阪神の名ショートで、3度監督を務め、球団初の日本一に導いた吉田義男氏が3日、西宮市内の病院で脳梗塞のため亡くなった。91歳だった。現役時代に「牛若丸」の異名をとる華麗な守備で2度のリーグ優勝に貢献。2度目の監督となった1985年には、現オーナー付顧問の岡田彰布前監督(67)、OB会長の掛布雅之氏(69)、ランディ・バース氏(70)らの強力打線を擁してチームをリーグ優勝、日本一へ導いた。背番号「23」は永久欠番となっている。

 「牛若丸」、「ムッシュ」、「よっさん」

 偉大なる阪神のレジェンドが亡くなった。吉田氏は、昨年12月から体調を崩して入院していたが、3日、入院先の病院で脳梗塞を発症して帰らぬ人となった。京都出身の吉田氏は、立命館大を経て1953年にタイガースに入団。1m65と体格は小さかったが、華麗な守備から「牛若丸」の異名で呼ばれ、当時はゴールデングラブ賞を兼ねていたベストナインを9度受賞、盗塁王も2度獲得、通算1864安打をマークして、1962年、1964年のリーグ優勝に貢献した。
監督としては、1975年から1977年、1985年から1987年、1997年から1998年と3度登板。1985年には阪神を21年ぶりのリーグ優勝と球団史上初の日本一に導き、ファンや選手、関係者からは「よっさん」の愛称で親しまれ、3度目の監督就任前には、フランスの代表監督を務めるなど、フランスでの野球振興に尽力していたため「ムッシュ」との呼び名までもらった。1985年の優勝は、岡田氏、掛布氏、バース氏の巨人戦でのバックスクリーン3連発に象徴される猛打のイメージが強いが、岡田前監督は「『守りで攻める野球』で勝ったチーム」と評していた。
二塁の真弓明信氏を外野へコンバート、外野の岡田氏を二塁に戻して、一塁・バース氏、遊撃が現2軍監督の平田勝男氏、そして三塁が掛布氏の黄金の内野を作り上げた。
ゴールデングラブ賞を6度受賞した阪神のOB会長である掛布氏も徹底して守りを鍛えあげられた一人。掛布氏は、入団2年目の1975年に1度目の監督就任となった吉田氏にレギュラーに抜擢されたが、この時も、吉田氏は三塁のレギュラーだった佐野仙好氏を外野にコンバートさせて、掛布氏をサードで起用した。
安芸キャンプでは、吉田氏が見守る前で、連日猛ノック。教えられたのは、「打球を体の中心で抱え込むようにして捕球するのではなく、前でさばきなさい」というプロのスキル。
吉田氏は、自らグラブを持って、プレーを実践。
掛布氏は「その姿を見て学んだ」という。
「パンパンと凄いスピードとリズムで打球を処理する。カッコよかった」
掛布氏は、今でも“牛若丸”の姿が目に焼き付いているという。

 2度目の登板となった1985年には監督として、球団初の日本一を手にした。
高知・安芸キャンプでは、当時、暴力団の抗争が激化していたこともあり、いらぬトラブルに巻き込まれないため、休日のゴルフが禁止されていた。だが、息がつまる日々に選手の間からは、不満の声が高まり、当時の選手会長だった岡田氏、掛布氏、真弓氏らの主力選手が中心となって、吉田氏に「ゴルフ解禁」を直訴したことがあった。すると、吉田氏は、「あんたら選手会で決めたことでっしゃろ。キャンプの1か月だけは、最後まで決めたルールは守りなはれ」と、少し憤慨した様子で却下した。
厳しい姿勢を貫くと同時に「自分たちに厳しくあれ」と選手を大人扱いしたのである。そのシーズン、吉田氏は、岡田氏、掛布氏、バース氏ら主力には、サインは、ほぼ出さなかった。選手達に、自分たちで考え、自分たちの役割に責任を持つことを教えて時には「ダメ虎」とも叩かれたチームを頂点へ導いたのである。
今季から指揮を執る藤川球児監督は、V奪回へ向けて、岡田前監督が作りあげたチームをさらにブラッシュアップしようと、選手に主体性を求めているが、その原点は、吉田氏の野球にあるのかもしれない。
藤川監督は、球団を通じて、「突然の訃報に驚いています。偉大な大先輩であり、またお元気な姿で再会して叱咤激励いただけるつもりでいましたので、残念でなりません。素晴らしい先輩方が作り上げた伝統を、私たちが責任を持って受け継ぎ、また次の世代に繋いでいきたいと思いますし、天国の吉田さんに良い報告ができるように、目の前のことに全力を尽くしてシーズンを戦っていきます。故人のご冥福を心よりお祈りいたします」との追悼コメントを出した。
通夜、葬儀、告別式は家族葬で行われ、後日、改めて球団の「お別れの会」が開かれる予定だ。