Quest2:質問という体裁をとった命令について、思うこと

 いくらでも換えの利くアルバイターの一人として賃金をもらい、父と兄から仕送りをもらって、それでこじきのように「恵んでくだせえ」と金を無心する自分が生み出しているものといえば下水に流す排泄物だけという碌でもない生活が二年続いている。

 今朝は夢を見なかった。昨夜、バイト終わりに日が登るまで大きな画用紙にペン画をし続けていたからだ。ペンだこが痛む。でも、俺にとっては健全な痛みだった。喧嘩して腫れた頬や、飲みすぎた酒で頭が痛むより、ずっと。


 傍目にはろくに働きもせず、学業にも励まない気楽な浪人生に見えていることだろう。実際、俺も高校生の頃は、浪人生というものをそういうふうに見下し、俺は現役でストレートで美大生になるんだ、なんて思い上がっていた。

 だが自分がそうなれば、やっと、理解できる。何もしていないんじゃない。したくとも、できないんだ。正確には、その資格を得るための努力さえも蔑まれている感覚、というべきだろうか。

 空回りという言葉で流してしまうには、あまりにも、それは乱暴な言葉であると、俺は思ってしまう。


 そんな、報われない努力を続け、顧みられることのない生活が二年も続けば、誰だって心を病む。ましてその目的は夢を叶えるためで、その努力のことごとくが報われず、まるで真逆の方へ全力疾走をかましているような錯覚にさえ陥ってしまうことがあるのであれば、少なからず、「変人」を自称する程度の並の人間であった俺は、見事に病んだ。


 だからなのかときどき自分が何者かわからなくなる。

 名前とか、年齢とか、生年月日、実家の住所や、現住所。何を目指していて、今何を考えていたのか。

 言っておくが、決してクスリなんてやってない。せいぜい、酒に浸る程度だ。そこまで莫迦じゃない。


 部屋の、一切の画材の名前と用途と意味が、その、羅列してあることそれ自体がわからなくなる。

 いっそその無秩序な羅列と配置こそが芸術——そこに憂鬱そうな芸術家気取りの自分をそれらしく座らせれば、パフォーマンスアートとして成り立つだろうかと考え、ようやくそこで、己がエスト・シンダーズという一人の芸術家気取りの、人間らしき生物である事実を思い出す。


 人間って、なんだっけ。ハエの二倍のDNAがあって、二足歩行で、複雑な鳴き声でコミュニケーションを取る。

 なんだかそれは、人間の定義としては微妙な気がする。“魄獣”の中には、それをクリアする種もいるのだ。

 何を以て人間とするのだろう。だが俺は、人間ではない気がする。真っ当な人間ではないと、そう思っている。そうでなければ、惨めで、自分を受け入れられなくなる。


 三日——ああ、いや、四日前だったか。日曜日の夜勤バイトの帰りに——日付が変わっていたから月曜日か。昼夜逆転が長いから、曜日という感覚が俺の中で狂っている——ペン画をしたのをきっかけに、また少しずつ絵を描き始めていた。画材はその時によってアナログなスケッチブックなどから、デジタルのタブレットまで多岐に渡ったが、いずれにしても、抽象画に近いものを描くことが多かった。ときどき、静物デッサンもするのだが、たとえばコップだけ描いたってつまらないから、デジタルタブレットであれば作品を複製し、二枚目の方に、それを抽象的に装飾したりしている。


 自分に、いわゆるデッサン力が欠けていることはわかっていた。だから受けている美大も、少し特殊なアートを学ぶ専門コースを選択し受験している(それでも最低限のデッサン力は必須であるし、なんなら、抽象画という原型を崩した絵画をうまく描くためには、そもそものモチーフを正確に捉えるデッサン能力が肝心であることは、歴史に名を刻んだ多くの画家が証明している)。


 ときどきデッサンもするが、うまくいかなくて、結局スケッチとかクロッキーに逃げた。でも、この数日は、少し充実していた。三ヶ月ぶりに描く絵は、やっぱり楽しかった。なぜ楽しいのか、何が楽しいのかはわからない。

 子供の頃、俺たちは気楽に絵を描いていたように思う。そこには課題も納期もなかった。比較は、多少はあったかもしれない。どうしても大人は、比べたがるから。とはいえ純粋な頃だったから、別段誰かと競う気なんてなくて、気楽に始めて気楽にかいて、満足したら終わる、という、あの原点を、俺は少しだけ取り戻していた。


 あごを撫でると、ちくりと髭が生えていた。それまで身なりなんてものは気にもならなかったが、俺はなんとなく、着替えを持って部屋を出て、アパートの共有シャワールームに入った。券売機で利用券を買って、読み取り機に入れる。

 体を洗って髭を剃って着替えると、部屋に戻って、鉄器薬缶で湯を沸かす。シャワールームの利用費は、券を買うことで払うシステムだ。長風呂厳禁、と出入り口に大きく、ミュステリウム語で書いてある。

 塗装も装飾もない、剥き出しのステンレスの軍隊で使うような——あるいは、アウトドア系のコップにインスタントコーヒーの粉を入れ、冷蔵庫から、ギリギリカビが生えていない食パンを取り出して包みだけ破って齧り付く。ジャムもバターも、そんな贅沢品はない。


 すっかり固くなった、パンというかパン風味の消しゴムのようなそれを無理やり口に捩じ込んで、少しえたにおいがする牛乳で流し込む。

 いつもこんな感じの少し悪くなったものを食べているおかげで、胃袋が強くなった。果たしてそれが適応と呼べる現象であるかは全くもってわからないことではあるが、自分はあまり気にしていない。

