ドストエフスキ―『カラマーゾフの兄弟』40 第2部 第6編 ロシアの修道僧 「一 ゾシマ長老と客人たち」
J・ラヴリンの『ドストエフスキー』によれば、
これはドストエフスキーが1878年6月26・27日の両日、ウラジーミル・ソロヴィヨーフと共に訪問したオプチナ修道院であり、二人はここで有名な長老アムブロシエと様々な会話を交わしたのである。長老は小説の中であ長老ゾシマとして登場する。
ということらしい。
ゾシマ長老の章は、死ぬ間際の長老の言葉をアリョーシャが記録し、編集し、様々な説話も含みこんで「一つにまとめた」テキストである、と説明されている。
昨日、小泉悠さんのまつろわぬ民としてのロシア人精神という意見を読んで、なるほど、だから、めちゃくちゃロシア語の出来た二葉亭四迷は、首席で外大を卒業できそうなのに中退して、小説家としても大成しそうなのに、なぜか商売を始め、という矛盾に引き裂かれた生涯を送ったのか、ということも理解(勝手に)できた。要するに、ロシア魂なるもの(まあ、これも創作物なのかもしれないけれど)を二葉亭は生きて実践してしまった、というわけなのか。
ドストエフスキ―全集、図書館の廃棄本をもらった。昔。まったくノーマークだったのに、今、ここで、ひも解くとは思わなかった。図書館の廃棄本は、月報もきちんと貼ってあるし、とりまとめやすい。
ルネ・ジラールの『ドストエフスキー』(法政大学出版会 1983)は、何を言っているのかわからない。ただ、
長老ゾシマの機知に富んだ説教には、ドストエフスキ―の宗教体験が示されている。だからそこには、同時に、ドストエフスキ―の美学や歴史観、そして彼の人生の深い意味が示されているのである。
あなたの心の中にある、汚いと思われる物も、あなたがそれに気づいたというただそれだけで、すでに浄化されているのです。……どんなに努力しても、目的に達しないどころか、かえって遠のいているような気がしてぞっとするとき、よいですかな、そのとき、あなたは目的に到達するのです。そして、あなたの頭上に、あなたが知らない間に愛情をこめてあなたを導いて下さった神様の神秘的な力をみることでしょう。
という末尾だけは、ちょっとわかったかもしれない。
『全集19巻B 創作ノートⅢ』。
「謙虚な愛をもって愛せ そうすれば世界をも征服できるだろう」
「普通の人間になれ」
*
ゾシマ長老が亡くなりつつある。アリョーシャはその部屋に入り、みながその枕頭にいることを知り、そして、長老が最期の話がしたいと、椅子に座って、アリョーシャに声をかけるのを聞いた。
そして、兄たちに会ったか?と聞き、今ならまだ間に合う、と述べる。何が起こるか不安になるアリョーシャ。
そして、自分の兄のことを話し出す。兄がいなければ、自分はこのような立場にはいないし、アリョーシャはその兄に精神的にはよく似ているのだ、と。
そして、講話ははじまった。
*
悩ましいことが多い。
それは自分の創作にかかわることで、こんなところで提示しなくてもいいものだけれども、ちょうどゾシマ章のカタチにも関わることなので、書いておく。
つまり、小説内引用、ということについて、ですね。
私はその影響を受けた作品の性質から、別のテキストを、作品内に引用(架空のものを)することが多いのですが、それはどうなのか、ということです。
もし、物語内の時間のリアリティにこだわるのであれば、ゾシマ長老の講和を、アリョーシャたちが聞く、というカタチにしても別に構わないはずなのに、どうしてわざわざアリョーシャがその時聞いたことを後から編集して、それがここに掲載されている、としたのかな、と。
私はそれを良しとしているわけですが、それを悪し、とする人もいるんじゃないかな、と。良しとする根拠が、テキストのテキスト性に気づかせる、だけだとやっぱりそれはある時代、ある意見の影響になっていて、自分の本当に内発的な考えかというとそうでもない。


コメント