Chapter Quest1:或る青年の罪状について

Quest1:誰が為の罪状

 誰かが十三階段を登らされて、弾頭台に腕と首を固定されていた。顔はわからない。真っ黒な頭巾が被せられており、その誰かは声も発さない。己の罪に自覚的なのかもしれない。抵抗するそぶりを見せないのは、罪に対する罰を受け入れる覚悟があるからに他ならない。

 俺はそれを、熱狂する群衆の中で、別段、意志を持って口を引き結ぶでもなく、同じように唾を散らして叫ぶでもなく、半開きにした口から、「人間の罪」と呟いている。

 それから「人間であるという罪」と言い換えた。


「この者、エスト・シンダーズの罪状は己を人間であると思っていたこと、生きていたこと、死ななかったこと、そして、評価もされないゴミのような、自慰行為に終始した作品を出して芸術家を騙ったことである。故にこの者を断罪する」


 そうか、俺の一切は世間一般にとっては罪だったのか。

 群衆で俺を見ているこの体は誰のものだろう。どうでもいいことを考えていたら、次第に、意識が睡夢の世界を離れていくことを決めて、意識は現実のそこへとかえっていく。


×


【表紙】https://kakuyomu.jp/users/RaikaFox89/news/16818093093501014490


「芸術家を自称する者の最大の罪は、世界の広さについて思いを馳せることのない井の中の蛙に終始するちっぽけな無知であることではなく、己に才能があると青臭く、傍目の方が恥ずかしくなるほどの酷い勘違いをし、居丈高に思い上がって他者を見下す、卑屈かつ矮小で、突けば脆くも崩壊する穴だらけの破綻した論理からなるつまらぬプライドである」


 まるで自分のことを言われている気がして、俺はラジオの電源を落としてため息をついた。

 耳が痛いとはこのことだ。言い返すことができないのは、出演者がずっと遠くのラジオ局にいるからではなく、全くもってその言い分の通りで、己にはなんらばくするための経験も実績も、そして、反論にたる「上等な思想」さえ持ち合わせていないことにあった。


 安アパートの一室で、だらしなく、横になった。埃っぽい、湿ったカビたような匂いがするソファがゆりかごのように、くたびれた体を包む。

 倦怠感と、罪悪感と、いっそこのまま衰弱死して終わってしまいたいという悲壮感。それは健全な精神を宿す大多数にしてみれば現実逃避、捻くれているというものに他ならないが、俺にとっては深刻な病である。

 俺だって、喜怒哀楽で人生を彩っていた。だが、こうなった。ため息と舌打ちと底抜けの絶望が、いつしか俺の人生の全てになっていた。


 誰かに救いを求めたい一方、救われたところで俺に何がしてやれるだろうという捻くれた不安が鎌首をもたげ、他者からの救いさえも、跳ね除ける、気狂いの思考回路。

 どこかで己を変えねばと焦れば焦るほどそれは空回りして、失敗、という実績が積み上がり、無気力と無力とを蓄積し、学習していく。

 意味のない努力に価値や、意義を、見出せなくなるのだ。


 昨日もこうだった。その前も。ずっと。


 うつ病を患って、八ヶ月。常に誰かから攻撃をされている気がする。それは物理的な痛みは伴わないが――いや、時々伴うこともあるのだが――、こちらを見る、蔑んだような目つきとか、ため息とか、心配するふりをしたあからさまな侮蔑とか、それらが、あまりにもきつい。

 当人たちにそのような腹づもりはないのだろうが、病の当事者としては、周りから聞こえる一切の声が、罵倒と嘲笑に思えてしまっていた。現実逃避の音楽すらも、その歌詞が、攻撃的に思えた。


 こちらにはもう、闘志、と呼べるものはなかった。あるのは使わなくなった画材と技法書、参考書とノート、型落ちのマシンがせいぜい。

 安いアパートの一室にはアクリル絵の具で汚れているイーゼルだけが置いてあって、キャンバスすらかけられていない。日曜大工——というほど難しくはないが、とにかく自分で作った額やらにキャンバスを張ることすらしていないし、絵の具も、買い足していない。絵筆は手入れをサボってボサボサに固まり、今はもう、どうにか食っていくための金を稼がねばと、絵を描くどころではなかった。

 何のために俺は実家を出てこの街に来たんだっけ、と問うが、それは断じて、二浪し、甘んじてこの三年目も遊んでぐうたら過ごすためではないのだ。


 画家になる。美大に入り、たくさんのコンクールで結果を出して、世間にエスト・シンダーズを認めさせる。自分の芸術はここにある、これこそが俺なのだと、そう、言ってやりたかった。表彰台の上から、あるいは、ラジオ局の狭いブースから、口角泡を飛ばしながら。

 そうだ、そのために俺は。……そのはずだったんだ。


 でも見上げれば、そこには絵が上手いやつは、山のようにいた。自分はまさに井の中の蛙だった。大海原、そこに潜む巨大な海獣たち、それらさえも丸呑みにするクラーケンのような化け物を知らなかったのだ。

