『カラマーゾフの兄弟』~その粗筋とつぶやき~

純粋と猥雑、高潔と粗暴が錯綜する魂のドラマを辿ります

第六編 ロシアの修道僧

地獄とは、地上で愛を抱かなかったために、「もはや愛することができないという苦しみ」を抱く場所である。

地獄で愛に開眼する者もいるが、すでに愛を抱く機会を得られないことに苦しむだろう。しかしその苦しむことで「愛の面影」に触れることになり、その苦しみは軽減されるだろう。

「自殺者は嘆かわしい!」 ゾシマはその理由を何も語ってくれませんが、自分をさえ愛することをせず、神の創った自分を「審判」するのは傲慢だ、ということでしょうか。難しい論理ですが、そういう考え方もあるのかも知れません。

そして、ついに愛を知り得ず、「傲慢な怒り狂った態度をとり続ける者もいる」、全くのエゴイスト、ということでしょうか。彼らの地獄は、いっそ死にたいと思うほどの地獄の苦しみを受けながら、「死を得られない」ことだと言います。

人にとって愛することがいかに重要かということだと思いますが、ゾシマの言うように愛することもまた、苦しいことではあるように思います。「人間というのは、お前(神)が考えているより、ずっと弱く卑しく創られている」と言ったイワンの怒りと悲しみが、また思い出されます。

ともあれ、その夜、長老ゾシマはみごとな死を遂げました。

修道院のゾシマの前でフョードルとミウーソフが見苦しい遣り取りをした、この物語の始まった日の翌日のことです。

そして三日目、もう少しゾシマのその後について語られますが、そこでは「だれにとっても思いがけぬ事態が生じた」のでした。物語は第三部に入ります。

 ゾシマの「法話と説教」は続きます。

 そういう民衆も今は堕落しており、その堕落は子供にまで及んでいる。しかしそこに必要なのは「ほんの一滴なりと注がれる愛情」である。そういう民衆も、自分の罪業を知っている。「それゆえ、わが国の民衆はまだ倦むことなく真理を信じ、神を認め、感動の涙を流すのだ」。「(ロシアの)救いは(ロシアの)民衆の中から…生まれるに違いない。(ロシアの)民衆は卑屈ではない、しかも二世紀にわたる奴隷制度の後でも…のびのびしているが、それでいていささかも無礼ではない。(ふと『戦争と平和』のカラターエフを思い出しました)…。だから「修道僧諸師よ、…一刻も早く立ち上がって、道を説いてもらいたい」。

 ある時わたしは巡礼の旅をしていてある町の市場でかつての従卒アファナーシィに出会った(ここで出すために、あのチョイ役に名前を付けておいたのか、と思います)。彼は駆け寄ってきて家に招き「お祭りでも始まったかのよう」に歓迎してくれた。わたしは彼に「そもそものきっかけはお前なのだ」と事情を説明した。彼は感動して、別れぎわには寄付までしてくれた。

 わたしは、人を召使いとしてその奉仕を受ける値打ちなどないが、「俗世間で召使なしというわけにもゆくまい」から、「それならかりに召使でなかった場合よりもいっそう精神的にのびのびとしていられるようにしてやるがよい。…なぜわたしが召使に仕える召使になってはいけないのか。なぜ召使が身内の者同様になり、その結果、最後には家族の一員に迎え入れて、それを喜ぶようにできないのだろう、…(みんながそう考えれば、人々は)福音書に従って、みずからすべての人の召使になろうと心底から望むようになるだろう。…これがはたして夢であろうか? そんなはずはない、しかもそのときは間近であると、わたしは固く信じている。…」

 こうした人の対極にカラマーゾフ家の主従関係があるわけです。

しかし考えてみると、例えばスメルジャコフは、フョードルや、アリョーシャを除くその息子達から、普段あれほど罵倒され時には暴力さえ振るわれながら、直接にはグリゴーリイに対してだったとは言え、その人たちの前で堂々と無神論を論じられる(第一部第三編7節)のですから、全くの主従関係というわけでもなさそうです。ゾシマがここで語った姿とはもちろん違いますが、ある程度の対等、平等の関係があると言えなくもありません。ゾシマのこの長い夢物語は、この物語に後ほど起こる事件の意味と、ひょっとして遠い暗闇の奥底で繋がっているのではないか、そんな気がしてきました。

