古くから山には魔物が棲んでいると言われている。
それはヨーロッパに限らず、日本でも山姥、山男、天狗、雪女などの、数多くの妖怪伝説が残っている。
それらの伝説は山岳信仰によって生まれたものだと考えられ、その起源は縄文時代にまで遡ることができると考えられる。
だが、冬の雪山で最も恐ろしいのは妖怪ではなく、視界不良になる可能性があるところだ。
激しい吹雪によって視界一面が白に染まり、地形も方向も、自分が立っている場所さえも分からなくなってしまう。
――いわゆるホワイトアウトというやつだ。
本来ならそれに巻き込まれる前に、安全な場所を確保して吹雪が止むのを待つのが一番いい。
しかし、山の天気は変わりやすく、いつ吹雪に遭うかの予測はしづらいのだという。
そして今まさに、そのホワイトアウトに遭ったばかりだというのに、何故か嬉しそうにそんな説明をしている登山バカの名は、坂月楓和梨という。
普段は大人しい彼女だが、山の話になるとお喋りが止まらない。
私は彼女のことを、ふうちゃんと呼んでいる。彼女の友達はみんなそう呼んでいるらしい。
――なんとなくの反発心で楓和梨と呼んでいたら、わりと本気で涙目になってきたのには困った。
せっかく親が一生懸命考えてつけてくれた名前なんだから、そこまで嫌がらなくてもいいのに。
でも、仕方ないから素直にふうちゃんと呼んでやることにした。
ふうちゃんは大学で知り合った私の友達のひとりであり、お互いに大学1年生だ。
彼女は中3から登山を始めたが、文部科学省の定めにより高校生以下の冬山登山は原則禁止されているため、今回が初めての冬のアルプスへの挑戦であるらしい。
一方、私はと言うと、子供の頃にピクニックをした記憶くらいはあるけれど、本格的な山登りをすること自体がこれが初めてのことだった。
先程吹雪を避けるためにテントを設置したが、私は全然ふうちゃんの手伝いもできずに見守ることしかできなかったくらいの登山初心者だ。
私はふうちゃんの説明をラジオ感覚で聞きながら右脚をさする。
先程転倒して捻挫してしまったのだ。
下山すべきか悩んだが、一旦は休憩所を目指そうという話になった。
だが、不幸は重なるもので、そんなときに吹雪に遭った。
すると、ふうちゃんは突然思い出したかのように、はっとした表情になった。
「あ、お喋りしてる場合じゃないよね、ここちゃん。
ごめんね、それより脚の治療のほうが先だよね。大丈夫そう?」
「ん。痛いけど、別に動かせないってほどじゃないから」
ここちゃん、というのはもちろん私、――天馬心のことだ。
このテントの中にいるのは私とふうちゃんのふたりだけ。
登山道でも他の登山客とはほとんどすれ違わなかった。
ここ北アルプスは、年末にも開かれているけれど、登山のベストシーズンではないし、まるで貸し切り状態みたいだ。
問題は、登山を始めて数時間ほどで何故かスマホの電波が全く通じなくなってしまったということだ。
しかも、私たちは地元の富山県から直接ここまで来ているから、宿の予約も取ってない。
年末だから大学はもちろん、アルバイトも長期休暇だし、ともに一人暮らしをしている私たちの行方不明に誰も気が付きはしないだろう。
今はスマホの電波が回復するのを待つか、あるいは吹雪が収まるのを待つしかないようだった。
それに加えて、私に右脚の捻挫……。仮に吹雪が止んでも、自力で下山することは難しいかもしれない。
……でもまあ、水と非常食は3日分もあるし、さすがになんとかなる、よね?
捻挫も完治とまではいかなくても、丸一日でも経てば少しは痛みも収まってくれるだろうし。
そんなことを考えて不安な気持ちを落ち着けていると、ふうちゃんはバックパックから冷感湿布を取り出して、捻挫した私の右脚に貼ってくれた。
そこで私は何かの漫画で読んだような知識を思い出す。
「あれ、捻挫ってまずは冷やしたほうがいいんじゃなかったっけ?」
「普通はそうだけど、もう外の気温で十分過ぎるほど冷えてるから大丈夫、……だと思う。
あとは捻挫した部位を心臓より高い位置に上げる必要があるから……、そこに仰向けになって」
「えっと、こう?」
言われるがままに私はテントの床で仰向けに寝る。
テントの広さはふたりが横になり持ち運び用のランプを置いたら、もうほとんどスペースがないくらいだが仕方ない。
すると、ふうちゃんはブランケットを折り畳んで私の足の近くに置いてくれた。
私は遠慮なく、そのブランケットに右脚を置かせてもらう。
患部を心臓より高い位置にすることで内出血による腫れを軽くすることができるらしい。
彼女のバックパックからは、どこかのネコ型ロボットのポケットみたいに、次々といろんな道具が出てくる。
一体どこにそんな収納スペースがあったのか気になるが、おかげで私の荷物は少なくて済んでいるからありがたい。
――そんなふうちゃんと私が初めて言葉を交わしたのは、今年の4月のことだった。
「うーわ、ガチぃ? 学食激混みじゃん」
新歓シーズン真っ只中の食堂は、黒山のような人だかりだった。
食堂には様々なメニューがあり、そのメニューごとに注文口が分かれているが、どこも行列になっていた。
特に人気があるのは定食系のメニューやカレーライスなど、一般的にイメージされるような学食である。
本校には、普通のお店もチェーン店のような形で入っており、ハンバーガーやラーメンなどのメニューもある。
しかし、そちらに並ぶ列もやはり多くの学生が並んでおり、料理を受け取るだけでも5分から10分程度はかかるだろう。
私は券売機で唐揚げ定食の食券を買って長蛇の列に並ぶ。
人が多い注文口の上に揚げ物系なんて時間がかかるのは分かっていたが、こうなりゃとことん待ってやろうと思った。
それから15分ほど待って、やっとの思いで唐揚げ定食のトレーを受け取るが、今度は座れる席が見つからない。
私は仕方なくうろうろしていたが、ちょうどひとりの学生が食事を終えたようで、食器を返却口に戻しに行く姿が見えた。
「隣座ってもいい?」
私はそのカウンター席の隣にいた女子学生に声をかける。
一応座っていいかとは訊いたものの、断られる筋合いもないので返事も待たずに腰かけていた。
「あ、どうぞ……」
その女子学生はスマホを片手に少し戸惑ったような表情をしたが、快く了承してくれた。
「どーも、ありがと。
……あれ? あなたもしかして1年生? どっかの講義で一緒じゃなかった?」
触れれば消えてしまいそうな、粉雪みたいに儚げな少女。
透き通るような白い肌に、ふんわりとした長い髪。
私が声をかけたのは、そんな少女だった。
間違いなく美人の部類ではあろう。一目見ればすぐには忘れられない程度には。
「あ、えっと、韓国語とか心理学とか物理学とか?」
「お、記憶力いいじゃん。多分正解! 分かんないけど!」
「必修科目だから同じ1年生なら一緒だよ。第二外国語は選択式だけど……」
ま、そりゃそうか。韓国語が合ってるんだから、その記憶は多分正しいとは思うけど。
さてと、見知らぬ少女と駄弁っている時間はあんまりない。
次の講義まではあと20分ほど。
大学の講義なんて別に多少遅れても問題はないけど、講義の最初に出欠を取るパターンもなくはない。
しかも、その出欠確認が教授の気まぐれで行われる可能性もある。
少なくとも4月のうちは真面目に講義に出ておかないと不安だ。急がないと。
そんなことを考えながら割り箸を割って、唐揚げに手を伸ばそうとした瞬間、パシャッという電子音が隣から聞こえてきた。
見れば、その彼女が自分の料理をスマホのカメラで撮っているところであった。
「え。何あんた。学食の写真なんか撮ってんの?
あ、もしかしてダイエット中?」
写真でカロリー判定してくれるアプリとかあるから、そういうのを使ってるのかなと思った。
ダイエットやなんらかの理由で食事制限をしているというなら分からなくはない。
「いや、日替わり定食だから、インスタにあげようかなって」
「はあ? あんたその見た目でインスタやってんの? 似合わなー」
偏見かもしれないが、インスタなんて陽キャ御用達のSNSで、こんな如何にも大人しい文学少女がやっているというのはイメージに合わなかった。
「結構私の友達でもインスタやってる子多いし……。
ほら、フォロワーもそんなに少なくないでしょ?」
そう言って彼女は不満げな顔で私にスマホの画面を見せてくる。フォロワー20人か……。
まあ確かに少なくはない。意外とこいつ、交友関係広いのかな。
今日の日替わり定食は酢豚か。確かに学食ではちょっと珍しいかもしれない。
しかし、それにしても――、
「料理以外は全部山の写真じゃん。あんた山が好きなの?」
――それは迂闊な質問だった。
私がそう訊ね終わると同時に、彼女は急に目を輝かせて滝のように語り始めた。
「そう! そうなの! 私は山ガールなの!!
『あなたは何故山に登るのか?』と訊ねられれば、私は『そこに山があるから』と答えるね!
