『なぜ私は私であるのか』で掘り下げたのは、「制御された幻覚」としての知覚という考え方です――アニル・セス

スーザン・ステップニー ここからは、意識経験についてお話しいただければと思います。私たちは、概念が世界の見方や経験の仕方を形作ると考えています。そうすると、世界は人によって別々の仕方で経験されることになります。数字を見ると色が見える共感覚の人もいます。知覚の仕組みが違うということもありますし、ニューロダイバーシティ[★01]★01などもあります。しかし、一部の人が違っているということではありません。誰一人として同じではないのです。私たちの意識経験はそれぞれ異なっているという事実から、どのようなことが言えるでしょうか。科学はこのことについて何を明らかにし、SFはどのような役割を担えるでしょうか。

SF作家テッド・チャンと神経科学者アニル・セスの対話:私たちは同じ現実を見ているか?の画像
スーザン・ステップニー

アニル・セス 私の考えでは、脳は予測装置ですから、意識経験の個人差もそこからの帰結ということになります。脳は感覚信号の原因について絶えず予測を立て、感覚データに基づいてこうした予測を更新しているわけで、私たちの経験は外部に存在する対象を写し取ったものではなく、予測それ自体の内容だということになります。

ご紹介いただいた『なぜ私は私であるのか』で掘り下げたのは、「制御された幻覚」としての知覚という考え方で、この用語はもちろん私の発案ではなく、連綿と伝わってきているのを借りたものです。そこには長い歴史があるわけです。私見では、この発想の眼目は、人間の経験は外から入ってくるように思われるかもしれないが、その大部分は内側から来るものだという点にあります。

世界は、私たちの目と耳を通して、心の中にありのままの姿で流れ込んでくるように感じられるかもしれません。しかし事実はその逆かもしれませんし、実際、そう考えられる証拠も少なくないと思います。

するとどうでしょう、私たちの脳はそれぞれ違っているので、経験もまた異なることになるのです。ですが、私たちがこの多様性にまったく気づかないということもありえます。違いがそれほど大きなものでなければ、行動や言葉遣いに現れることはなさそうですから。

そして、実はこれは、今日お話ししてみたかったことなのですが、「言葉」というのは、ヒトの認知が生み出した素晴らしい発明品なのです。しかし言葉には、お互いの間に存在するかもしれない知覚の違いに鈍感になるという代償もありそうです。言葉の働きとはそういうものですからね。言葉はコミュニケーションを可能にするために、こうした違いをぼかしてしまうのです。

だからまずは、こうした違いを認識し、浮き彫りにすることで、日常的に世界と向き合う際に、別の見方ができるようになるのではないかと思います。現状では、あたかも誰もが共有するこの実在世界に住んでいるかのように感じられるからです。どうも私たちはそれが事実だと考えがちですが、これは経験対象の実在性を信じるやっかいな傾向があるためです。そのせいで、私が経験したことが、私の心とは無関係に存在しているように思えるのです。そして、そう思っているのであれば、他の人々も同じ経験をしていると考えるのは自然なことです。しかし、これが事実ではないとしたら……私は実際そうなのだと思いますが、私たちの住む世界は大きく重なり合いながらも別々なのだということを真に理解する道が開けるでしょう。

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アニル・セス(奥)とテッド・チャン(手前)

動物が相手の場合には、この違いへの理解が深まってきています。たとえば、それぞれの種ごとの感覚世界を表す、環世界(Umwelt)という概念があります。しかし、個人の間に存在する違いについては十分な注意が払われてこなかったと思います。そして、このような違いに目が向けられるとしても、たとえばニューロダイバーシティや共感覚のような、違いがかなり大きなところが焦点となりがちです。これらは興味深い事象ではありますが、そこにばかり注目すると、ニューロダイバーシティに当てはまらない人は――つまり、標準的な神経構成になっているということですが――物事をありのままに見ることができるという間違った考えを強化することへと繋がってしまいます。このような思い込みを切り崩すことは有益だと思います。自分自身が物事を経験するしかたについて、多少は相対化することができるのです。

それだけでなく、楽観的すぎると思われてしまうかもしれませんが、自身の信念に対しても、少しは反省が必要なのだと思えるようになるかもしれません。私たちは気づけば「知覚のエコーチェンバー」に嵌まっています。人類の連帯をめざすなら、まずは何であれ存在する違いを認識することから始めるべきでしょう。

いまお話ししたことの背景には、映画『メッセージ』の原作、「あなたの人生の物語」があります。人間とヘプタポッド[★02]★02の間には、実に大きな違いが存在しますね。ただし、この作品が提起しているのは、経験が別の要因で異なってくる可能性、経験に影響を与える別の要因、つまり言葉やサピア=ウォーフの仮説[★03]★03という論点です。映画をご覧になった何百万人もの人たちと同じように、私もまた『メッセージ』は、このような考え方の重要性、そして私たちがいまだに、自分自身の考え方や経験のあり方を当たり前だと思い込んでいるかもしれないこと、それは間違いなのかもしれないということを巧みに解き明かした作品だと思いました。

