オスカーの栄光か、それとも倫理違反か?──『Black Box Diaries』の二重構造はこう起きた
📎このnoteは、同作品に関して英語圏の情報と日本語圏の情報ギャップを埋めるため、2025.2.3に英語圏に向けて公開したもののざっくりとした日本語訳です。
伊藤詩織監督・制作のドキュメンタリー映画『Black Box Diaries』は、彼女が自分自身の加害者を相手取った民事裁判で勝訴するまでの闘いと、その過程で彼女が直面する日本における法制度や社会の数々の障害を描いていたもので、サンダンスでのワールドプレミアから本作は国際的に高く評価され、18以上の権威あるドキュメンタリー賞を受賞。30カ国以上での配給も決定し、第97回米アカデミー賞にもノミネートされた。これは、日本のドキュメンタリー作品として史上初の快挙である。
しかし、この功績にもかかわらず、『Black Box Diaries』は日本国内での公開予定がない。事件が起きたのも、この作品のメッセージが最も響くはずの場所も、まさに日本であるにもかかわらず、である。その理由について、私は海外では悲しくも誤解されていると考えている。そこで、本稿では『Black Box Diaries』がなぜ日本で公開保留となっているかを説明したい。読めば、あなたは驚くかもしれない。
『Black Box Diaries』の舞台裏
話は、2024年10月に東京で開かれたある記者会見に遡る。会見をしたのは、女性弁護士である西廣陽子弁護士と加城千波氏、そして彼女たちの代理人を務めた佃弁護士の3名。いずれも、かつて民事裁判で伊藤の弁護を担当した弁護士たちだった。
この記者会見で、彼らは伊藤のドキュメンタリーにおける法的・倫理的問題を指摘。特に、関係者の映像や音声の使用において、適切な同意や許可が得られていなかった点を強く懸念した。
彼らによれば、伊藤は法廷での証拠として提供され、西廣の共同署名のもとで「裁判専用」として使用が限定されていた防犯カメラ映像を無断で流用した。西廣は弁護士として何度も警告を発したが、それにもかかわらず映像はドキュメンタリーに使用されてしまったという。
8年半にわたり伊藤と共に闘ってきた西廣は、このような会見を開くことに至ったことを「痛恨の極み」と悔いた。しかし、水面下での交渉が決裂し、もはや手段が残されていないと判断した彼女は、メディアを通じて問題提起するしかないと考えた。それこそが、伊藤に対し「日本で公開する前に再編集する」という適切な対応を促す唯一の方法だと考えたのである。そして、西廣は伊藤とのやりとりを時系列で詳細に公開した。
時系列の展開
· 2015年6月:伊藤が自身の性被害について、西廣に初めて相談する。
· 2021年:伊藤が、自身の経験を映画化することについて西廣に相談。法的リスクを懸念した西廣は、公開前に映画を確認し、問題のある映像が含まれていないかを確認させてほしいと要請。伊藤は了承した。
· 2023年12月8日:西廣は、オンラインで『Black Box Diaries』がサンダンス映画祭でプレミア上映されることを知る。驚いた元弁護団(西廣を含む)は、説明を求めるため伊藤との面会を要請。
· 2023年12月19日:面会の場で、伊藤は防犯カメラ映像を映画に使用したことを明かす。西廣は、ホテル側の許可が必要であると警告した。
· 2024年1月11日:映画の制作会社であるスターサンズが西廣に連絡し、「防犯カメラ映像を使用せずに進める」と伝える。
· 2024年7月:日本国内でプライベートな試写会が開催される。伊藤から特に招待されたわけではなかった西廣は、自らの判断で参加。その結果、映画に関する倫理的・法的問題の全容を把握することとなった。
· 2024年7月31日:伊藤、スターサンズ、弁護団の間で会議が開かれ、ホテル側の許可取得の必要性が改めて指摘される。
· 2024年8月27日:スターサンズが弁護団にメールを送り、「ホテルの許可を得ることができなかった」と通知。代替案は提示されなかった。
· 2024年10月:海外の映画祭への参加が続く中、西廣と加城は記者会見を開く。
彼女の後ろにいる多くの女性のために
西廣は、記者会見で自身の葛藤を認めた。会見を開くことで伊藤の支持者を落胆させるかもしれず、将来的に自ら後悔する可能性もある、しかし、弁護士として見過ごすことはできないと彼女は説明する。性暴力のケースでは、直接的な証拠が得られないことが多く、被害者は状況証拠や、機関や個人の協力に頼らざるを得ない。その信頼を損なうことは、将来的な協力を阻害し、被害者が正義を求めることをさらに困難にしてしまう、と彼女は強調した。ドキュメンタリーにおける映像の無断使用は、この信頼関係を侵害する明確な行為であるため、その影響を深く憂慮し、「私は伊藤詩織さんのためだけに動いていたわけではなく、詩織さんの後ろにいる多くの女性たちのために、彼女のケースを通じて、諦めを希望へと変えられると信じてやってきた」と語った。