あ、この言葉はイギリスの登山家、ジョージ・マロリーのものとされているけど、正確にはこの回答は、"Because it’s there"を日本語訳したもので、"it’s"はエベレストを指していると考えるのが自然な文脈で――。
ともかくね! マロリーは何度も遠征隊の一員としてエベレスト登頂に挑戦をしたんだけど、1924年の第3次遠征のときに行方不明となってしまったの。
そしてその後、1999年にエベレストで遺体となって発見されたマロリーが、世界初のエベレスト登頂に成功していたか否かは今でも不明で議論を呼んでいるんだよ。
登山史にはっきりとエベレスト登頂に成功したと記録されるのは、ニュージーランドの登山家エドモンド・ヒラリーが初めてで、それはマロリーの挑戦から30年近くもあとのことだったんだ。
つまりエベレストっていう山はそれだけ高く険しい山なんだけど、死と隣り合わせの世界だからこそ感じられる魅力、神秘性ってものもあると思うんだよね。
その証左として、アメリカの小説家ラヴクラフトの『狂気の山脈にて』をもとにしたクトゥルフ神話TRPG『狂気山脈』もYouTubeなんかで人気があるシナリオだよね。
やっぱりさ、私は海より山派だな。海にも山に負けないほどの神秘性はあると思うけど、命っていうものはやっぱり、瀬戸際でこそ輝くものだよ。
日常の中でその輝きが最も感じられるのは山だよ、山。まあ、さすがにエベレストはちょっと行って帰ってくるなんてことできないけど。
でも日本にも十分険しい山があってね。
戦国武将の佐々成政は小牧・長久手の戦いで羽柴秀吉と和睦した徳川家康に再起を促すために冬の北アルプスを越えたとされていて、この逸話は『さらさら越え』と呼ばれているんだけど――」
……こいつ、山の話になると無限に喋るじゃん。しかもバリバリのアウトドア派。
如何にも大人しい文学少女という初見の印象はどこへやら。
というか、いくらなんでも初対面の相手にここまで語るのはさすがに異常である。
「あー、分かった分かった! また今度ゆっくり聞いてあげるからさ。
とりあえず友達になろうよ。今はあんまり時間がないの」
「え、インスタの相互フォローってこと? 友達機能は使ったことないけど」
「違う違う! リアルに友達になろうって話!
これから講義でも何度も顔合わせることになるでしょ!」
「……いいの? こんな山オタクでも?」
さっきまで熱烈に語っていたくせに、急にしおらしくこちらを見つめてくる。
こういうのがギャップ萌えってやつ? これに騙される男も少なくないんだろうなあ……。
「うん、私、天馬心。よろしくね」
「あ、坂月楓和梨です。よろしくお願いします!」
――それが私と彼女の、初めての出会いだった。
それから数ヶ月後のある日のこと。
私はすっかり友達になったふうちゃんに、突然「ここちゃん、登山に興味ない?」と訊ねられた。
興味があるかないかで言われると興味はあった。
というか、大学に関することを除けば、彼女が話す話題は山かインスタ、ときどきYouTubeという感じで、同じような話を何度も聞かされれば嫌でも興味が出てくるものであった。
「大学生になって初めての冬休みだからね。
せっかくだから友達と一緒に、冬の北アルプスに挑戦してみたいんだ。
……駄目かな、ここちゃん?」
上目遣いでかわいく訊いてくるの、ずるいな。でも――、
「冬の北アルプスって……。確か佐々成政とかいう戦国武将も苦戦したって話でしょ?
興味はあるけど、屈強な戦国武将ですら苦戦するような雪山なんて、登山初心者には無理でしょ。
そりゃ私、高校3年間ずっと陸上部やってて、少しは体力に自信あるけどさ」
まあ、長距離走より短距離走のほうが得意なんだけど。
それでも人並み以上にスタミナはあるはずだ。日帰りできるような普通の山なら問題ないと思う。
でも、さすがに雪山で1泊2日の行程だとか言われると困る。
「うーん、当時にも輪かんじきっていう雪山用の草履や雪除けの笠なんかはあったみたいだけど、現代の装備と比べるとやっぱり貧弱だからね。
今はアイゼンっていうスリップ防止用の、靴に装着するアイテムもあるし、ピッケルやトレッキングポールでバランスを取りながら進めば、登山初心者でも登頂は可能だと思う。
あとは寒さ対策としてヘルメットの下にインナーキャップを被って、アルパインウェアを着て、グローブも防水透湿性と保温性が高いものを――」
「ちなみにそれ、全部揃えようと思ったら、お値段おいくらなのよ?」
「えっとね、基本装備以外にテントとか非常食とか、どこまで用意するかにもよるけど、まあ少なく見積もって20万円くらい――」
「はあっ!? 20万!?」
私はつい素っ頓狂な声をあげてしまう。に、20万って馬鹿じゃないの!?
そんだけお金があったら海外旅行にも行けるじゃない!
「でもでもっ! 誘ったのは私のほうだから、ここちゃんの分のお金も私が払うよ。
私のお父さん、お医者さんやっててお金持ちだから、私がおねだりしたらなんでも買ってくれるんだよね。
テントはもう10万円くらいするやつ買ってもらったし――」
「いや……、どんだけブルジョワなのよ。しかも、とんでもない親馬鹿?
まあ私も高校でも部活のない日はずっとバイトしてたから、別に出せなくはない金額だけどさ……」
部活にバイトに、彼氏とのデート。ホント、あの頃はよくやってたわ。
今思い返しても充実した高校生活だったな……。
学校の勉強? なにそれ? 将来のための貯金のほうが大事でしょ?
「ね。ね。だったらいいじゃん! 一生のお願いだからさ!
年末はバイトもないし、暇なんでしょ? 絶対一生の思い出になるからさ!」
……そこまで熱心に勧められると、悪くはないかなという気もしてくる。
確かに雪山登山なんて経験、学生のうちに勢いでやっておかないと、やる気にならないかもしれないし。
なんかもう人生最後の思い出作りみたいな雰囲気なのは引っかかるけど――。
「はあ。分かったよ。どうせ年末はひとりで海外旅行にでも行くつもりだったし、その代わりだと思えば。
でも私、初心者なんだからちゃんとエスコートしてよ、お嬢様?」
「もちろん! それじゃ早速今度の土曜日にでも登山道具を買いに――」
そして、それから今に至る。認めたくはないけど、私たちは見事に雪山で遭難した。
右脚の捻挫も痛む。たとえ吹雪が止んでも登頂は不可能だろう。
正直、下山をするのだって一苦労だ。どうにか外部と連絡を取って救助を呼べればいいのだけど……。
「ふうちゃんって彼氏はいんの?」
私が突然そんな話を切り出したのは、何も恋愛トークがしたかったからではない。
私も高3の夏に彼氏と別れてそれっきりだし、ふうちゃんの男の趣味なんかにも興味がない。
案外、山男みたいなデブで髭面のおっさんと付き合ってたりすんのかな……。いっそ興味出てきたな……。
「いないよ、そんなの。
私、男の人苦手だし、彼氏なんて作ろうとも思ったことないし。急にどうしたの?」
私の下卑た妄想は見事に一刀両断された。
こいつ、彼氏いない歴=年齢か。彼氏持ちが年末に暇してるわけもないけど。
「だって、あなたも私も一人暮らしでしょ?
他に行方不明に気付いてくれそうなのって、彼氏とかバイト先の人とかでしょ。
私も友達からのLINE、数日返さないとかざらにあるし。
……はあ、こんなことならまめに連絡とり合う友達作っとけばよかったわ」
「ああ。そういうこと」
ふうちゃんはつまらない話を聞くような退屈そうな表情で言った。
彼女はこの状況に危機感を持っていないのだろうか。
――かと思うと、少し顔を赤らめて、続けて言った。
「かっ、」
「……か?」
「彼女はいたことあるよ!」
「いや聞いてないけど、そんなこと」
唐突なレズ宣言。どう反応しろと。
それからまた数時間後。
「――そっちはどう? 電波つながりそう?」
その質問は何度目だっただろうか。訊くまでもない。
電波がつながっているなら、彼女もとっくに外部との連絡を取っているだろう。
無意味な質問だと分かりつつも何度も訊いてしまうのは、徐々に沸いてきた不安な気持ちを誤魔化すため、――というのもあるが、話す話題がなくなってしまったせいでもあった。
「ううん、やっぱり駄目そう」
「そっか」
相槌を打ちながら私も自分のスマホを確認してみる。当然ながら圏外だ。
日付と時刻を見ると、すでに3時間ほど経っているようだったが、外の吹雪は止みそうにない。
用意していた非常食も3日分しかない。もういっそ体力があるうちに下山したほうがいいのかもしれないが、それには私の捻挫の回復を待たなければならない。
少し動かすだけでも右脚が痛む。どうやらまだ治るには時間がかかりそうだ。
「……太陽フレアって知ってる?」
「うん?」
私が考え事をしていると、突然彼女はそんな質問をしてきた。
太陽フレア? 何それ、ゲームの必殺技?
「4年くらい前かな。東日本の一部で大規模な通信障害があったでしょ?
