老荘思想すら知らない人が『ドラゴンボール』を語るな!
長年Webライターの端くれとして活動していることもあってか、あるいは書いてる文章や好きな作品の傾向からか、私はよく「懐古主義の老害」なんて呼ぶ輩がいる。
それこそ昨日晒してやった奴もこんなことを言っていたので、是非ともここに掲載させてもらおう。
彼の意見はある意味で私のアンチの代弁でもあって、私の文章を読んでいる奴の大半はこいつのように思っているのではないか。
ネットでは「懐古厨」と叩く人はたくさんいるが、逆に「新規厨」という言葉を使って「新しいものを無条件に肯定し古いものをやたらに否定する」という考え方だ。
私がXでかつて絡んだことある人もそうだったか、「鬼滅の刃」をやたら持ち上げて「ドラゴンボール」を「ドラゴボ」とか略して雑語りしたがる人とかね。
そういえばこんなこと書いてたアホもいたっけ、「孫悟空は戦闘狂としてもヒーローとしても中途半端」と……ある意味では当たっているが、決して正鵠を射るほどの指摘でもあるまい。
そもそも『ドラゴンボール』を一言だって「ヒーローもの」だと故・鳥山明は書いていない、劇中の人物が悟空をしてそう評することはあっても、悟空自身は別に英雄足らんとしたことは一度もないのだ。
悟空を英雄だと讃えたのは劇中でただ1人、おそらく悟空のピッコロ大魔王を倒した後のブルマくらいで、そのブルマはその後も悟空を「何とかしてくれる人」と信頼も置いていた。
とはいえ、じゃあ本気でブルマが悟空をそのように思っていたかというとそうではなく、むしろ世話の焼けるわんぱく小僧くらいにしか思っていなかったはずである。
それに悟空はあくまでも魔人ブウ編まで一度たりとて何かを守ろうと思ったのではなく、亀仙人の次の教えをただ忠実に守っているに過ぎない。
鳥山明が知っていたかどうか今となっては故人であるため知る由もないが、実は亀仙流の教えは古代中国の「老荘思想」に近い。
どのような考え方かは是非ここを読んでほしい。
現実社会に対する批判と抵抗,超越(逃避)の精神,その結果としての内面的世界の凝視と精神世界における絶体的自由の確立,個が個としての本来的価値を回復しそれぞれの立場に安住することを理想とする徹底した個人主義,世俗的常識的価値観を根底から覆えす価値の転換,言語文字の軽視と体験の重視などは,いずれも社会の底辺にありながら覚めた眼でおのれと社会とを凝視するものの立場を反映したものといえよう。
孫悟空の考え方はまさにこれに近く、元々「西遊記」をモデルに作られていることもあるだろうが、孫悟空にはいわゆる「英雄思想」もなければ「我欲」もないのだ。
これはまさに「英雄思想」を持っている孫孫悟飯並びに「我欲」の塊であるベジータとの対比がそうだし、実際『ドラゴンボール超スーパーヒーロー』は「英雄」の物語だったのである。
東映アニメが勝手に作ったZ時代の短編映画や「GT」は別として、鳥山明が原作者として直接に描いた原作42巻、映画「神と神」「ブロリー」「DAIMA」も含めて「英雄」は孫悟飯以外にいない。
だが、鳥山明自身はその孫悟飯を主人公にして描こうとは一度もしなかったし、それをやろうとして人気が出ずに失敗したのが魔人ブウ編前のハイスクール編だった。
孫悟空はなぜに戦い続けるのかはとても簡単、彼は「戦闘狂」でも「英雄」でもない「武道家」だからであり、彼にとっての戦いとは天下一武道会の延長線上に過ぎない。
そいつがたまたま凶暴な戦闘民族サイヤ人だっただけで、彼はいわゆる「好き嫌い」という感情や社会的な「善悪」という俗世の価値観から解き放たれた存在だった。
「悪の心が全然ない」と言われる悟空だが、もっといえば悟空にはいわゆる「善」の心すらもない、なぜならば善の価値観はあくまでも地球人としてのごく狭い価値観に過ぎないからである。