さらに、西廣は自身の個人的な苦痛についても言及した。それは、ドキュメンタリーの後半に彼女と伊藤との秘密録音された会話が無断で使用されていたことだった。
2021年以来、西廣は繰り返し伊藤に伝えてきた。「防犯カメラ映像は詩織さんのものではない(たとえあなたが映っていたとしても)。」しかし、その警告は無視され続けた。そして、西廣がそれを知ったのは、自身が招待も知らされてもいなかったメディア試写会の場だった。
その瞬間を彼女は静かに語った。「ただ虚しさだけが残った」。
どのようにして「パラレルワールド」が生まれたのか
海外では、この映画は50以上の国と地域で上映され、18もの権威あるドキュメンタリー賞を受賞。観客からは熱い称賛と感動の声が相次いでいる。勇敢で高いメッセージ性をもつとして高く評価され、国際映画祭ではスタンディングオベーションが続出。批評家たちもその勇気と影響力を絶賛している。
この「パラレルワールド」が存在するのは、英語圏では、英語が流暢な伊藤だけが関係者として世界に直接発信しているためだと私は考える。海外では、「日本でそれが上映されない理由」は、文化的・社会的な問題として(伊藤によって)語られ、それがほとんど疑問視されることなくそのまま理解されているからだ。
▼ジョナサン・マーロウによるインタビュー
HtN:「日本ではなくサンダンス映画祭でプレミア上映することを決めたのは、どのような経緯だったのでしょうか?」
SI(伊藤):「[…] 日本での配給や上映が難しいことは、私たち全員が分かっていました。だからこそ、日本国外で上映し、逆輸入する形を取る必要があったんです。サンダンスでワールドプレミアをした後、世界中を巡回しています。いつか日本に持ち帰ることができればと願っています[…]」
HtN:「日本での上映に関して、関係者が懸念している点は?」
SI:「うーん、ほら、日本人ってあまりハッキリ言わないじゃないですか。だから、ここや他の国で上映しているうちに、日本も“もう準備ができた”と感じるようになるんじゃないでしょうか。」
また、日本公開の見通しについて聞かれた時は、
▼ナタリア・ケーガンによるインタビュー
D:「『Black Box Diaries』の2025年日本公開を目指していると読みましたが、順調ではないようですね。進展はありましたか?」
SI:「いえ、残念ながら。日本のチームが頑張ってはいますが、まだ道は開かれていません。個人的には、距離を置きたい気持ちが強くなっています。トロール(ネット荒らし)が多すぎて、もう大変なんです。でも、おかしな話ですよね。映画を観られない人たちが、『CCTV映像(防犯カメラ映像)を使っているからプライバシー侵害だ』とメディアで書いてるんです。まず第一に、私はシェラトンホテルに約4,000ドル(約60万円)支払って映像を入手し、その上で全員の顔をぼかしてもらっています。当然、加害者と私は映像に映っていますが、これは公共の利益のためです。それでも、今も日本ではこの問題を語ることがいかに難しいかを痛感しています。」
しかし、「なぜ扉を開けられないのか」、伊藤は明確に知っていたはずである。このインタビューが行われたのは、日本の弁護士たちが記者会見を開き、法的な懸念を正式に表明してから約1カ月後のことだったのだから。
記者会見で挙げられた、主要な問題点は明白だった。
防犯カメラ映像の無断使用
ジャーナリズム倫理の侵害
└ (1) 伊藤は、明確な同意を得ず、あるいは一部のケースでは許可なく(例:協力的だった刑事やタクシー運転手)、複数の人物をドキュメンタリーに登場させた。彼らは、告発された男性に対する正義の追求を支援するつもりで伊藤とコミュニケーションを取っていたが、その際に秘密裏に録音・録画された音声や映像を無断流用することは倫理的に問題がある。
└ (2) さらに、これらの人物の身元は十分に保護されていなかった(例:タクシー運転手の顔が画面に完全に映っている)。もし伊藤が「ジャーナリスティックに取材した」のであれば、匿名性を確保するべきだった。
└ (3) 個人的なメモとして秘密録音を行うことは伊藤の権利かもしれない。しかし、許可なく隠し撮りした素材を世界中に公開すること——特に、西廣との秘密録音を含め——は、登場人物の同意や人権を無視する行為である。
おっと、ついでに、伊藤は記者会見から十日と経たないうちに、「職務上知り得た情報を公にすることは弁護士の守秘義務違反にあたる」という内容の内容証明を西廣に速やかに送付したことを、私は書いただろうか?