あれは太陽フレア、――簡単に言うと太陽の活動が活発化することによって生み出されるエネルギーが電波干渉したせいだって言われていて、2024年から25年にかけて最もその活動が活発化するんじゃないかって言われてるんだけど――」
「それ、今まさにこのときじゃない」
「うん。でも正確にいつその通信障害が発生するかは予測が難しいみたいで、もしかしたら今ちょうどそれが起きた可能性があるんじゃないかなって。
しかも、最悪のシナリオだと、それが2週間程度続くらしくて」
「……そんな絶望的なこと言わないでよ。今この状況でッ!」
「ご、ごめん!」
冗談で返したつもりだったが、つい語気が強くなってしまう。
……今そんな話をして一体何になるというのだろう。
予め話していてくれたのならまだ心の持ちようもあるが、もうどうしようもない状況になってから、そんなことを話されたって気が滅入るだけだった。
……謝り返す気にはなれない。
そもそも登山に誘ったのは彼女のほうなのだし、私の責任じゃない。吹雪はより一層強まった気がする。
「……ねえ。トイレはどうしたらいいの?」
それは会話が途絶えて数十分ほどのことだったが、まるで数時間経ったかのようだった。
ずっと座ったままじゃ汗もかかないし身体も冷える。
必然飲んだ分の水分が身体に溜まり、吐き出したくなる。つまり私は強い尿意を感じていた。
なんとなく言い出しにくくて我慢していたが、もう限界だった。
「外でしてくるしかないと思うけど。
まさかテントの中でする気じゃないでしょ?」
「この吹雪の中、外に出て下半身丸出しで野ションしろって言ってる?
ガチ? 冗談でしょ?」
「別にちょっと寒いくらいで、死にはしないんじゃない?」
まだそれほど時間が経ったわけではないが、ただ座っていることしかできない状況というのは思ったよりも精神にくる。
私もふうちゃんも悪意ある言い方になるのを抑えようとはしていなかった。
ひりつくような空気を感じる。本当ならもうとっくにトイレのある休憩所に着いているはずだった。
ふうちゃんは睨みつけるような目つきのままで続ける。
「じゃあ、それともここでする?
別にいいよ。テントを汚さないようにさえしてくれれば」
「あんた正気? こんなところでできるわけないでしょ?」
「駄々こねてるのはここちゃんのほうじゃん。私はどっちでもいいって。
それをどっちも嫌だって言われたらどうしたらいいの?」
……正論だった。私は何も言い返すことができない。
できるのは本日何度目だか分からない溜息で、不快感を示すことだけだった。
「分かったよ。……行ってくる」
私はそう言いながら、テントのファスナーに手を伸ばす。
と、ふうちゃんは彼女の荷物から何かを取り出しながら言った。
「待って。大きいほうをするんだったら、この携帯用トイレを使って。
大便は黒いポリ袋に入れて持ち帰るのがマナーだよ。使い方は――」
「お、おしっこだけだから大丈夫よ!」
逃げ出すようにテントから出て、すぐに入り口を閉める。
もしかしてこれ、トイレに行くたびに大か小か宣言しないといけないシステムになってる?
今は本当に尿意だけだから問題ない。でも、このまま数日間救助が来なくて便意を感じたら……?
考えただけで気が滅入る。そんなときにまでマナーを守る必要があるのかは疑問だけど。
ともかく少しでも早く救助が来ることを祈るしかない。
「ここちゃん! テントからあまり離れないでね!」
テントの中からそんな声がする。私はそれを無視して歩き出した。
――うわ。やっぱさっっっむっっっ!!!!
想像はしていたことだけど、極寒の雪山で服を脱ぐという行為がどれだけ自殺行為なのか身に染みて感じる。
吹雪のせいで身体中がびしょびしょだし、おしっこまで凍るかと思った。
本当はもう少しテントから離れてしたかったけど、ふうちゃんの忠告もあったし、これ以上離れると本当の本当に遭難しそうだったので仕方ない。脚も痛いし。
相変わらず視界は真っ白で、道なんてまともに見えないけど、かろうじてテントから漏れる明かりだけは確認できた。
私はその明かりを頼りに元来た道を引き返す。まだ太陽が出ている時間なのも幸いだった。
この短い道ですら、帰れるかちょっと不安になるくらいなのだから、この状況で下山するなんて無理な話だろうと思った。
……でも、この寒さのおかげで少しだけ冷静になれた。
さっきから悪いのは私だ。登山の知識なんて何もない私はふうちゃんに頼るしかないのだし、喧嘩なんかしたって馬鹿らしい。
謝ろう。テントに戻ったらすぐに一言「ごめんなさい」と言おう。
ふうちゃんの言うことは何ひとつ間違っていない。ただ私が登山というものを酷く舐めていただけだ。
高校の3年間は陸上部だった。体力には自信がある。
そんな風に思って登山の準備すらおそろかにした結果がこのざまだ。
実際のところは、高3の夏にはもう陸上部を卒業していて1年以上のブランクがあるから、体力も信じられないくらいに落ちていた。
一方で、ふうちゃんはあんなにも華奢な身体で息ひとつ切らさずに、この冬の北アルプスに挑んでいる。
抱えている荷物も私とは比べ物にならないくらい多く、よくそんなに力があるものだと感心する。
――私は知識も技術も体力も、何もかもがふうちゃんに遠く及ばないのだ。
「……よし」
私はテントの前で、寒空の空気を吸い込む。
肺の中まで冷気が入り込んでくるような気がしたが、おかげでより一層気持ちは落ち着いてきた。
意を決してテントのファスナーに手をかける。そして、なだれ込むように中へ入った。
「ふうちゃん! あの、さっきは――!」
「え?」
一瞬、何か小型の黒い影が見えた。ふうちゃんはそれを背中に隠しながら言った。
「お、おかえり、ここちゃん。早かったね」
「…………何? 今の?」
「な、何が? 別になんでもないよ」
嘘だ。今明らかに、ふうちゃんは何かを隠した。
さっきちらりと見えたものは、……そう。黒い機械のように見えた。
スマホではない。スマホよりも二回りは大きかったし、彼女のスマホは白色だったはずだ。
「じゃあ、そのままぐるっと一回りしてよ」
「い、嫌だよ……」
「なんで?」
「なんでって、……きゃっ!」
私は彼女に近づいて、強引に彼女の右腕をつかみ上げた。
そして、その手にはやっぱり黒い機械が握りしめられていた。
その機械の頭には、何本かアンテナのような棒が刺さっている。
「……これは、一体何?」
「え、ええっと、無線機だよ。
もしものことを考えて、スマホが使えなかったら、これで――」
「外部に連絡できるってこと!? なんでそんなもん隠してたのよ!?」
「い、いや、だって、この無線機も何度試しても通じないもん。
こんなのがあるって無駄に期待を持たせても、その、怒るでしょ……?」
「はあああっ!? 別にそんなことで怒んないよ!
そうやって隠し事されるほうが不愉快なんですけど!?」
「だ、だって、さっきは――」
ふうちゃんはいじめられてるみたいな表情で私を見るが、それはただ私の怒りに油を注ぐだけだった。
「太陽フレアの話!? それは話されてもどうしようもないからでしょ!?
無線機は使えるかもしれないじゃない! あんた、そんな違いも分からないわけ!?」
「え、ええっと……」
そこで私たちはふたりとも押し黙る。無駄な問答だと分かっていても怒りは収まらない。
さっきまで私はふうちゃんに謝るつもりだったが、そんな気持ちもどこかへと吹き飛んでいた。
登山バカだとは思っていたけれど、彼女はこんなにも頭が悪かったのか。
言うべきことと、言わないほうがいいことの違いも分からないほどに……?
「もういいわ。だったら隠してること、全部話して。
何言われたって怒らないから」
「か、隠してることなんて何もないよ……」
「本当に?」
私は彼女の瞳を覗き込む。そこには動揺の色が見られるが、それは私に責められて困惑しているからなのか、それとも嘘をついているからなのか……。
……いや、信用できない。彼女の今の様子は、言うべきことが他にあったか思い出そうとしてるとか、何かを言うべきかどうかで悩んでるとかじゃないように見える。
彼女は明らかに、何かを隠す意図があって隠している。それが何かは分からないけれど、彼女のことを信用してはいけない気がする。
私は彼女の右手に掴まれた無線機に目をやる。
やけにボタンが少ないように見えるけど、本当にこれで外部に連絡ができるのだろうか。
使い方については彼女に訊いてみるしかないだろう。
しかし、その説明を、私は信用していいのだろうか。
インターネットにも接続できない以上、真実を話しているかどうか確かめる術もない。
これ以上、彼女の話を聞いても無駄だ。
「とりま、今はいいわ」
そう判断した私は、彼女の右腕から手を離すと、溜息とともに元の位置へと座り込んだ。
あとはまた、――沈黙。ゆっくりとただ、時間だけが過ぎ去っていくのみだった。
二日目。ブランケットに包まりながら暖を取っていた私はいつの間にか眠ってしまっていた。
雪風は防げると言っても、薄布のテントじゃ外の冷気は防げないし、じっとしている分身体も冷える。
刻一刻と体力が奪われ、死が迫ってきているような不安と恐怖に襲われる。
目が覚めたとき、同じく横になっていたふうちゃんと視線が合ったが、言葉は何も交わさなかった。
テントの外では、変わらず吹雪が荒れ狂っている。外を見なくたって、激しくテントに雪が叩きつけられているのが分かる。
無言のまま過ごしている私たちにとって、それは酷くうるさい音だった。
目が覚めたあとも横になったまましばらくぼーっとしていると、ふうちゃんは突然バックパックをつかんで外に出ようとした。
私の身体はついピクリと反応してしまう。
「……どこ行くの、ふうちゃん?」
「え。トイレだけど」
彼女は当たり前でしょという表情で応えた。
多分私が眠っている間にも何度かトイレに行っていたのだろうけど、私が彼女がトイレに立つ姿を見るのはそれが初めてだった。
「荷物を全部持っていく必要はなくない?」
「……いいでしょ、別に。何か問題ある?」
「そりゃあ、まあ……」
「じゃあ行ってくる」
そんなやり取りのあと、彼女はそのままバックパックを持って、さっさと外へ出ていった。
でも、一体なんの意味があるのだろう。
大きいほうをするんだとしても携帯用のトイレとティッシュペーパーだけ持っていけば事足りる。
わざわざ水筒も非常食も入った重いバックパックごと持って行かなくたっていい。
彼女の不可解な行動に、不信感がまた強まっていく。
まさか私が勝手に彼女の荷物を漁るとでも思っている?