 人によっては野生化、退化、と呼ぶのだろう。俺は、飢えない程度に食えれば満足だったから、食事の水準を上げるために稼ぐという発想自体がなかった。

 というよりは、意外と画材ってのは金がかかる。どこかで削らねば、その費用を捻出できない。手っ取り早く削れるのが食費と娯楽の類だったというだけだ。


 沸いた湯をコーヒーに注いで、デスクに座った。型落ちのPCの電源を入れて、ラジオをつける。

 テレビはない。つまらないものを見る時間なんて自分にはないと思っているし、正直、小さい頃からテレビを見る習慣がない家庭だったから、今更テレビがあったところで、おそらくは見ることもない。


 それを楽しみにしている連中が一定の割合でいることも、動画配信の影響でそのシェアが失われていることも知識としては知っている。

 知っているだけで、もちろんそれだけだ。その上で、じゃあ動画を見るのか、ということにはならない。


 それは酒を飲まないといっている人間に対し、「じゃあお前は水分も取らないんだな」というくらいに破綻している理屈であると俺は思う。

 テレビを見ないから動画を見ている、というのは、少々、暴論めいている。何も見ない、両方見る、という選択肢が想像できない人間とは、友達にはなりたくない。


 ラジオは、終戦記念の放送をしていた。

 終戦といっても、その戦争は玄慈暦一二四六年——八十一年前に終わった大昔の戦争だ。

 とはいえ、この大陸においては非常に大きな意味があり、語り継ぎ、遺さねばならない——教訓であった。


 俺たちは、神様の作った世界の生命だ。

 それは別に、幻想小説の話をしているわけではない。


「神罰の鉄鎚……」


 ラジオが言った内容をおうむ返しのように呟きつつ、コーヒーを啜った。熱さが優っていて、苦味も酸味もあまり感じない。


 双竜神と、その双竜神が産み出した十四の神竜が各々の幽界からこの物質界に干渉し、観測する中で、国家間で致命的と言える戦争が起こると、「神罰」が降る。

 それを証明した最初で最後の戦争が、「戦塵大戦せんじんたいせん」と呼ばれる戦争だ。

 南方の大国家である戦血帝国せんけつていこくによる、およそ六万の軍勢と、五万の連合軍の軍団が激突し、それが「神罰」によって消滅した。

 約十一万人の人間が、大陸南部の戦場となった平野に消え、そこに大穴が穿たれた。

 現在そこは穴の周囲が盛り上がってすり鉢状のクレーターになり、穴の中には“魄獣はくじゅう”たちの生態系が築かれているという。


 それ以来国家間の外交手段として戦争は除外された。当たり前だ。損失するだけで、何の勝敗もない。戦略目標の獲得ができないのであれば、まるで無駄な損耗を被るだけで旨みがないのだ。

 ならばと各国が講じたのは姑息でその場しのぎにすぎない口先八丁の嘘八百、それに付随する附和雷同の上辺だけの交渉、賄賂、スパイ、そして、戦争規模にはならない小競り合い——或いは「暗殺」という個人への殺傷行為が、有効な「外交手段」として見做されるようになった。


 諜報活動、工作活動、そして暗殺。それらを引き継いだ「シノビ」という存在は、現在、最も効率の良い「軍事作戦行動」とされている。

 この美術学識盟主国も、その要人暗殺対策の防衛費に国家予算を割いて、国民から叩かれているのは日常茶飯事である。


 俺には、あまり意味のない話だと思っていた。

 それは政治に興味がないという、反骨精神と堕落を混同した幼稚な考えではない。俺はいわゆる護衛を仕事とするプロではない、というだけだ。素人の、喧嘩の経験があるというくらいの、今年でやっと二十一になるガキがプロフェッショナルの警護団に加わったって、邪魔にしかならない。

 俺にできるのは、自分なりに考えて、自分が正しいと思える真摯な政治家に票を入れることだけだ。それが、俺が一人のちっぽけな国民として果たせる、国政への誠意である。


 PCのメーラーに通知が来ていた。相変わらず立ち上がりが遅い。まあ、ペイントソフトはタブレットで動かしているし、PCはあくまでお飾りのものだからこの程度のスペックでも充分だ。ネットで資料を漁る分には、困りはしない。

 メールをダブルクリックして開くと、差出人の欄に名前はなかった。件名もなしである。

 チェーンメールや、スパムでも、気の利いた件名をつけるものだ。これが、却って誰かの明確なメッセージであることを浮き彫りにしていた。

 メールを開くと、そこには「悪魔の絵、また描いて欲しい」と一言添えてあった。


 なぜ彼女が俺のアドレスを知っているんだろうか。酔った拍子に教えてしまったんだろうか。

 考えてもわからないが、メールには続きがあった。


「喫茶店で、ランチでもどうかな。二番通りのクイーンズカフェの支店なんだけど」


 返信はいらないからね、とその下に書いてあった。


 選択肢のない質問は、質問ではなく、確認だ。分かりきった答えを聞くためのプロセスを、否定されないためのシャッターを閉じておくために質問という体裁を整えて追い詰める行為が、俺は嫌いだった。

 なんせそれは「イエスと答えろ」という明瞭な命令でしかなく、もはや、否定という最終手段まで剥奪した卑怯な論法に他ならないからだ。


 この女が、極めつけの変人で、嫌な奴だということはわかった。

 それは揺るがぬ事実だ。

 月夜皇国の奴らがみんなこんな嫌な奴ではないとは思うが、印象は悪くなってしまう。

 木を見て——その枝葉の、落ちた葉っぱの行方を見るだけでその森の価値を図るなんてのは、あまりにも視野が狭いのかもしれないが。


 だが、なにか——新しい風が吹いてくるのを、散っていくその葉が報せてくれているのを、俺は感じていた。

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