「完全言語」という考えは、抗いがたい魅力を保っていると思います。私自身も惹かれるところがあります——テッド・チャン

テッド・チャン 奇遇というかなんというか、つい先日、ある人と話していて同じ話題になりました。ウンベルト・エーコ[★04]★04が『完全言語の探求』[★05]★05という本を書いています。この本は完全言語という考え方の変遷を扱っていて、どのようなものかというと、思考を完璧な正確さで表現していてあいまいさがなく、言ってみれば、単語とその単語が指し示す概念が直接結びついているような言語のことです。これは何世紀も前からある発想で、これまでさまざまな形で現れてきました。現代の言語学では、完全言語というものは存在せず、言葉とそれが指し示すもの結びつきは何らかの本質によって成立するのではなく、恣意的なものだという考えを大前提としています。

しかし、この完全言語という考えは、依然として抗いがたい魅力を保っていると思います。私自身も惹かれるところがありますし、興味を持つ人は他にも多いでしょう。実際、少し前に会った人は、大規模言語モデルについて、実はある種のベクトル空間、ようするに完全言語のようなものを理解する手がかりになり得るのではないかと考えていたようでした。その時は、数学的に妥当な思考空間ということで、完全言語という言葉こそ出ませんでしたが。

でも、これは大間違いだと思います。大規模言語モデルがそのような完全言語を理解する手がかりだとは考えられませんが、ともあれ、言語というものの純粋な理想形、つまり、思考や現実のありさまをくまなく写し取る客観的な方法という観念に人々が引き寄せられていくという事実を示す興味深い例ではあります。ですが、それは夢物語でしかありません。現実に存在するわけではないのです。

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思うに、完全言語に惹かれてしまうのは、定型発達(neurotypical)の人たちが共有している経験の統一性とでもいうか、そういうものを求めていることの現れなのでしょう。ようするに、私たちがうまくやっていけるように構成された、ほぼ重なっている、単一の現実のことです。この衝動はどうやらとても根深いもので、そんなものは存在せず、あらゆる物事が程度の差はあれ主観的で個人的なものであるという事実を直視するのは困難なことなのです。

アニル 私も同じ話を聞いたことがあります。完全言語は成立しないということですが、それは言語の構築方法に技術的な制約があるためでしょうか。それとも、はじめから見当違いの目標を立てていて、言語の各要素が描写するとされている事物が住まう理想の世界など存在しないからでしょうか。たぶん後者ではないかと思います。これは私の考えになりますが、経験とは本質的に多様で個別のものだからです。お互いの経験がそっくり重なる可能性がない以上、なんであれ完全言語というものはありえないことになります。

テッド そうですね。数や図形など、数学の概念であれば私たちに何らかの形で生まれつき備わっていると言うこともできるかもしれませんが、それはあくまで言語を使って話すことのほんの一部にすぎません。言語の守備範囲は人間の経験全体なのです。言葉によって言い表される対象をすべて包摂した、いわば一種の抽象空間が存在するという考えはここから出てきたものです。ようは、すべての概念が紛れなく整然と配置されているような例の空間が存在するという発想です。この考え方は破綻していると思いますし、仮に正しいところもあるにしても、世界に対する旧弊かつ狭量な見方がはっきり滲み出ているのではないでしょうか。

SF作家と科学者が、より活発に対話できるようになる未来を願っています——テッド・チャン

スーザン まだまだお話を続けていただきたいところですが、残念ながらお時間のようです。いくつかお聞きしようと思っていたことがあったのですが、たとえば、テッドさんの作品には、「ロジバン」を話す人たちが登場します。その人たちの話し方は、定型発達の人たちとはぜんぜん違うんです。ご存知ない方のために説明すると、ロジバンというのは非常に数学的で論理的で構成的な言語のことです。ロジバン話者の話し方は普通の人たちとは違って、なんというか、研究の世界でしか生きられないコンピュータ科学者のようでした。私自身もその内の1人かもしれないとも思います。そういうわけで、この点についてさらに掘り下げたかったですし、取り上げられなかった話題もたくさんあるのですが、残念ながら、そろそろ終わりにしないといけません。では最後に一言ずつお願いできますでしょうか。

アニル では、最後ということで、文学・SF・科学の関係についてお話ししようと思います。ご多分に漏れず私も、子供のころからずっとSFを読んできました。冒頭でおっしゃっていただいたように、科学において十分に重要性が理解されていないことの一つに創造性があります。科学の研究を進めるためには、現実から離れて心のなかで物事をさまざまに思い描く能力が不可欠です。そして、想像力を鍛えるのに、フィクションほど良い方法はありません。テッドさんのような人たちがその方法を見事に示してくれたおかげで、私たちは物事の多様なあり方を考えられるようになりました。その能力はこれまでも、そしてこれからも、科学の進歩にとってなくてはならないものなのだと思います。

テッド これまで、研究の現場にいる科学者のみなさんとお話をする機会はあまりなかったので、この会議に出席できて、とても嬉しく思っています。SF作家の世界と科学者の世界は、重なり合うことが少ないと感じています。私たちは、この憂慮すべき状況を改善し、生産的な対話を重ねていけるはずではないでしょうか。つねづね言っていることですが、SFの醍醐味は哲学的な考えに物語性を与え、より身に迫った思考実験を提案できるところにあります。

