管理責任の拡大で生きづらい
コンプライアンスの高まりによって、だんだんと管理責任の範囲が広がっている。さすがに中居正広の件は、プロデューサーの過剰な接待であろうし、「女子アナを紹介しただけ」という範囲を超える。とはいえ、これが昭和だったら、責任を問われていない可能性もある。要するに中居と女子アナを積極的にくっつけようとしたわけだが、さすがに数日後の不同意性交までは想定してないだろうし、プロデューサーに責任なしという結論も昭和ならあり得る。良くも悪くも昭和だと、管理責任の範囲は極めて狭い。管理責任が拡大した象徴的事件は平成13年の池田小事件だと思うが、これもおそらく昭和だと、学校の責任は問われていない。いや、裁判はやるだろうし、粛々と裁判をした結果、学校の責任となる可能性もあるが、庶民感覚だと「通り魔を事前に止められるわけがない」ということになる。通り魔が発生したとして、その発生場所の管理責任者を吊し上げるとか、昭和だとあり得ない。平成25年に福知山の露天商が火事を出して、遺族がマスコミを連れて主催者に詰め寄ったが、これも昭和だとあり得ない。予見可能性がこの数十年で拡大に拡大を重ね、どこまで肥大するのか杳として知れない。自分が加害者にならなければ大丈夫という世界ではなく、どこかで管理責任の追及が及んでくる。自分が加害者でなければそれでいい、というわけではないのだ。被害を未然に防ぐことが求められている。つまるところ、宅間守とか露天商を逆さに振っても一円も出てこないので、「学校が悪い」とか「祭りの主催者が悪い」とかマスコミを引き連れて頑張るわけである。それこそ、最近では池田小の事件が記事なっても宅間守の名前が出ない。「学校に殺された」という方が、お金が出てくるという卑しさの極みである。もはや加害者と被害者の関係というのは存在しておらず、「犯罪」という無生物への管理責任なのである。宅間守は主語ではない。加害者が悪いのではなく管理責任者が悪いという弁護士の論法がなぜひとびとを洗脳したのか、わたしはよくわからないが、池田小事件について、「学校は悪くない」と言って他人から共感してもらえた試しがない。あなたがたは「学校が子どもを殺した」という論法に骨の髄まで染まっている。管理責任者になると殺人犯の扱いにされてしまうので、われわれは犯罪予防を常に考えている。犯罪予防の何が悪いということだが、犯罪が無生物になっており、管理責任者に押しかける構造自体が息苦しいのである。