 「人は誰の審判者にもなりえぬことを、心に留めておくがよい」。なぜなら、当の審判者自身が「正しかったのであれば、目の前に立っている罪人も存在せずにすんだかもしれないからだ」。

 さきほどの「すべては大洋のようなもの」だという考えの延長です。ひとりの罪人がいるということは、世界が罪を犯しているということであり、ひとりのよき人がいるということは、世界がよいということだ、…。大洋の水の一個所が濁れば、その大洋は全体が濁るのであり、水が澄んでいれば、個々の水が澄んでいるのではなく全体が澄んでいる、ということになりましょうか。

 ひとりの人の祈りは、世界の端々に及び、ひとりの罪は全体の人々の罪だと考えるがよい、…。

 なるほど~。確かに信頼しあった者同士の間では、例えば睦まじい家族の中ではそういうことが起こりうるでしょう。そして、「人間が自分の個性をもっとも際立たせようと志」すような世界(D)では、ひとりひとりが別々の存在だから、そんなふうには考えられないでしょう。それを指して「孤立の世界」と呼んでいるようです(D)。

 いろいろなことを思います。

学校教育では、現代は個を育てることに主眼が置かれているようですが、かつては人間世界の理念を教えました。だから学問が重視されたわけですが、生き方としては例えば戦後教育では基本的人権、個人の尊重が当然のこととして扱われ、自由・平等・博愛・自然を不可侵のものとして教えられました。そこでは個々の人間の最も高貴な在り方が目標となります。それと同じ意味で、教会で愛や罪が説かれるのは大切なことで、人間の高貴さを示すことと言っていいでしょう。

 中国の古代、尭の時代は鼓腹撃壌、為政者はただ街を見回っておるだけで人々は和気藹々と生きられたのですが、それによって国が栄え人が集まって来ると、為政者は寝食を惜しんで政務に当たらなければならなくなりました。アダムとイブがリンゴを食べてしまってから後、人は、集まって社会を作ると自ずと利害関係を生むようになったという一面が生まれ、そこでは正邪の「審判」をしなければならず、理念が通用しなくなる世界ができてしまいました。

「大審問官」が言っていたように「人間というのは、お前(神)が考えているより、ずっと弱く卑しく創られている」(第二部第五編5節)ということがあります。だからこそ、理念や愛が説かれなければならない、ということもありますが、そこでは同時に個人に苦難が(例えば、私心を滅するための修行が、あるいはみずからを罪人と納得するための修養が)求められることになって、鼓腹撃壌とは行かなくなってしまいます。

アファナーシィのような従者もいます(F)が、スメルジャコフのような従者もいるのです。

 今、(F)が飛んでいることに気づきました。前後しますが、このあと、投稿しておきます。

 「主よ、今日御前に召されたすべての人を憐れみたまへ」と祈るがよい。人は「悲しみと憂いのうちにひとり淋しくこの世に別れてゆく」のであり、そんな時「地球の反対の端からお前の祈りが、…その人の安らぎをねがって主の御許にのぼってゆくにちがいない。恐れおののきながら主の前に立ったその人の魂にとって、その瞬間、…地上にまだ自分を愛してくれる人間が残されていると感ずることが、どんなに感動的であろうか。…」

 「兄弟たちよ、人々の罪を恐れてはならない。罪あるままの人間を愛するがよい。」

 罪のない動物や植物や子供を愛するがよい、彼らは、「われわれにとってある種の教示にひとしいからである」

 「毎日、毎時、毎分、おのれを省みて、自分の姿が美しくあるように注意するがよい。」子供の脇を通るときに、…怖い顔をして汚い言葉を吐き捨てれば、お前は気付かなくても、それはそのまま子供の心に悪い種を蒔いたことになる、「すべては大洋のようなもの」で、「一個所に触れれば、世界の他の端にまでひびく」のだ。…。

  ゾシマはみずからそうありたいと思い、修道僧たちにそうあれと語ったのでしょうが、これを書いた作者は、そうではなく、そういう愛を受けたいと切実に願っていたのではないか、という気がします。罪深い自分をそのように愛してほしい、そういう祈りのように聞こえます。