たとえば彼女の非常食を私が奪うことを警戒している?
丸一日が経過して水と食料はあと2日分。
2日で救助が来る保証なんてどこにもない。
吹雪は相変わらずだし、電波も当然の如くつながらない。
いよいよとなったら食料の奪い合いになる、……こともあるかもしれない。
けど、今はまだそこまで逼迫した状況じゃない。そんなことを警戒されるなんて気分が悪い。
……いや、むしろ警戒しないといけないのって私のほうなんじゃないの?
あいつ、これだけの大荷物を持ってきたってことは、意外と体力あるし、筋力もある。
一方私は、陸上やってたって言ってもブランクで体力が落ちてるし、今は右脚を捻挫している。
この状況で、あいつに、今、襲われるなんてこと、あったら……。
「ただいま」
「うわああぁあああぁっ!!???」
「え。何。びっくりした」
思わず大声を出してしまった。
「お、音もなく帰ってこないでよ!」
ふうちゃんは「びっくりした」なんて言いながら、それほど驚いているようには見えない。
元々表情の変化が乏しい奴だから、何を考えているのかは読みにくい。私の考え過ぎなのかな……?
……………………。
沈黙が続く。続けば続くほど、息苦しくなる。
というか、本当に下山するのって無理なのかな?
トイレに行くだけだけど、一応外に出て歩くことはできるし……。
太陽フレアの影響だとか、そんなこと全然なくて、たまたまこの場所だけが圏外になってるって可能性もあるし……。
全部こいつがひとりで言ってるだけじゃん。私は本当にそれを信じていていいの?
「大体さ、今こんな状況になってるのって、あんたのせいじゃない?」
思わず、言葉が漏れていた。あいつは眉ひとつ動かさずに、こちらを見た。
「え?」
「だってそうでしょ? 私は登山の経験なんてないって言ってるのに、どっかの登山バカが無理やり誘ってきてさ」
「い、嫌なら嫌って言ってくれれば……」
「はあ? 『私は登山経験ないから無理』って台詞が、嫌って意味に聞こえないわけ?
あんた本当に空気も言葉の裏も読めないのね。
それでもしつこく誘うから、仕方なく馬鹿に付き合ってあげたんじゃない」
一度滑り出した口はもう止まらなかった。こんな話したって意味ないって分かっているはずなのに。
「そもそもの話をするんだったらさ……、そっちが脚を挫いてなければ、休憩所にはたどり着いてると思うんだけど」
「はあ? 怪我人に対して言う言葉がそれ?」
「喧嘩売ってきてるのはそっちのほうじゃん。
登山初心者のくせに偉そうにさ」
「あー、はいはい! 初心者で悪かったわね!
その初心者を冬のアルプスなんかに誘ったのはどこの誰でしたっけ!?
せめて初心者向けの山にしてくれたらいいのに。どういう神経してたらそんな選択になるわけ!?」
「登山ルートは初心者向けのルートを選んでるよ。エスコートもちゃんとしてたでしょ。
こんな状況になったからって今更混ぜっ返すようなこと言わないで欲しい」
こいつなんで逆ギレしてんの? そりゃ私もちょっと言い過ぎかなって思うけど……。
でも、こういうのって誘ってきた側に全責任があるものじゃない?
私は最初から乗り気じゃなかった。でも、ふうちゃんが熱心に誘うから。
でも、こんなことになるって分かってたら絶対に来なかった。…………。
「第一、ここってどこなの?」
「ど、どこってそりゃ北アルプスの――」
「そういうことじゃなくて。登山ルート、ちゃんと把握してるんでしょ?
あとどれくらいで休憩所に着く予定だったの?」
「え、えっと、それがその、実はちょっとだけルートから外れてたかもしれなくて……」
「…………は? ガチで言ってんの?」
やっぱりこいつ、とんでもないこと隠してた!
ルートが外れてたら、他の登山客だって来るわけがない。
仮に救助を呼べたって、すぐには発見してもらえないかもしれない。
それをこいつは意図して黙っていた……!
「で、でも、引き返そうとは思ったんだよ。
そしたら吹雪が強くなってきて……。GPSも狂ってて現在位置も分からないしさ。
でも大丈夫だよ。救助隊の人たちって登山のプロだから。
きっとすぐ見つけてもらえるよ」
いちいちイラっとくる。歯ぎしりが止まらない。
こいつ、この期に及んで何を呑気なことを!!
「だから、その! 救助を呼ぶ手段がないんでしょうがッ!!!」
「っ!! それはその、そうなんだけど……」
分からない。こいつの考えていることが分からない。
さっきまで強気な態度だったかと思えば、今は一転して怯えたような目を私に向けている。
登山ルートのミスなんて重大なことを隠してたうえに、私に責任を押し付けようとして、何故そんな目ができるのか。
信じられない。どれだけ甘やかされて育ってきたのだろうか。
こいつはどれだけ自分が悪くても、小動物のように哀れな姿を見せれば、甘やかしてもらえると思っているのだ。
「いや、手段ならひとつだけあったね」
「な、何……?」
「下山してよ、あんたがひとりで。
それで救助を呼んできてくれればいい話でしょ」
「む、無理だって……。こんな吹雪の中じゃ……」
「そう? 元来た道を引き返すだけの話だよ?
見たところあんたはまだピンピンしてるみたいだし、体力があるうちに決断したほうがいいんじゃない?
私は、その、まだ捻挫の痛みが引かないけどさ……」
そう言いながらも、少しだけうしろめたい。
一か八かで下山するというのなら、ふたりで一緒に行くべきだ。
分かってる。私は今、友人に対して半分「死ね」と言っているようなものだ。
でも、最初に裏切ったのはこいつのほう。騙したのはこいつのほう。
悪くない。私は悪くない。悪くない、悪くない、悪くない……。
「一旦、冷静になろうよ、お互いにさ……。
ほら、水も非常食もまだ2日分あるんだよ?
決断をするとしても今じゃない。あと2日、せめて1日、吹雪が止むのを待ってからでも遅くはないはずだよ。
そうでしょう、ここちゃん?」
「…………それはまあ確かに」
今、焦って結論を出す必要はない、か……。
吹雪がいつまで続くのかは分からない。
でも、それは裏を返せば数時間後にはすっかり晴れ渡っているかもしれないということ。
スマホの電波だって回復しているかもしれない。未来がどうなるかなんて分からないんだ。
「じゃあさ、あと1日だけ待ってみる?
1日だけ待って、それでもまだ状況が変わらないようなら、そのときは――」
どうするつもりなんだろう。私は。
「そのときのことはそのとき考えようよ、ここちゃん。
とにかく今は体力を温存しておかないと……」
「……そう、だね」
そして、私はその場は矛を収めた。
だけど、結局また一晩を過ごしても、吹雪は吹き続けていたのだった。
私たちの遭難生活は、ついに3日目を迎えた。
私は改めて荷物を確認してみる。別にそれにたいした意味があるわけじゃない。
彼女も眠ってしまって、ひとりで手持ち無沙汰なだけだった。
非常食の乾パンと水は残り1日分。乾パンはまさに非常食って感じの味だ。
つまりはそんなに美味しくないけど、贅沢は言っていられない。
あとは帽子にヘルメット、アイウェア、ピッケル、アイゼン。
どれも問題なく使えそうだが、今このときに役に立ちそうにはない。
……いや、もしかしたらピッケルは使えるかもね。
ピッケルは鎌のような形状をしている道具で、雪や氷に突き刺して滑落を防止することができる。
これだけ先端がとがっていれば凶器になる。ウサギとかキツネとかリスとかくらいなら仕留められそうだし。
まあ、狩りの経験もないのにそんなことできる気はしないけど。
現実的に考えよう。非常食は本来1日分だけど、少しずつ食べればあと何日かは持たせることができるかもしれない。
水は外の雪を溶かせば一応調達可能だ。人間は水だけでも一週間程度は生きられると聞いたことがある。
ただおそらく雑菌だらけの雪を口にするのはリスキーだ。できることなら、それは避けたい。
やはり確実な食料と水は1日分だけか……。
…………いや、違う。正確には2日分ある。
今、私の目の前で間抜け面を晒して寝ている彼女の分と、私の分とで2日分だ。
今ここで彼女が"いなくなって"さえしまえば、私は2日分の食料と水を手にすることができるのだ。
確実に仕留めるための凶器もある。このピッケルを喉仏か、心臓のある左胸にでも振り下ろせば、それでおしまいだろう。
小動物ですら狩るのは難しいのに、それよりはるかに大きい人間のほうが狩れる可能性が高いというのは皮肉なものだ。
――別によくない? こいつを殺しても。どうせ口を開いても不愉快な話をするだけだ。
そもそも元からたいした友人じゃない。私はこいつがしつこく付きまとってくるから、仕方なく遊びに付き合ってやっていただけだ。
今ここでこんな状況に追い込まれているのも、すべてこいつのせいだ。
私はこいつの手の中にある生の権利をただ取り戻すだけのこと。そう、ただそれだけのことなのだ。
さらに言えば、こいつを殺せば私は新たに"肉"を手にすることができる。
外の気温はおそらくマイナス10度ほどだろう。外に保管しておけば"肉"が腐ることもない。
もちろん私がその"肉"を口にするのは最終手段だ。できれば私だって、そんなことはしたくない。
でも、いざとなればその"肉"があるという安心感を得られるのは大きい。今の私にとってそれは殺人という罪を犯してでも、余りあるリターンだ。
……いや、何を馬鹿なことを。冷静になれ、天馬心。
私は手に持ったピッケルと彼女の寝顔を交互に見つめる。
こんな一時の気の迷いで人を殺すなんて絶対に駄目だ。
違う。正気だろうがそうでなかろうが、人を殺すなんて選択肢が正しいわけがない。
そんなことをしてしまったら、もしこの場は生き残れても絶対に元の日常には戻れない。
ピッケルをバックパックにしまう。そして深く深呼吸をする。
……私も寝よう。一旦気持ちをリセットするべきだ。
そうでなくても彼女とは今、険悪な雰囲気になってしまっている。
ちゃんと仲直りして、これからどうするべきかふたりで真剣に話し合うべきだ。
ふたりでなら何か名案が思い浮かぶかもしれないし、私たちは争う相手じゃなくて協力すべき相手だろう。
私はそう思い、もう一度彼女の寝顔を窺う。
「ふふっ」
思わず笑みが零れる。こんなときに幸せそうな顔しちゃって。ホントにもう。
私は今回の登山で、彼女が何かを隠しているんじゃないかとの疑念も持ったけれど、それだってきっとただの思い込みだ。
彼女はほんの少し空気が読めなくて、人との感覚がずれているだけなのだ。そうに決まっている――。
「……あれ?」
そこで私は横置きになっている彼女のバックパックから、クリップでまとめられた紙の束がはみ出していることに気付く。
あれは『計画書』? 遠くてはっきりと読めないけど、ふうちゃんったら『登山計画書』なんて作ってきてたんだ。
私は近付いてなんとなくそれを手に取り、彼女に背を向けて読み始める。
「人のものを勝手に見るなんて」って怒られるかもしれないけど、何か今の状況を打開するヒントがあるかもしれないし――、
…………は? な、何これ?