記者会見から約3カ月間、伊藤は日本国内では沈黙を守り続けた。彼女の新しい弁護士が記者に対応したのは約2カ月後のことだった。そして、2025年1月23日——アカデミー賞のショートリスト入りが発表された頃、ついにハフポスト日本版のインタビューで沈黙を破った。
そこで彼女は、防犯カメラ映像の使用許可を得るために努力したものの、結局、許可は得られなかったと認めた。そしてその代替策として、「CGIを使って映像を“違うように見せた”」と説明した。しかし、この発言は、西廣弁護士の見解と真っ向から食い違っている。
2024年12月19日、法律ニュースサイト「弁護士ドットコム」が報じたところによれば、西廣は次のように述べている。「基本的に、映像は“そのまま”使用されている。」裁判資料として提出された映像と、映画に使用された映像で異なる点は「車両に光るタクシーの看板が追加されたこと」「色合いの微調整」「わずかなぼかし処理」程度に留まっていると指摘した。そして、もちろん——これは「どれだけ映像をぼかしたか」の問題ではない。
この件は、新たな訴訟につながるかもしれないが——ホテル側のスタッフがそうなる前に証言しない限り——それでも一つだけ明確なのは、説明責任を免れられない日本と、国際的な対応とでは、伊藤はまったく異なるやり方を取っている、ということだ。
変わり続ける「防犯カメラ映像」の説明
海外のインタビューでは、伊藤は「この映像をどのように入手したのか」について、好意的な関心や称賛を受けている。しかし、その説明の内容は一貫しておらず、詳細は曖昧にされたままだ。
・インタビューの例1
HtN: 「どのようにしてホテルの防犯カメラ映像を入手できたのですか?」
SI(伊藤): 「とても長いプロセスでした。事件の1週間後、私は警察と一緒にホテルを訪れ、防犯カメラ映像を求めました。当然、ホテル側は映像を渡してくれませんでした。私は、映像が消去されてしまうのではないかと心配でした。もしかしたら1週間後には上書きされてしまうかもしれない。ホテルは、『加害者もホテルの宿泊客であり、当時宿泊していた他の人々の姿も映っているため、裁判所の命令がない限り提供できない』と説明しました。最終的に、裁判の証拠としての使用は認められましたが、それでも映像の入手は困難でした。なんとか方法を見つけました。」
・インタビューの例2
CR:「あなたが描いた人生の試練だけでなく、この映画制作において特に困難だった点はありますか? 例えば、ホテルの防犯カメラ映像をどのように入手したのでしょう? 簡単なことではなかったはずですよね。」
SI(伊藤):「本当に大変でした。でも私はジャーナリストであり、また被害者でもあるので、特別なアクセスがありました。ただし、プライバシー保護のために、秘密録音の一部や声の変更、映像のぼかし処理などを施す必要がありました。そのため、いくつかの課題がありました。」
そして「Los Angeles Times」は、以下のように伊藤の状況を説明する。
『Black Box Diaries』における潜在的な法的責任を回避するために、伊藤はホテルから画質の粗い防犯カメラ映像を購入し、それを使用した。
「購入」とはもちろん権利の移転を意味する言葉に思えるが、そうだったのだろうか?