 一浪し、二浪し、刻まれていない「764」「913」という受験番号を今でも暗記していて、それは己を縛る呪縛となっている。

 前に進むことも、後ろに逃げることもできない。隣を見ても、そこにはもう仲間はいなくて、彼らは芸術の道に一歩進んだか、あるいは別の生き方を探り、離脱していった。


 己で進むと決めた道だ。孤独な戦いになることなどわかっていたのに。

 今日も日が暮れる。日が昇る前に寝て、暗くなったら起きる。俺は吸血鬼じゃないんだぞ。そう思いながら、のっそりと起き上がって、着替え始めた。


×


 玄慈大陸げんじたいりく。またの名を、ミュステリウム。

 そこにはいくつかの異なる文化的思想を持つ国があり、ここは大陸西部の芸術の国、美術学識盟主国と呼ばれる土地だった。

 文字通り、美術と学識を重んじ、創造性、想像力、知的生産能力を高い水準で大陸に誇る国だが、大陸随一の精神疾患罹患者数を誇る上、平均寿命も低い方である。また不名誉ながら、大陸で一番不幸せな人間が多い国、と言われていた。反論するつもりはない。


 慈愛の神竜エルスカーを祀るのだが、その慈愛がもたらしたのは幸福と長寿ではなく、追い立てられるように働く大人たちと、幼いうちから競争させられる子供たち、そして、いつしかアウトサイダーと見做される芸術家たちだった。

 俺たちは虐げられている。ごく一部の、資産価値を見出せる者が、真っ当な人権を得られる。俺は生まれる土地を間違えた気がした。でも、生き方が間違っているとは、思っていない。


 深夜バイトの倉庫整理は重労働だが、面倒臭い人間関係が極力省ける上、基本的には単純作業なので自分にはちょうどよかった。

 講習を受けて取得したフォークリフト免許のおかげで、この、取り扱い自体はほとんどおもちゃのように簡単なのに、扱うには資格が必要なお高く止まった機械を動かして重たいパレットを運ぶことも、余裕である。

 この仕事は簡単に言えば右にあるものを左に持っていけ、という内容であり、場所と量の配分、種類、日付——そういった諸々のラベリングにさえ注意すれば、本当に簡単な作業で、給料をもらえる。


 父と兄からは今年で仕送りは終わりだと言われていた。三浪はできない。あるのは今年の十二月の合否発表で合格して美大生となるか、失敗して地元におめおめと逃げ帰り、就職するかだ。

 勤務時間の、午後七時から午前一時までの仕事を終え、タイムカードを押してロッカールームに向かう。夜勤の正社員が、遅れて休憩に入っていて、ソファで眠っていた。

 静かに作業着をロッカーに入れて事務所のシャワーで風呂を済ます。ここなら水道も電気も、会社が負担してくれる。便利な風呂屋だった。


 俺は月明かりとネオンが照らし出す夜の街に足を向ける。


 背負っているリュックには、どんなときもスケッチブックと日記帳、それからハンドサイズのクロッキーブックが入っている。ペンケースは、もちろん、いうまでもない。

 季節は現在、三月。去年の十二月に受験結果はとっくに出ていて、受験番号「913」は発表ボードのどこにもなかった。見落としていると思って文字通り一時間眺めたが、なかった。それが現実だった。


 言葉にならない。

 よその国から来た、ろくにこっちの文化も知らない奴らは平然と美大生をやっているのに。あるいは、金持ちのガキが道楽で芸術家を気取って悦に浸っているのに。

 凡人には分不相応な理想だったのだろうか。ならなぜ神様は、才能に見合わない夢を俺たちに持たせるのだろう。生まれ持ったもので満足できるように脳をデザインしてくれれば、きっと世界の不幸はいくばくか減ったはずだ。


「己に才能があると勘違いし、思い上がって他者を見下す、矮小なプライドである」


 言葉が甦る。そういえば、あの発言をした芸術家の名前を、自分は聞いていなかったことを思い出した。

 そもそもそいつは、なんの芸術に携わる人間なのだろう。俳優だろうか。舞台女優だっただろうか。それとも音楽家か、文筆家か。くだらない、評論家だろうか。


 コンビニに立ち寄って、安っぽい缶ビールを買った。うつ病で精神科医にかかっているが、投薬治療は拒否していた。そんな薬代を払う金なんてないし、脳味噌の化学物質を弄る薬物なんて飲みたくないし、何よりも、酒に勝る薬はないと思っていた。アルコールに勝るカウンセラーはいない。こいつに脳を浸してフラフラした状態で、何をするでもなくシミだらけの天井を眺め、死にゆくように眠ることだけが、今の幸福である。

 近くの公園のベンチに座ってロング缶のプルを引いて、ラガービールを呷る。


 誘蛾灯に誘われたカナブンが激しい電圧にさらされて撃墜されて、野良猫に、貪られていた。いや、野良猫じゃない。アライグマだ。野生の、——もしかしたらハクビシンかもしれないが、別にどうでもいい。そいつはとっくにどっかに走り去っている。