その表紙に書かれていた文字は『登山計画書』なんかじゃなかった。
あり得ない。何かのドラマや小説ならともかく、今この状況では絶対にあり得ない文字列だ。
いやいやいや! 違う違う違う!!
あり得るんだ。この状況がすべて! 彼女によって仕組まれたものだったとしたら!!
無論、私の捻挫や激しい吹雪などは偶然の結果だろう。
しかし、もしそれらの事象がなくても、彼女は何かの言い訳をして、この場に留まることを選んだと思われる。
彼女は最初から、"遭難することになってもいい"と考えて行動していたのだ……!
――そう、そこに書かれていた文字は『犯行計画書』だった。
「はんこう、けいかくしょ……?」
音読してみても現実味が沸かない。犯行計画書って何? 犯行ってなんなの!?
いやいや、冷静になんなきゃ駄目だって!
そもそもこの紙は、彼女がただ自分用に作った計画書だろう。
誰に見せる気もなくて、軽いジョークのつもりで、登山計画書を犯行計画書と記してみただけなのかもしれないじゃないか。
この『犯行計画』がなんらかの犯罪を行うことを示唆しているだなんて、私の勝手な思い込みだ。
そう自分に言い聞かせながら、私は震える指で恐る恐る表紙をめくる。
これはただの登山計画書。物騒なのは表紙だけで、中身は登山の際の持ち物とか気を付けることとか、予定スケジュールなんかが書かれているのだろう。
そう期待しながら、私はそこに書かれた文章の一段落目に目を通す……。
『これは私の遺書であると同時に、如何にしてこの犯行を成し遂げるのかを記した計画書である。
なお以下の文章において『計画』とは、『天馬心の殺害計画』を指すこととする』
……は? 何これ……? 天馬心の殺害計画って……。
わ、私を殺す計画ってこと!? ふうちゃんが私を!?
いやいやいや! 全部悪い冗談だって! そんなこと実際にあるわけが――、
ガツンッ!!!!!
「い、痛っっっっ!! あぁああああぁあああ!!」
私の後頭部に突然激しい衝撃。その痛みは初めは鈍く、何が起きたのか理解するのが一瞬遅れた。
だが、それはすぐに鋭い痛みとなって私に襲いかかった。
今まで感じたどんな痛みよりも激しい痛み。インフルエンザに罹ったときの頭痛だってこんなに酷くはなかった。
振り返る余裕なんかない。私にできることはただ頭を押さえてうずくまることだけだった。
だが、そこで私の獣としての嗅覚が働いた。
――二撃目がくる。こ、こんなの2回も食らったら死んじゃうって!
私はとっさに横に転がる。そして、さっきまで私がいた場所にピッケルが振り下ろされる。
しかも刃の部分が下! し、死んでいた……。避けなければ私は今死んでいた!!
転がって仰向けになった私は、ようやくそのピッケルの主の顔を見た。
「ふ、ふうちゃん……?」
その主は間違いなく彼女だった。突然現れた不審者が私に襲いかかったなんてことはなかった。
彼女はずっと寝た振りをしていて、私を殺す隙を窺っていた……?
彼女は私のほうを見ていなかった。
床に突き刺さったピッケルを引き抜こうと必死な形相だが、焦っているのかそれがなかなか抜けない。
今がチャンス!? 私は激しい頭痛でくらくらしながらも、なんとか彼女に飛びかかった。
「っ!!!」
しかし、すんでのところで彼女の右足蹴りが私の腹部に叩き込まれる。
そのまま尻餅をついた私を押し倒し、彼女は素手で私を殴り始めた。
ピッケルを引き抜くのは諦めたのだろうか。しかし、それでも私にとって窮地であることに変わりはない。
ゴンッ、ドカッ、バキバキバキッ!!!
そうこうしている間にも、何発もの拳が振り下ろされる。
顔だけじゃなく、胸にもお腹にも!! 何度も何度も何度もッ!!
「い、痛ッ。や、やめ……!
わ、私が悪かったわ!! ごめんなさい、許してッ!!」
何を謝っているのか自分でもよく分からない。
でも、それも仕方のないことだ。何故彼女が私を殺そうとしているのか一切分からないのだから。
私にできることは、とにかくただ謝ることだけだ……!
「もう降参よ! 降参! ギブアップ!!
水と食料なら全部あげるから……!!」
それでも彼女は攻撃の手を緩めない。何度も何度も私を殴り続ける。
はっきりと『殺害計画』という文字列を目にしたのだから、私はずれたことを言っているのだろう。
でも、これだけ命乞いをしているのだから、少しは手心を加えてくれてもいいんじゃない……?
なんでこいつ、こんなにも……!!
「う、嘘じゃないってッ! 私、本当にもう無理だから!
死んじゃうって! もう、やめてよッ!!!」
そこで彼女が私を殴る手が止まった。と同時に、私は彼女の表情を覗き見た。
その表情は怒りとも悲しみとも違う無表情だった。
それはまるで退屈な作業を淡々とこなしているかのような、のっぺり顔だった。
「ふう、ちゃん……?」
私の声に反応してくれたのか、それとも殴り疲れたのか、彼女は「はあはあ」と荒い呼吸をするだけだった。
私はその隙を見逃さず、両の手で彼女の胸を強く押して突き飛ばした。
「……っ!!」
小さく呻くふうちゃん。尻餅をつくような姿勢になって、今度はふうちゃんのほうが無防備な体勢だ。
私はそのお腹を右足で蹴り飛ばし、ふうちゃんは完全に仰向けの体勢になる。
そして私は床に刺さったピッケルを素早く抜き取って、ふうちゃんに馬乗りになる。
私の頭から流れる血がぽつりぽつりと彼女の身体に降りかかる。
……いった。ってか、なんで私は今、わざわざ捻挫してるほうの足で蹴ったの!?
私の馬鹿ッ!! でも、そんな痛みなんて構ってられるものかッ!!
「形勢逆転だよ、ふうちゃん。もう、降参して……。
私はこのピッケルを振り下ろしたくない……」
それで、終わりだと思った。この状態で抵抗する意味なんてないはずだ。
無論、私は反撃の可能性も十分に警戒する。
彼女が少しでも不審な動きを見せたら、私は容赦なくこのピッケルを振り下ろす。
だからもうそれで、決着のはずだった……。
「い、嫌だ……」
「は?」
「私は、降参なんかしない……。殺るなら早くして……」
「な、なんで……? 意味分かんないんだけど」
命乞いするしかないはずのこの状況で、彼女は何故意地を張っているのだろう。
いや、分からないことはそれだけじゃない。
その疑問は私の口から零れ落ちていた。
「腑に落ちないことがある」
「……何故私がここちゃんを殺そうと思ったのか?」
「違う。なんでこんな面倒な計画を立てる必要があったの?
