第八章 秘密の感情──『信用詐欺師』における障害と公共空間
 第九章 バートルビーの机──情動理論とメルヴィル文学
 第十章 ビリーを撃つ──媒介される内面

あとがき
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Moby Dick(Albert and Charles Boni, 1933)の Raymond Bishop 挿画より

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古井義昭 『誘惑する他者──メルヴィル文学の倫理』 序章の一部を公開!|法政大学出版局◉別館
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