令和6年6月14日(金)、東京・神保町にある書泉グランデ6階のイベントスペースにて、講談社刊『なぜ80年代映画は私たちを熱狂させたのか』の発売記念トークイベントが行われた。当日は、著者である伊藤彰彦氏が司会を務め、本書でフィーチャーされている80年代を代表する映画の数々を生んだ、革命的プロデューサー集団NCP(ニュー・センチュリー・プロデューサーズ)主宰の岡田裕氏と、『おくりびと』(’08年)で世界的監督となった滝田洋二郎氏のお二人をゲストに迎え、岡田・滝田両氏が1986年に発表した問題作『コミック雑誌なんかいらない!』の撮影秘話を交え、80年代邦画界の魅力とそれらを生み出し得たバック・ボーンについて赤裸々に語り合った。
本邦屈指の映画史研究家であり「無冠の男 松方弘樹伝」(講談社)等の著書を持ち、自ら映画製作も行う伊藤氏の名司会で、内田裕也主演の問題作『コミック雑誌なんかいらない!』の驚愕の真実が次々に明かされていく……その概要を前・後編の2回に分けてお伝えする。
構成/岩佐陽一
ニュー・センチュリー・プロデューサーズの発足
伊藤 まずニュー・センチュリー・プロデューサーズができたときの経緯からお聞かせください。
岡田 日活で10年助監督をやってからその後10年、今度はロマンポルノ映画を製作した「にっかつ」でプロデューサーをやりました。ある日、社長だった根本悌二さんに「プロデューサーというのは野に置くべきだ。社員というかたちは違うんじゃないか?」と言われて会社を出されました(笑)。その当時、僕も含めてロマンポルノを作っているプロデューサーが6、7人いました。そんな次第で、独立してひとりひとり別に活動するよりは……ということで気の合った者たち6人くらいで集まって会社を作りました。それがニュー・センチュリー・プロデューサーズという大仰な名前の会社でした。名前の由来は21世紀が近かったからです(笑)。
伊藤 1981年に6人のプロデューサーでスタートされた際、事務所は最初どこにあったんですか?
岡田 メンバーのひとり、中川好久さんの親戚が東京の赤坂に小さな和風の、畳敷きの離れを持っていて、そこが空いているから使えるというお話になりました。離れの一室でしたけど、靴を脱いで上がるような事務所で、そこに6人で入ったのがスタートです。電話を1本引きまして。それがニュー・センチュリー全員の専用電話でした(笑)。至って狭いし、その部屋に全員でいることはほとんどありませんでした。1年ぐらいその畳部屋で過ごしてから、同じ赤坂の普通のオフィスに引っ越しました。にっかつのロマンポルノの企画は定期的に受けていたので、仕事としてはそれがメインでした。
伊藤 にっかつロマンポルノの外注と言いますか。それを「野に置け」という言い方はいいですけど、実際には経費節減のために外に出されたということですよね。
岡田 プロデューサーの仕事というのは、社員で定期的に給料をもらうより、独自にやるべきだ、という説明を受けまして。日活という会社自体のシステム変更であり、体のいい人件費減らしということではなかったと思います。