私を殺したいだけなら滑落事故にでも見せかければいい。
わざわざこんな不確実かつ証拠の残る方法を取る必要がない」
この際、動機なんてどうでもいい。人の心なんてどう揺れ動くのか分かったものじゃない。
しかし、そんな風に考えたとしても、この計画は根本的におかしいのだ。
彼女の表情が酷く驚愕したものに変わる。
そして、それは今回の登山で初めて見えた、彼女の本心の顔のような気がした。
「な、何言ってるの……? それは――」
「声震えてるじゃん。あんた、演技は下手ね。
図星じゃなかったら、そんな表情にも声色にもならないよ。
それにおかしな点はそれだけじゃない」
「な、何……?」
「何故あんたは今、初手で打撃を選んだの?
私は完全に油断して、あんたに背を向けていた。
その首筋にピッケルの刃を振り下ろせば、それでおしまいだったんじゃないの?
あんたは私が死なない程度の力で柄の部分で殴り、刃による二撃目はわざと外した。
それからそもそも、私に犯行計画書を見つけさせたのもわざと。違う?」
そう、あれはまるで私に反撃の機会を与えるためのような動きだった。
そして、これまでの言動すべてが私に警戒心を植え付けさせるためのものだった。
そう考えるとすべての不自然さが納得できた。
「そ、そんなわけ……。私は本気であなたを殺そうと……」
「じゃあ説明してよ。
なんでわざわざこんなテントの中で私を殺す必要があったのか……」
「……………………」
しばらくだんまりの時間が続く。
そして、まるですべてを諦めたかのような表情で彼女は口を開いた。
それは酷く乾いた声だった。私はついぎょっとしてしまう。
「あーあ。やっぱりちょっと、高望みし過ぎたかなあ……」
「高望み……? どういうこと?
全部説明してよ。でないと、私、このピッケルを振り下ろせない」
私がそう言うと、彼女はまるで子供に諭すかのように、ゆっくりと語り始めた。
「犯行計画書の1ページ目は見たんだよね、ここちゃん?」
「いちいち返事なんか求めないで。さっさと続けて」
「あそこに書いた目的は、本当の目的じゃない。
私の本当の目的、――それは、ここちゃんに殺されることだった」
「…………は?」
私を殺すためじゃなくて、私に殺されるために、ここまでやってきた……?
私のことをずっと殺したいほど憎んでいたと言われるほうがまだ理解できる。
殺されるため? 殺されるためって何? そのためにわざわざこんな手の込んだことを……?
「わけわかんない。順番に説明してよ。
何がどうなったら私に殺されたいなんて話になるわけ?」
「………………私はずっと、ここちゃんのことが好きだった。
友達としてって意味じゃない。私はずっとあなたのことを恋愛対象として見てきた。
初めて言葉を交わしたあの日からずっと。一目惚れだった。
でも、その恋は成就されることなんてないって分かってる。それならせめてあなたの手で――」
「ちょ、ちょっと待って……。情報が洪水になってるでしょ。
私のことが好き? だから私に殺されたい? な、なんなのよ、それ……」
「うん。いかれてるよね。気持ち悪いよね。
大体、ここちゃんって私のことそんなに好きじゃないもんね。
それなのに私と一緒にいてくれる、その馬鹿みたいなお人好しが好きなんだけど。
なんにしてもこんな女、今すぐ殺したほうがいいよ。でないと私、あなたを殺してしまうから。
別にどっちでもいいんだ。本当はあなたに殺されるのが理想だけど、あなたを殺して私も自殺するっていう結末でも私は十分に満足する。
……でもさ、そうなる前に殺してよ。このくだらない人生を終わらせてよ。
このどうしようもなく、暗く濁った最低最悪の人生をさ……」
心理的な意味でも頭が痛くなってきた。困惑する気持ちを抑えられない。
説明されればされるほど、意味が分からない……。
私には希死念慮なんてものは全く理解できない。
それはそれだけ私が恵まれた人生を送ってきたということなのかもしれないけれど、それを踏まえたうえでも彼女は異常だった。
死ぬんだったら勝手にひとりで死ねばいい。
わざわざ人を巻き込んで死のうとするなんて、私にはまるで理解できない……。
「というかさ、私が今ここであんたを殺したら、私は豚箱行きだと思うんだけど、それについてはどう思ってんの?」
「計画書」
「は?」
「あの犯行計画書には、あなたをここまでどう誘き出して、どう犯行を実行するか、事細かに書いて残してある。
――ただし、私はそこにひとつだけ嘘を書いた。
私の目的は『天馬心を殺害すること』だと。
これが警察に見つかれば、あなたはいかれたレズ女に襲われて、必死に抵抗しただけの哀れな被害者ってことになるはずだよ。
それに加えて、今のその怪我。どう見たって私に襲われたようにしか見えないし。
というか、それは実際その通りだからね。もしあなたが私を殺しても、みんな正当防衛だったって思ってくれるよ」
だから、私を殴る必要があったのか。
そして、私に命の危機を感じさせることで殺してもらおうとした。
この、誰の邪魔も入らない雪山で。私の、正当防衛という形で――。
「ふうちゃん。あのさ、余計なこと言ってもいい?」
「うん?」
「山が好きだって気持ちは本心なんでしょ。
生きる理由なんて、たったそれだけでも十分だと思うんだけど、違う?」
「……そう、だね。普通はそう、なんだろうね」
彼女は私の問いかけに、何かを思い出すような遠い目をして、ぽつりぽつりと語り始めてくれた。
「なんて言うのかなあ……。私にとっての山は、『生きる理由』なんかじゃないんだよね。
どっちかって言うと『死ぬのを抑えるための抗うつ剤』みたいな感じ。
私のお父さん、お医者さんをやってるんだって話はしたよね。
でも、そのお父さんっていうのはお母さんの再婚相手なの。
それまでは本当に酷い家庭環境だった……。それを終わらせてくれたのが山だった。
山は、私の父を騙るあの怪我らしいゴミ虫を殺して、坂月さんっていう本当のお父さんに巡り合わせてくれた。
坂月さんは私とお母さんのことを不憫に思って、どんなわがままも聞いてくれる本当に優しい人。
山のおかげで、私とお母さんはあいつの名を捨てて、新しい人生を歩み始めることができた。
できれば、楓和梨って名前も変えたいんだけど、精神的苦痛を理由にした改名申請って結構面倒なんだよね。
とにかく、やっぱり私は海より山派だな。山は死と隣り合わせの世界だから。
一歩足を踏み外しただけで、崖から転落して死んでしまうこともあるけど、そんな理不尽に私とお母さんは救われた。
警察には散々事件性を疑われたけど、本当にただの事故だもん。証拠なんて出るわけないよね。
でも、あいつが死んで本当の幸せを手に入れたはずの今でもさ、胸が苦しいんだよね。
あのゴミ虫にされた数々の酷いことを、今でも夢に見る。
眠るのが怖い。その夢を見るたびに死にたくなる。
私の身体にあのゴミ虫の血が半分も流れているのかと思うと反吐が出る。
自らお腹を掻っ捌いて、その血液をすべて外に吐き出したくなる。
……でも、私はあるとき気が付いたんだよね。『ああ、そうか。山に登ればいいんだ』って。
自分で命を絶つような勇気はどうしても出なかった。
でも、山に登れば私はあるとき不慮の事故で死んでしまうかもしれない。死ぬことができるかもしれない。
そう思うと、ほんの少しだけ眠るのが怖くなくなった。
『死にたい』って気持ちが完全に消えたわけじゃないけど、山は私に安らぎを与えてくれたの。
山の中だけでは、私は本当の自分を取り戻すことができた。
だから山は私にとって『生きる理由』というよりは、『ここでしか生きられない』って感じなんだよね。
山以外での私は、本当の私なんかじゃないの」
「……………………」
独りよがりな説明で、何を言っているのか半分も理解できない。
それでもようやく彼女の気持ちが、ほんの少しだけ分かったような気がする。
もちろんそれは『全部』じゃない。彼女の抱える痛み、苦しみをおそらく100分の1も分かってない。
そのうえで、私は彼女にどうしても言わなきゃいけないことがあると思った。
「あのさ、私はその『ゴミ虫』のこと、なんにも知らないけどさ」
「……うん」
「きっと今のあんたみたいな顔してるんだと思う」
「………………何それ。ここまで聞いて、感想がそれ?
いくらここちゃんでも怒るよ?」
彼女は初めは優しい言葉でもかけてもらえると思ったのだろう。
そこに浴びせられた私の罵倒するような言葉に、初めて本当に本気で憤慨するような表情を見せてくれた。
「だってそうでしょ? あんたは私にこんな酷いことをして、とんでもないトラウマを植え付けた『ゴミ虫』じゃん。
蛙の子は蛙ってのは本当ね。暴力を振るわれて育った子供は、自分が親になったときに同じように子供に暴力を振るってしまうとも言うけど。
私だって、このまま生き残ったとしても、今回のことをしばらく夢に見ると思うんだけど?
それで私が死にたくなったら、どう責任を取ってくれんの?
ははっ、そのときあんたはもうとっくに地獄行きかもしれないけどね?
その『ゴミ虫』とおんなじ地獄にさ! それがあんたにお似合いの末路だよ!!」
「わ、分かったような口を利かないでッ!!
あいつがしてきたことはこんなもんじゃなかったッ!!
ここちゃんに一体何が分かるって言うの!?
私が、――私とお母さんが、どれだけあいつに苦しめられてきたのか知らないくせに!
なんにも知らないくせに、勝手なことばかり言うなぁあああああああああぁああああッッ!!!!!」
咆哮とともに、ふうちゃんはとんでもない馬鹿力で私を押し倒した。
再び形勢逆転だ。だけど、私はもう恐怖も不安も感じていなかった。
今の話を聞いて、私が彼女に抱いた感情はたったひとつ、――怒りだった。
それは、憐みの感情よりも先に来た。だって、だって、だって――。
「ええ、そうよ! 分かるわけないでしょッ!?