不断に美しくあろうとすることは、不断に自分の美しくないところを見逃さないことであり、それはしばしば人を絶望させます。ほんとうによくあろうとする人は、自分は美しくないと感じ、生きとし生けるものに対して「罪深い」という気持ちになる、しかし逆に、自分で罪深いと感じている人よりも、そう感じていない人のほうが多分より罪深いのであって、つまり人は皆、罪深いのです。だから「罪あるままの人間を愛するがよい」、それでよいのだ、ということになります。

 「神父諸師よ」とゾシマが呼びかけます。

 「ロシアの大地の救い」は「静寂の中で修行を積んでいる」修道僧から生まれる。

 現代の世界は、科学が支配し、人々は自由を求めており、人々に「君らはさまざまな欲求を持っているのだから、それを充たすがよい。なぜなら君らも、高貴な裕福な人たちと御同等の権利を持っているのだから。欲求を充たすことを恐れるな、むしろ増大させるがよい」と呼びかける。

 しかしそこから生ずるのは、「富める者にあっては孤独と精神的自殺、貧しい者には妬みと殺人に他ならない。それというのも、権利は与えられものの、欲求を充たす手段はまだ示されていないからだ。距離が短縮され、思想が大気を通って伝えられることによって、世界は、時がたつにつれ、ますます団結し、兄弟愛によって結ばれてゆく、と彼らは力説する。ああ、このような人類の団結を信じてはならない。彼らは自由を、欲求の増大や急速な充足と解することによって、自己の本性をゆがめているのだ。なぜなら、彼らは自己の内に、数多くの無意味で愚劣な欲望や習慣や、愚にもつかぬ思いつきをうみだしているからである。…」

 ここにもまた、まるで二十一世紀の現代を見透かした思索が語られているように思われます。「距離が短縮され、思想が大気を通って伝えられる」とは、交通の発達とインターネットの普及がそれに当たるのでしょうが、その現代は「兄弟愛」どころか、中米、ロシアとウクライナ、ロシアとNATO、イスラエルとハマスを初めとする中東の複雑な対立構図、極東の緊張、アフリカ諸国の内戦と飢餓、南米の政局の不安定、東南アジアの幾つかの国内の政治的緊張と迫害、などなど、その混乱非道ぶりは、胸が傷むと言ったレベルではありません。

 ゾシマは(この場合、つまりこの作家は、と言っていいと思いますが)、そうではない世界、「兄弟愛と人類の団結」、「精神の自由」の世界の到来を本気で夢みているようです。

 「修道僧の道はまったく異なる。贖罪のための勤労とか、精進とか、祈祷などは、笑いものにさえされているが、実際はそれらの内にのみ、本当の、真の自由への道が存するのである。…。」

 「我々の間からは昔から民衆の指導者(民衆を指導する者、のではなく、民衆の中から生まれた指導者という意味だと思われます)が輩出してきた。…ロシアの救いは民衆にかかっている。…静寂の中で民衆をはぐくみ育てることだ。それこそ、あなた方修道僧の偉大な仕事である。なぜなら、この民衆は神の体現者にほかならないからだ」。

 トルストイも「ロシアの民衆」を信じていたようですが、ロシアには、「ロシアの大地」といった、風土的土着的なものへの信頼というか誇りというか、そういうものに包まれているといった感覚があるようです。日本では「八百万の神々」の存在が信じられ頼りにされてきたのでしたが、ロシアはもう少し目に見えるもの、形のあるものへのそれがあるようです。

 ちょっと気になるのですが、この節のタイトル「考えられうる」という言葉は、「られ」「うる」と可能表現がダブっていて違和感があります。

 蛇足。先に挙げた現代世界の危機的状況を回避するために国際連合を初めとするさまざまな国際機構があり、そこでは選りすぐりの優秀な人々が、世界の平和と安定のために、第二次世界大戦後からだけでもすでに七十年も、代を重ねて職務に精励しているのでしょうが、現下、むしろその状況は拡散し激化してさえいるように見えます。七十億とか言われる世界の人口の中で、日常的に命の危険を感じないで普通に食事ができている人は十億人ほどだ、という話を聞いたことがありますが、その数字はいくらか極端だとしても、そう言われるほど人間世界は恵まれていないということでしょう。

「兄弟愛と人類の団結」、「精神の自由」の世界は、本当に来るのでしょうか。

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