映画から「柱」を取り除いたらどうなるのか?
でも、そんなのたかが一つのシーンでしょう?削除すればいいじゃない。問題解決。
……だが、ドキュメンタリー映画制作というのは、そんな単純な話ではない。あらゆる芸術作品と同様に、映像の一コマ一コマ、音声の一つ一つが綿密に選び抜かれ、意図的に構成されている。それぞれの要素は、観客の感情をどのように導くかを計算し、慎重に配置される。
防犯カメラ映像は、単なる「一要素」ではない。この映像こそが、映画の一つの核であり、国際的な批評家たちによって「衝撃的」「最も印象的な場面」として最も多く言及されているのである。
完成版を実際に見た数少ない日本の映画評論家である斉藤博昭氏も、
「(防犯カメラの)映像は、その他のシーン、たとえばタクシー運転手やホテルのドアマンの証言などと結びつき、観る者の脳裏にやきつく。つまり作品において根幹を占める要素」であるとし、
「現在の完成作では確かに防犯ビデオの映像、当該弁護士の方の音声、警察側の担当者の電話の声などが非常に重要な役割を果たし、これらによって事件の様相がわかり、作品に説得力を与えています。その意味で、監督としては絶対に入れたかった気持ちもわかりますが」……と述べるのだが、しかし、それはその言葉自体が矛盾している。
シンプルな事実はこうだ。伊藤には、法的にも倫理的にも所有権のない映像を使用する権利はなかった。ドキュメンタリー作品の監督の役割は、ただ「理想を思い描くこと」ではない。 それを倫理的に、合法的に、そして商業的に実現するための労力を惜しまず費やすことが求められる。そのために、権利を確保し、許可を交渉し、関係者に真摯に承認を求める──これら全てが不可欠であり、その過程には粘り強さと誠実さが必要だ。
「映像が称賛される」というのは、単にその芸術的な完成度だけが評価されているのではない。そこに至るまでの努力、交渉、そして倫理的な責任を果たしたことも含めて、その祝福が与えられるのだから。
もし、Black Box Diariesが、それらの要素なしには、その深み・ビジョン・インパクトを維持できないとしたら?それはすなわち、伊藤のドキュメンタリー監督としての手腕、その作品が受賞した18の賞、そしてアカデミー賞ノミネートの正当性もが揺らぐことに他ならない。
論争が過熱する中、伊藤は2025年1月23日、ハフポスト日本版のインタビューで、「私は日本とアメリカの両方で法的チェックをクリアしています。したがって、法的問題はありません」と発言した。
……が、この言葉は、単なる活字であるにもかかわらず、私の中で妙に響き続けている。もし、彼女が映画の現状を正しく報告していたとすれば、「法的チェック」とは一体何を指すのだろうか?
それは依然として謎のままだ——答えを知っているのは、ただ一人、伊藤だけである。
戦略的な妙手か、それともモラルハザードか?
2024年10月の米国でのインタビューで、伊藤は自らの戦略についてこう説明している。「海外での上映実績を利用し、それを“逆輸入”する形で日本に持ち込む」。
なるほど、巧妙で賢い手法である。だが、もし彼女が破ろうとしている「壁」が、「文化的な慎重さ」や「社会的な未成熟さ」ではなく、倫理的な一線だとしたら?