だって私は、そんな話初めて聞いたんだからッ!!!!」
「こ、ここちゃん……?」
気が付けば私の瞳からは大粒の涙が零れ落ちていた。
その涙は悲しみの涙でも憐みの涙でもない。怒りと悔しさが入り混じったような涙だった。
「あんた、その話、誰かにしたの?
『死にたくて死にたくて仕方がない』って話をさ。
お母さんとか、……その、本当のお父さんとかにさ」
「え……? な、なんとなく察してるとは思うけど……」
「友達には? 学校の先生には? お医者さんやカウンセラーには?
誰かひとりでも、信頼できる人に相談した?
それともあなたの周りにはひとりも信頼できるような人なんていなかった?
話せる相手なんて誰ひとりもいなかった?
あなたの周りの人たちはひとり残らず、話す価値もないような『ゴミ虫』だった?」
「そ、そんなこと、ないけど……」
パチンッ!
私は押し倒された体勢から起き上がり、彼女の頬に思いっ切りビンタをしてやった。
はっとした顔をする彼女に、私は言葉の洪水を浴びせかけた。
「馬鹿馬鹿馬鹿ッ! ふうちゃんの馬鹿ッ!!
なんでそんな大変なことをひとりで抱え込んでるの!?
相談してよッ!! 私がいるじゃんッ!!
そりゃ私は馬鹿だし、そのうえ無神経で、知りもしないくせに的外れなことを言って、ふうちゃんを傷付けるかもしれないけど!!
それでも私は! あなたと一緒に悩んであげることくらいはできた!
あなたは決してひとりなんかじゃないよって、生きていればいいことなんていくらでもあるよって、教えてあげることくらいはできた!!
どうして相談してくれなかったの!? 一体どうしてッ!?
あなたにとっての私って、そんなにちっぽけな存在だったの!?
それとも私が友達を簡単に見捨てるような薄情者にでも見えていたのッ!!???
普通はね、何かとてつもなく大変なことがあったら、信頼できる誰かに相談するのよッ!!!!
ふうちゃんはそんなことも分からない大馬鹿者だよッ!!!」
「…………あ」
彼女はようやく気付いてくれたようだった。
自分がどれだけ愚かな選択をし、そしてその選択がどれだけ私を傷付けたのかに。
私はそんな彼女の肩をそっと抱き寄せる。
互いを傷付ける武器なんて最初から要らなかった。最初からこうしていればよかった。
それに気が付くのに、私たちはこんなにも時間をかけてしまった……。
「ふうちゃん、ふうちゃん、ふうちゃんッ!!
あなたはひとりぼっちなんかじゃないッ!!
私がずっとあなたの傍にいてあげるッ!!
あなたが嫌って言っても、私はこの手を離さないからッ!!
だからもう、あなたはひとりで悩まなくたっていいんだよ!!!」
そして、彼女は私を抱きしめ返してくれて、私と同じように涙を流し始めた。
「……そう、だよね。最初っからそうだったんだよね……。
なのに、私は、もうこうするしかないってひとりで思い悩んで……。
なんて、なんて馬鹿だったんだろう……。
誰かに頼るなんてこと、これっぽっちも考えつかなくて……。
ごめん、なさい……。ごめんなさい、ごめんなさい……。
うわぁああぁあああああぁああんんんん!!!!」
ふうちゃんは、まるで子供みたいに泣きじゃくった。
そして私も同じように泣きじゃくった。
ふたりで肩を抱き合って、ただひたすらに涙を流し続けた。
私たちはもう大学生だけど、その姿は間違いなく少女だった。
泣いて泣いて泣いて泣き疲れて。どのくらいの時間が流れただろうか。
――そのまま私たちは夢の世界へと落ちていった。
「――ちゃん。ここちゃん。
起きて、ここちゃん……」
肩が優しく揺さぶられるのを感じる。
私たちはいつの間にか、横並びに座って肩を寄せ合い眠りについていた。
その振動はゆりかごのようでとても心地いい。目が覚めるどころか、むしろより深く夢の世界に誘われる。
「んん……、あともう少し寝かせて……」
寝ぼけた頭で返答しながら、開きかけたまぶたをもう一度閉じる私。
すると、先程よりも激しく私の方が揺さぶられた。
ああ、これはもうゆりかごなんかじゃない。船酔いしそう。でも眠い。
「吹雪、止んだみたいだよ。もう起きないと……」
「ううーん……、別にもうどっちでもいいよ……。
このまま一生テントの中で過ごしても」
「馬鹿なこと言わないでよ、ここちゃん」
そんなことを言いながらも、ふうちゃんは優しく微笑んでいる、……ような気がした。
まあ目を閉じてるから分からないけど。……仕方ない。そろそろ起きるか。
「冗談だよ。おはよう、ふうちゃん」
「おはよう、ここちゃん。
身体は大丈夫? ちゃんと歩けそう?」
「いや……、捻挫以外はあなたに殴られた怪我なんだけど。
暴れたせいで捻挫も酷くなった気がするし。歩きたくなーい」
――なんて、甘えたような声を出してみるが、そんなわけにもいかないだろう。
ちなみにさすがのふうちゃんも包帯までは用意していなかったようで、私の頭には代わりにタオルが巻かれている。
今は痛みを感じるだけだけど、万が一のことを考えたらすぐに治療も必要だ。
どうにか身体を動かして下山しないと……。
「あ、いたたたた……」
「やっぱり無理そう?
私はそこまでたいした怪我じゃないけど……」
「何それ、嫌味ー? 喧嘩が弱くて悪かったね」
「そ、そんなつもりじゃないけど……。
うん、ちょっと待ってね」
そう言いながら、ふうちゃんはバックパックの中から、例の黒い機械を取り出した。
「……確かそれ、無線機だっけ。本当は使えるの?」
「あはっ。嘘ついてたのは確かだけど、これはそもそも無線機なんかじゃないよ」
「え。まさかそれスタンガンとか?」
「あっはっは。スタンガンも探してみたけど、こんなに大きいサイズのものはなかったなあ」
いや、笑い事じゃないんですけど。下手したら私、スタンガン食らってたわけ?
ふうちゃんは黒い機械を弄りながら続けた。
「これね、通信妨害機なの。スマホの通信機能とかGPSとか、これで狂わせてもらっていたの。
有効範囲は30メートルくらいだから、トイレに行きたいって言われたときはどうしようかと思ったけど」
「……あっそ。なるほどね。太陽フレアがどうとかは全部でたらめ?」
「そこに関しては概ね嘘じゃないけど、太陽フレアによる通信障害はあくまで断続的なものだからね。
丸一日ずっと電波がつながらないなんてことは実際はないと思うよ?」
……というか、通信妨害機なんて私的に使ってる時点で犯罪じゃない?
まあ今更だから、そこはあえて突っ込まないけどさあ。
「ともかく、そいつをオフにしたら、外部と連絡が取れるってことね?」
「うん。やっぱり救助を呼ぼう。
……現場の状況も誰かに見てもらったほうがいいと思うし」
「現場の状況? どういうこと?」
ここで起きたことは私たちふたりだけの秘密にするんじゃないの?
そんな私の疑問に、彼女ははっきりと答えた。
「私、自首するつもりだから」
「……え? いや、私は別に被害を訴えるつもりなんか――」
「いいの。きっとちゃんとけじめをつけないと、次のステップに進めないから。
全部正直に警察に話して、罪を償うよ。2年とか3年とか、あるいはそれ以上か……。
どれくらい時間がかかるかは分からないけどさ。ちゃんときれいな身になって、戻ってくるよ。
……だからさ、もしここちゃんが許してくれるなら、そのときは。
もう一度、私と友達になって欲しい」
「そっか、分かったよ。
でもさ、もう一度も何も、私はふうちゃんの友達をやめたつもりはないよ」
「うん、ありがとう、ここちゃん」
そして私たちは互いに微笑み合った。
その笑顔にはなんの嘘偽りもない。本当の本当に、心の底からの笑顔だった。
こうして私たちは友情を取り戻すことができたのだ。
それから、ふうちゃんは通信妨害機の電源をオフにし、私に背を向けて電話をかけ始めた。
「――はい、はい。その……、私たちふたりとも怪我をしていて……。
いえ、全く動けないってわけじゃないんですけど、歩いて下山するのは難しい状態で……。
とにかくすぐに来てください。詳しい事情はそのときにお話ししますから……」
私はその様子をじっと見つめながら考える。これで、よかったんだよね。
少なくとも私たちは生きてこの山から下りられるわけだし。
時間さえあれば、いくらでもやり直せる。私とふうちゃんの友情は絶対にやり直せる。
そう、それがたとえ2、3年、あるいはそれ以上の月日を待つことになるとしても――。
………………ぞわり。背中に悪寒を感じる。
顔から冷や汗が噴き出る。手指が震える。
心臓の鼓動が早くなる。
え? 私、それ、本当にそう思ってる?
もし仮に2年だとしても結構長いよ? 2年後私は大学3年生で、就活とか考え始めちゃってるよ?