哲学者の提案する思考実験は、非常に抽象的なものになりがちです。そのため、専門家以外には「どうしてそんなことを考えなければならないのか」を理解するのが難しいことがあります。SFは人々が哲学的問題に関心を持つきっかけを与えることができます。抜き差しならない状況を設定することで、哲学的な問題に対する解答が自分と無関係ではないのだと読者に感じてもらえるのです。

この点は、科学者のみなさんも興味がおありだと思います。ご自身の研究がなぜ重要なのか、なぜ専門外の人とも無関係ではないのかを説明する方法は、いつでも重要な検討事項です。SF作家と科学者が、より活発に対話できるようになる未来を願っています。

スーザン 対談を締めくくるにふさわしい素晴らしいお言葉だと思います。テッドさん、アニルさん、本当にありがとうございました。

(2023.7.28 北海道大学 クラーク会館にて)

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SF作家テッド・チャンと神経科学者アニル・セスの対話

#1 GHOST IN THE MACHINE:ChatGPTに意識はあるんですか?
#2 GHOST IN THE MACHINE:意識は身体がなければ生じないのか?
#3 GHOST IN THE MACHINE:ソフトウェアを苦しみから救う方法はあるか?
#4 GHOST IN THE MACHINE:私たちは同じ現実を見ているか?

★01 「ニューロダイバーシティ(Neurodiversity、神経多様性)とは、Neuro(脳・神経)とDiversity(多様性)という2つの言葉が組み合わされて生まれた、「脳や神経、それに由来する個人レベルでの様々な特性の違いを多様性と捉えて相互に尊重し、それらの違いを社会の中で活かしていこう」という考え方であり、特に、自閉スペクトラム症、注意欠如・多動症、学習障害といった発達障害において生じる現象を、能力の欠如や優劣ではなく、『人間のゲノムの自然で正常な変異』として捉える概念でもある。 参考:(経済産業省「ニューロダイバーシティの推進について」https://www.meti.go.jp/policy/economy/jinzai/diversity/neurodiversity/neurodiversity.html★02 テッド・チャンの短編小説「あなたの人生の物語」(公手成幸訳、『あなたの人生の物語』早川書房[ハヤカワ文庫SF]所収)に登場する異星生命体。7本脚を持ち、放射相称の体をしている(ヘプタは「7」、ポッドは「殻」の意味)。発話言語〈ヘプタポッドA〉と書法体系〈ヘプタポッドB〉の二つの言語を使用する。ヘプタポッドAは地球人にも理解可能だが、ヘプタポッドBは2次元的な記述体系で、文全体を一つの記号として表す。そのため、書き手は書き始めた時点で文の結末を把握していなければならない。この特性は、彼らの時間認識が地球人のような因果論的なものではなく、未来と過去を同時に把握する目的論的なものであることを示唆する。作中では、この言語体系を学ぶことで、主人公のルイーズ・バンクス博士もヘプタポッド的な時間認識を獲得するようになる。★03 サピア=ウォーフの仮説(Sapir-Whorf Hypothesis) 言語が話者の認識や思考に影響を与えるとする、言語相対性仮説。アメリカの人類学者・言語学者エドワード・サピア(Edward Sapir, 1884 - 1939)とその弟子ベンジャミン・リー・ウォーフ (Benjamin Lee Whorf, 1897 - 1941)によって提唱された。「あなたの人生の物語」でバンクス博士がヘプタポッドBを習得することで時間認識が変化するのは、この仮説の極端な例を描いたものと言える。★04 ウンベルト・エーコ(Umberto Eco, 1932–2016) イタリアの記号学者、哲学者、小説家。ボローニャ大学教授。幅広い学術的著作を残した一方、『薔薇の名前』(1980年)をはじめとする小説作品でも知られる。理論書の代表作は『開かれた作品』(1962年)、『記号論』(1976年)など。中世修道院を舞台にした小説『薔薇の名前』は世界的なベストセラーになり、映画化もされた。ほかにも『フーコーの振り子』(1988年)など知的遊戯性に富んだ小説を発表した。★05 『完全言語の探求』(La ricerca della lingua perfetta nella cultura europea, 1993) ウンベルト・エーコの著書。邦訳は上村忠男・廣石正和訳、平凡社(平凡社ライブラリー)。原題は『ヨーロッパ文化における完全言語の探求』。中世ラテン・ローマ世界の言語的・政治的一体性が危機に陥り、ヨーロッパ各地で今日の国民語のもとになる俗語が台頭しはじめた時代、ヨーロッパ文化は『聖書』のバベルの塔の物語=「言語の混乱」についての省察を開始し、バベル以前に存在したとされる「アダムの言語」=「完全言語」の再建の可能性を模索しはじめる。現代のAIにまで影響を与えている「完全言語」の夢想に焦点を合わせて、それが「ヨーロッパ」の形成と発展の過程でもった意味を探り出すことをめざす、ひとつのヨーロッパ思想史。