伊藤が最初に日本で映画を公開しなかった理由は明白だ。彼女のチームは、この映画が大きな論争を引き起こすことを理解していた——まさに今起こっているように。仮に最初に日本で上映していたら、この論争は国内で先に巻き起こり、映画が抱える法的な脆弱性が浮き彫りになった可能性が高い。そうなれば、国際的な配給に大きな障害が生じる。だからこそ、彼らはまず海外で公開するという方法を選んだ。そこには、直接の利害関係者がおらず、問題提起されるリスクが低いからである。
こうして、「商業的に配給されるドキュメンタリーならば、すでに法的なハードルをクリアしているはずだ」という前提が暗黙のうちに成立した。さらに、映画が十分な評価を獲得し、「社会に与える影響」が無視できないほど大きくなった段階で、その勢いを利用して日本での公開を求める流れに持ち込む。なぜなら、「これは公益性が高いものだから」。
また、伊藤のチームは、彼女の経験した「苦しみ」を「未だに日本で上映できない映画」という状況自体に重ね合わせ、作品のメッセージの一部とした。もちろん、伊藤が海外メディアのインタビューで語る「その理由」は、決して客観的なものではない。それでも、これほど勇敢なドキュメンタリー作品が、なぜか日本では上映される予定すらないという不可思議な事実は、ドキュメンタリーに映し出される伊藤の姿に重なってその物語の持つ迫真性をさらに増すだろう。結果として、伊藤のチームはアカデミー賞まであと一歩の位置にいる。
この「存在できないはずの映画」を「世界が賞賛する映画に変えるマジック」はどうやら通用するらしい、そこに圧倒的な地理的、言語的な情報の壁が存在する場合においてのみであるが。そして私は、その壁を打ち破るために、今この記事を英語で書いている。
現在進行中の論争の中で、25年の1月には別の深刻な倫理問題が浮上した。
東京新聞の調査によると、映画の後半に含まれている約2分40秒の映像シークエンスの中に、当事者の許可なく使用された別の素材があったという。その映像は、性被害や性差別を受けた経験のある女性ジャーナリストたちがプライベートな場で想いを共有するシーンとされている。その映像の無断使用に気づいた女性の一人は、2024年末に伊藤氏に削除を要求し、伊藤は最新のバージョンではそのシーンの削除を約束したが、2025年1月時点で、その映像は依然として米国では公開されており、約7200万人の有料加入者が視聴可能な状態にあるという。
ところで、ロサンゼルスの映画評論家マーヤ・E・ゲイツは、このシーンについてこう語っている。「映画の中で最も感動的なシーンの一つであり、物語のクライマックスを生み出す重要な瞬間だった。」
防犯カメラには、人権はない。
伊藤に同情的だった刑事は、完全な「私人」とは言い切れず、彼が画面に映されることは、正当化されるのかもしれない。タクシー運転手は顔が完全に映し出されているが、彼とて世界中で放映されることを気にしないかもしれない——彼が裁判の途中で協力をやめ、現在は連絡が取れないことを考慮しなければ。伊藤による許諾のない映像や音声の使用に、明確に苦痛を訴えたのは、「たった二人」である。伊藤の功績を考えれば、これらは小さすぎる声だろうか。彼女たちは、公共の利益という大義の前に、黙っているべきだろうか?
皮肉なことに、『Black Box Diaries』の本質的なテーマは「同意の大切さ」や「抑圧や制圧と戦う、小さな人間」である。なぜそれが皮肉か、私はあえて言うことはしない。
伊藤氏は今、日本国内だけでなく、国際的にも説明責任がある。なぜなら、関係者はもはや日本国内だけではなく、彼女の映画を称賛した映画祭や批評家たちも、もはや「関係者」であるからだ。そして映画祭(フィルム・フェスティバル)という可愛らしい名前で呼ばれるその実は“competition”に他ならず、そのクラウンをめぐってドキュメンタリー監督がしのぎを削り、人生を賭けて作品を提出する場であるからだ。<了>
📌オリジナル英文記事はこちら
【注釈】:記事のラストに引用している東京新聞の報道に関しては記事の一部の表現に対する訂正報道がありましたが、その場面に参加した女性のなかに削除を希望し、要望し、約束された女性がいるという点は依然とした事実であるとを東京新聞側に確認した上で、本記事内の表記とさせていただきます(2025.02.15)
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コメント
2とてもわかりやすい、意義深い記事をありがとうございます。
ひとつだけ訂正をお願いします。「戦略的な妙手か、それともモラルハザードか?」の最初、”2025年10月の米国でのインタビューで”は、2024年10月かと思います。
英文記事のほうも、 in October 2025 になっていました。
ありがとうございます!英文の方もだったのですね。あわせて訂正させていただきました。