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1990年代前後、強豪として全国に名をとどろかせた北谷高校男子バスケットボール部。14期生の源古隆(49)は礎を築いた一人だ。
73年生まれで北谷町吉原出身。バスケを始めたのは小学5年、通っていた北谷小は強豪で6年になると九州大会で優勝した。北谷中では伊波忍の指導の下、全国ベスト8に。高校は「みんなで北谷」に行くことに決めた。源古らが北谷高に入学した89年4月、タイミングを合わせるように、辺土名高を全国3位に導いた指導者が赴任してきた。沖縄バスケ界の名将と言われる安里幸男だ。
「目標は全国制覇」。3年生が部活を引退すると、源古ら1年生中心のチーム作りが始まった。代名詞となるディフェンスと3点シュートを徹底的に鍛えた。「これで全国と勝負できる」。練習でも3点弾を競って打ち、古見憲作、新城大助らと共に精度を上げた。
成果は結果に表れた。2年でインターハイに出場しベスト16。3年に上がった91年の浜松インターハイでは準決勝に進出した。初芝(大阪)との試合は大激戦。後半残り1分、源古の3点弾が決まり80―80の同点に追いつくと、会場は悲鳴のような歓声で沸いた。
最後は連続でフリースローを与えてしまい、惜しくも4点差で敗れた。「『あのとき勝てましたよね』って、安里先生と今でも話すよ」と振り返る。惜しくも3位だったが、強豪校の土台を築いた。バスケ漫画「スラムダンク」の井上雄彦にも取材された。
高校卒業後は近畿大、96~2000年は日立本社ライジングサン(現Bリーグ・サンロッカーズ渋谷)で活躍した。沖縄に戻ると、体育教諭になるために琉球大で単位を取得。07年から県内の高校で教え、小禄高バスケ部を県大会優勝に導くなど結果を出した。
今は宜野湾高でバスケ部の指揮を執る。源古のチーム作りも「ディフェンスからリズムを作る」。沖縄バスケのアイデンティティーを次の世代につなげている。
俳優、ドラマや舞台でうちなーぐち指導を担う今科子(50)は源古と同じ14期生。1973年生まれ、北谷町吉原出身。マネジャーとして男子バスケ部を支えた。
「絶対、インターハイに連れて行く」。高校入学から約2カ月後、自宅に男子バスケ部顧問の安里が訪れこう告げた。マネジャーとしての“スカウト”だった。
当時、安里は赴任してきたばかりで、バスケ部は強化の途上。選手をサポートするバスケ経験者を探していた。そこで白羽の矢が立ったのが北谷中でバスケ部だった今だ。「バスケが好きだったし、インターハイという言葉にひかれた」。怒涛(どとう)の日々が始まった。
毎日、ゼロ校時の講座に始まり、通常の授業を受け、放課後はマネジャーとして選手をサポートした。練習の準備や片付け、タイムキーパーなど役目は多い。さらに、月1回、チームの活躍や寄付などをまとめた部報「バスケット便り」を作った時期もあった。2年になると、寮生活の部員のために弁当作りも加わった。チームの一員として共に汗を流し、2、3年はインターハイ行きを実現した。
学校生活も満喫した。1年と3年では「シアタードーナツ・オキナワ」代表の宮島真一とクラスメートとなり、文化祭に向けて一緒に映画作りに励んだ。
高校卒業後は推薦で立正大に進み、英米文学を学んだ。青年劇場での仕事のつながりで、藤木勇人に紹介されNHKの連続テレビ小説「ちゅらさん」でウチナーグチを指導。これがきっかけで、多くの映画やドラマを裏で支えた。昨年は沖縄「復帰」50年特別企画「喜劇 人類館」に出演。意外にも演劇は初出演だった。演じたのは「陳列された女」。同作初演時に同役を演じたのは母・今秀子だった。
挑戦し続けられるのは高校の頃の経験があるという。「何でも楽しみ、チャレンジし、作り上げることができることを知った」。今を楽しんでいる。
(敬称略)
(仲村良太)
1976年4月 開校
79年3月 第1回卒業式
92年6月 県高校総体男子バスケットボール優勝(3連覇)
2000年2月 全九州高校バスケットボール春季選手権大会男子優勝
05年12月 全国高校対抗ボウリング大会優勝(2連覇)伊保さやか、宮城鈴菜
07年2月 新校舎へ移転
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