悪く言って仕舞えば、鳥山明にとっては「英雄思想」として描かれる戦いなどは興味もないし、そこに囚われていたら面白いものは作れないという価値観を持っていたのだろう。
だから、一番盛り上がったナメック星編でも彼はギニュー特戦隊や超サイヤ人などで特撮ヒーローの「変身」「名乗り」を彼なりにパロディとして取り入れながらも、決して真正面から「ヒーロー」を描こうとはしなかった。
ベジータとの戦いもフリーザとの戦いも、思えば全ては「たまたまドラゴンボール争奪戦の過程でぶつかり合った敵」に過ぎないし、彼が超サイヤ人に覚醒したのもクリリンの死がきっかけに過ぎない。
しかもそのクリリンの死自体の重さというよりは、それが彼の中にある戦闘民族サイヤ人・カカロットとしての激しき闘争本能を覚醒させたからというのが正確な表現だろう。
それほどの怒りをむき出しにさせるほどフリーザは悟空にとっての因縁の相手というに相応しいカリスマだったし、だからと言って殺そうとまではしなかった。
悟空は「不殺主義」と言われるが、いわゆる「るろうに剣心」の緋村剣心や「ガンダムSEED」のキラ・ヤマトのような意味合いでの不殺主義ではない。
悟空が敵を殺さない理由には、自分に匹敵する実力を持ち、今後も対等に近い勝負ができそうだから、という側面もある事が分かります。サイヤ人の闘争本能を満たす相手がいなくなってしまうというのは惜しい、という考え方があるからなのですが、そこに戦い=試合であるという概念があるからこその考え方であるとも言えます。ベジータもセルをわざと完全体にするなど、より強い敵と戦う事を望む傾向がありますが、とどめはしっかり刺しますからね。
そう、ルロイ氏が述べているように悟空の不殺主義はかつて人斬りの修羅だった剣心や戦闘マシンになっていったキラのそれとは全く異なる。
剣心やキラは修羅の世界に身を置く中で精神を蝕まれていったことからこうなったという、言うなればPTSDのようなものに近いと言えるだろう。
それに対して孫悟空は武道大会だから「実力で相手を圧倒し決着が着いたら興味が薄れる」という、まさにトップアスリートやスポーツ選手の考え方だ。
ベジータが「あいつは遂に俺の命を断つことにこだわりはしなかった」と言っていることからもそれは明らかであり、彼が明確な殺意を持って殺したのはピッコロ大魔王くらいだろう。
フリーザは未来トランクス、セルは孫悟飯が倒しているし、ラストの魔人ブウに関しては「いいやつに生まれ変われ」と願った末のことだから殺意というよりは「浄化」に近い。
そう、徹底して老荘思想を貫いている悟空には他のヒーローものにありがちな説教臭さや道徳的価値観・哲学というものがなく、さりとて世の中に貢献するわけでもない独立独歩な生き方を目指したのだろう。
彼がセルゲームで生き返ることを拒んだのも、魔人ブウ編で地球の運命を背負うことになったのもあくまで「他に選択がなかったから」であり、人殺しにも奉仕活動にも一切興味がなかった。
そんな彼の徹底したFreedomでもありlibertyでもある二重の「自由」な生き様を「中途半端」としか評せない人たちはそういう「世俗の価値観にとらわれない生き方」が理解できないのだろう。
人は己の価値観で理解できないものを「詐欺」か「宗教」かで片付けるし、きちんと一貫した生き方をしているはずの人物を目に見える部分だけで判断して「中途半端」と言ってしまう。
そう言うならば一度孫悟空のような生き方を選んで実際にやってみるといい、世俗の価値観にとらわれず自分の好きな武道なり何なりに身を置く修行僧のような生き方を……おそらく1ヶ月と持たずに音を上げるはずだ。
そんな「ドラゴンボール」も「DAIMA」が終盤に差し掛かるのだが、鳥山明が生前に関わった最後の作品がどんな生き方でどんな軟着陸を迎えるのか、とても楽しみである。
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