「レイプにあった」30年前の避難所で起きていた性被害『支援物資で死角に』訴える声に「神戸にダーティーなイメージをつけるな」 被災地で繰り返された"悲劇" 令和にもつながる教訓とは
被災者たちが身を寄せた避難所。兵庫県内で設置された避難所は最も多いときで1153か所でした。当時、避難所で何が起きていたのでしょうか。見えてきたのは令和にもつながる教訓、そして悲痛な叫びの数々も浮かび上がってきました。 【写真で見る】避難所となった体育館の様子…人々がひしめき合うように身を寄せる
住む場所を失い生活が一変「本当に死ぬ思い」
1995年1月17日、突然、生活は一変しました。避難所となった体育館には地震で住む場所を失った人たちが、ひしめき合うように身を寄せていました。 (避難所に身を寄せる被災者) 「家の中にヒビがいっているので、もし余震があったらいけないと思ってここに来た」 「すごかったですよ。本当に死ぬ思いでしたね」 杖をつく場所さえも探しながら歩きます。この日の神戸市の最低気温は1.4℃でした。 命を繋ぎ止めた安堵と、これから先への不安。やり場のない、悲しみと、怒り。発災直後の避難所にはさまざまな「思い」が交錯していました。 (避難所に身を寄せる被災者) 「とにかく怖かったです。子どもを守るので必死。今も泣いて泣いて。(Qミルクは?)私も恐怖で母乳の出が悪くなってしまって」 10万棟以上の家屋が全壊し、ピーク時の避難者数が30万人を超えた兵庫県。県内に設置された避難所は多い時で1153か所に上りました。着の身着のままで避難してきた人たちが、最初に案じたのは「大切な誰か」の安否。 【避難所の張り紙より】 「大丈夫ですか?連絡してきてください。待ってます」 張り紙、1枚1枚に無事を願う“希望”が託されていました。 (公衆電話で話す人)「全然大丈夫やった?みんな無事やったからね」 公衆電話には連日、夜遅くまで長蛇の列が。 (公衆電話で話す人)「そっちどうもない?どうもない?うちは全滅や。もう入られへんねん。潰れてもうて」
「初めてもらったのは期限がきれたおにぎり」
ある日、突然、見ず知らずの人たちと一つ屋根の下で共同生活を送る避難所での暮らし。みんなが生きるために必死でした。 (食料を配る人) 「小さい子おる?お年寄りと子どもさんだけね」 「ちょっと待った!待て!ストップ。ストップ。押したらあかんで。押したらあかん」 震災が起きた日、神戸市内の小学校で配られた食事は1人1枚の食パンのみ。満足な支援物資が、すぐには行き渡らなかったのです。 私たちは今回、30年前に避難所で暮らした男性に話をきくことができました。 (避難所で生活 神生善美さん)「初めてもらったのがおにぎり。ひとつを2人でわけて。それも期限のきれたやつ」 神生善美さん(75)。自宅が全焼し藁にもすがる思いで向かったのは、神戸市須磨区の鷹取中学校でした。