私は今日、これだけ泣いて怒って悲しんで、真剣にふうちゃんのことを考えたくせに、おそらく半年もすればすっかりふうちゃんのことなんか忘れちゃってる。
それで新しくできた彼氏とデートなんかしちゃったりして、幸せを満喫して。
気が早い私はもしかしたら結婚して、子供までいるかもしれない。
そして、このままずっとこんな日々が続けばいいなって考えて。
そんなときに。もし、そんなときにふうちゃんと再会したら、私は一体どんな反応をする?
「絶対にやり直せる。ここちゃんがずっと私のことを待っていてくれている」
そう信じ続けてきた彼女に私はどんな声をかける?
満面の笑顔で「おかえりなさい」って言ってあげられる? あるいは涙を流して「また会えてよかった」って言ってあげられる?
……無理だ。私はそのとき、少なくとも困惑する。
「私は今、幸せの最中にいるのに、またこの女と関わらなきゃいけないの?」って考えてしまう。
そしてその思考は間違いなく、表情に、仕草に、声色に現れてしまう。
事前に再会の約束をして、きっちりと待ち合わせの日時を決めていたのなら、まだ心構えはできるかもしれない。
でも、ある日突然、ふうちゃんが帰ってきたら無理だ。絶対に無理だ。
私は絶対に困惑を隠し切れない。そして、ふうちゃんは絶対にそれを見逃さない。
もし、そうなったら。そうなってしまったら。
私との再会を心待ちにしていたふうちゃんの心はきっとボロボロになってしまう。
最後の心の支えがぽっきりと折れてしまう。もし、そんなことになったら。
もうきっと彼女は二度と立ち直れない。
駄目だ駄目だ駄目だ……! そんな未来は絶対に駄目だ……!
でも、だったらどうする?
今、本気でふたりで歩んでいける未来があると信じているふうちゃんに、私はなんて伝えたらいい?
「私たちはもう会わないほうがいい。そのほうがきっとお互いに幸せになれる」
……そんな台詞、どう伝えればふうちゃんの心を傷付けないで済む?
どう説得すればふうちゃんは納得してくれる? だって、そんなのふうちゃんへの裏切りじゃん。
私がふうちゃんを裏切るのが早いか遅いかの違いだけ。
どうあっても破滅の未来が避けられない。だったら、今日のところはこのまま何も言わずにいたほうが……。
いや、でも、だからって。
このまま何もしないでいいの? 破滅の未来が予測できているのに、このままでいいの?
それこそ本当に、ふうちゃんへの裏切りじゃないの……?
私は意を決する。大きく息を吸い込む。
ちょうどそのとき、
「――はい、大体そのあたりの場所にテントを設置してます。
はい、はい、お手数をおかけしますが、お願いします。それでは、失礼します」
電話は終わったようだった。
「ふうちゃん」
私の呼びかけに彼女は振り返る。
「あ、ここちゃん、お待たせ。
救助はすぐに来て、……くれ、……るって。
…………え? こ、ここちゃ――」
――直後、鮮血がほとばしる。
2晩を過ごしたテントが赤く染まっていく。
その返り血は、私の身体にも噴きかかる。
それはふうちゃんの首筋から噴き出ていた。
私の手にはピッケルが握られていた。
そして、その先端の刃の部分もまた赤く染まっていた。
…………え? この光景は何?
私は今、何をした……? なんでふうちゃんの首から血が……?
「な、なんで……? わ、私、なんで……?
なんで、こんなこと……」
何が起きたのかは明白だった。頭ではちゃんと理解している。
だけど、心がその理解を拒絶する。
……ピッケルでふうちゃんの首筋を刺した。私が、彼女を、刺してしまった。
分かってる。分からない。なんでなんでなんでッ!?
私はなんでそんなことをしたのッ!? 分からない、分からない、分からないッ!!
振り絞るような声が聞こえる。
か細く今にも途絶えてしまいそうな声が。
「こ、ここちゃん……。大、丈夫、だよ……。
私、今、とても幸せ……。だから、泣か、ないで、ここちゃん……」
気が付けば私は大粒の涙を零していた。
ふうちゃんにはまだ息がある。思わずその身体を抱きしめる。
その身体にはまだ熱を感じられる。だけど、その熱は急速に失われていく。
ふうちゃんの目から光が失われていく。彼女の呼吸が感じられなくなっていく。
「ふ、ふうちゃんッ! 死なないでッ!!
嫌だ嫌だ嫌だッ!! ごめんなさい、私なんでこんなことをッ!!!
ごめんなさいごめんなさいごめんなさいッ!!!」
そして、ふうちゃんは血に染まった両手で、愛おしそうに私の頬に触れて。
最後に一言、言葉を残してくれた。
「ありがとう、ここちゃん」
あ、あああぁああああぁあああ!!!
「――殺してくれて」
「うあああああぁあああああぁあああああぁああッ!!!!」
そこで、彼女は、完全に事切れた。
終わった。すべて終わった。何もかも終わってしまったッ!!
どうしてどうしてどうしてッ!! どうしてこんなことにッ!?
どうして私はふうちゃんを殺してしまったッ!?
あともう少しで救助が来て、日常に帰っていくことができたっていうのに!
普通の大学生に戻って、幸せな未来を手にすることができたかもしれないのに!!
分からない分からない、全く意味が分からないッ!!
どうして私はッ!! ふうちゃんを殺した、――くせにッ!!
どうしてこんなに悲しいんだッ!!!!
どうして、涙が、溢れて止まらないんだ……!!
うあ、うああぁあああぁああああッ!! うわぁああああああぁあああああぁあ!!!
「――続いてのニュースです。雪山で遭難したとみられる少女ふたりが遺体となって発見されました。
遺体が発見されたのは北アルプスのある崖下で、少女のひとりからとみられる救助要請を受けた救助隊により発見に至りました。
警察の調べによると、ふたりはともに富山県内の大学に通う友人同士とみられ、遺体が発見された場所は登山ルートからは大きく離れていたとのことです。
現場付近には、ふたりのものとみられるテントが設置されていましたが、何故救助を待たずにテントから離れたのか、理由は現在のところ判明していません。
また、ふたりの遺体には転落によるものとみられる損傷のほかに、激しく争ったような痕跡が確認されていることから、警察は事件と事故の両方の可能性を――」
――――――――。
――ねえ。聞こえる?
私の声、届いてる? ねえ、ふうちゃん……。
『……聞こえてるよ、ここちゃん』
よかった。声は出せないけど、言葉は通じるんだね。
………………。
あの、さ……。こんなことになっちゃって、その、なんて言ったらいいのか……。
本当に、ごめんなさい。私は、私たちの未来を信じ切れなかった。
私たちふたりに、ともに笑い合えるような未来なんか存在しないって思っちゃったの。
絶対に私はいつか、あなたを裏切ってしまう。あなたを見捨てて、別の誰かと幸せになる道を選んでしまう。
そんな風に考えてしまったの。それはどうしても避けられないことだろうなって。
だからって、なんでこんなことしちゃったのか、自分でもよく分からないんだけど……。
……どうしてかな。他に選べる選択肢なんていくらでもあったはずなのに、どうしてこんなことしちゃったのかな。
ごめんなさい。ごめんね、ふうちゃん……。
『いいんだよ、ここちゃん。死ぬ前にも言ったけど、私は今、とっても幸せ。
それに、これは私が望んだ結末のひとつだし、あなたに選ばせたのはやっぱり私だと思う。
むしろ謝らなくちゃいけないのは私のほうだよ。
死ぬのは私だけでよかったのに、結局ここちゃんまで巻き込んじゃった。ごめんね』
――人を殺して。
『うん?』
しかも、大事な友達を殺して。私だけ生き残るなんて考えられなかった。
だから私は、あなたを抱きかかえたまま、崖から飛び降りた……。
『……だとすると、私の計画は最初から破綻していたことになるね』
嘘つき。
『え?』
最初からこうなるって分かってたくせに。
『……かもね』
あなたの計画通り、私が何も知らないままあなたを殺したとしても、きっと私は酷く後悔した。
一時の気の迷いで、取り返しのつかないことをしてしまった。
なんでこんなことをしてしまったんだろうって、死ぬほど後悔した。
思い悩んで。悩んで苦しんで。結局はその重さに押し潰されていたと思う。
ま、なんというか、あなたみたいな女と出会ってしまったのが運の尽きね。
『人をまるで妖怪みたいに言うね』
実際、キツネか何かに化かされた気分よ。
『あはっ、人としてどうかしてるのはそっちも同じじゃん』
言うね。今から喧嘩の続きする?
『……ありがとう、ここちゃん』
なんのお礼よ、それ。
『あなたはやっぱり私が思った通りの人だった』
そりゃどーも。
『でも、もう本当に、人じゃないよ、私たち』
……雪女ってこうやって誕生するんだね。でも。
『うん』
これからはずっと一緒だよ。私はあなたを永遠に離さない。
『嬉しい。心の底から嬉しいよ、ここちゃん。
誰がなんと言おうとも、これが私たちのハッピーエンドだね』
うん。……でもね、今はなんだかとても眠いの。
『私も。幽霊って寝るのかな?』
このまま目を閉じたら、もう目を覚ますことはないかもしれないね。
『それでも私たちの魂が離れ離れになることはないよ』
…………。
そう、だね……。
それじゃあ、おやすみなさい、ふうちゃん……。
『おやすみなさい、ここちゃん……』
――私たちは、抱き合ったままゆっくりと目を閉じる。
ゆっくりと、少しずつ。まるで別れを惜しむかのように。
そして、だんだんとその意識は遠のいていく。
やがて視界は暗転、――いや、白眩した。
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