 ああした獣はあちこちにいて、時々、駆除業者が呼ばれる。だが俺にしてみれば、本来この土地は彼らのもので、人間が後からやってきて侵略したのだと、そう思っている。


 無論自分は、超自然回帰を謳う、エコロジストではない。この世界の支配者が誰であったところで、別段、気にすることはない。よしんば明日にでもこの美術学識盟主国が、何かの事件で変化したとて、ステージが1-6から2-1に切り替わるようなものだ。

 面が切り替わったら、切り替わった面のルールで生きていけばいいだけだ。逆らえない流れに逆らっても、仕方ない。

 あるいはその、ルサンチマンが己の中で枯渇したのが、絵を描かなくなった理由なのかもしれないと、思った。


 ビールを脇に置いて、リュックからスケッチブックを取り出した。鉛筆はキャップをしてあるが、意外と簡単に、芯が折れる。こいつは俺と同じで繊細だ。

 実際キャップを開けたら折れていて、ため息をつきながら〇・五ミリのシャーペンを取り出した。けれど途中で気が変わって、油性のボールペンに持ち替えた。

 夜景を描こうと思っていた。だが、気づけばなにか、おかしなものを描いていた。


 そもそもなんで今更絵を描こうと思ったのかはわからない。子供の頃に、理由がないのにクレヨンを握っていたのと同じだ。周りがやっていたからやった、というわけでもない。

 何かをする、した、できた。理由があったから——理由がなきゃ、何もできないわけでも、してはいけないわけでもない。理由はないが、してみた。やった結果が、誰かにとっての理由となっていた。

 理由なんてのは別に、後付けでいい。人の目を気にしないのであれば尚更だ。

 俺たちは人間であるかもしれないが、同時に野生の畜生だ。時には、理屈を無視することだってある。カッとなって人を殺す自称善人、興奮を抑えきれない強姦魔。そいつらと違うのは、俺の野生は、作品にぶつけられることだけだ。


 それは、悪魔だった。自分が思い描く悪魔だ。

 悪魔は目玉が一つあって、その下、左右にさらに二対の目がある。合計五つの目玉を持っていた。鼻の穴はあるが、鼻梁はない。空気を出し入れする穴が空いているだけだった。

 口は大きい。蛇と同じ、靭帯の構造が下顎にあって、大きな、人間すら丸呑みにできる。もしかしたら、牛もいけるかもしれない。俺に丸呑みフェチはないが、理解できないこともない。

 スケッチブックの紙にボールペンで黒を塗っていくのは、物理的な障壁を伴う。紙質的な抵抗が大きい。しかしあえてその苦痛を選ぶことに、俺は己のうちにある悪魔を描く意味を見出していた。


 よく、子供や、あるいは初心者がつどう場所では、「絵は楽しい」なんていう変な画家がいる。そんなわけない。楽しいのは最初のうちだけだ。真剣に向き合えば向き合うほどにその苦痛が浮き彫りになり、上手い、あるいは、評価されている誰かを妬み、苦しむ。絵を描くこと、それを本当に純粋に楽しむことは、少なくとも他者との比較が当たり前であるこの土地では不可能だ。

 そして比較、その、轟然たる魔王の如き存在から脱却できるのはわずかな変態だけである。真っ当な人間は、嫉妬や羨望を捨てられはしない。社会性動物の本能を持ち続ける方が、むしろ、人間という生物にとっては正常かつ健全な反応だからだ。承認も比較も、別に、犯罪じゃない。進化の名残だ。適者生存の上で、それが正しいというだけである。


 俺は自分が特別な絵描きで、才能があって、普通じゃないと思っていた。だから承認欲求なんてのはないし、比較されても気にしないと勘違いしていた。

 そんなことはなかった。あまりにも平凡で、ありきたりで、凡才で、だからこそ、心を病むほどに自分と理想の乖離で苦しんでいる。認めてほしいと思うし、比べて落ち込んだり、時に、醜くも見下すことさえある。


 悪魔の表情は、笑うわけでも、蔑むわけでもなかった。黒々としたハッチング越しに浮き彫りになる悪魔は、別に誰かを襲うつもりなんてない。そこに佇んでいるのだ。佇んでいて、見下ろしている。見下ろし、ただそこで、ヒトを観察している。

 売れる絵を描きたいなら、こんな訳のわからないものじゃなくて、安っぽいポルノを描けばいいと、頭ではわかっているし、描くこともある。でも、それを売り物にするのかといえばそんなことはないし、自分はそういうもので評価されたいわけではない。


 違うんだ、違う。売れるから描くっていうのは。……それで、どれだけの画家が心を腐らせていったんだ。そういう生き方がしたいなら、芸術じゃなくて、経済を学んで大きな会社に入ればいいだけだ。俺が芸術という道を選んだことには、必ず、意味がある。


 俺はボールペンを、無心に走らせた。悪魔の周りには、全体像で丸い渦に見える闇が蟠っていた。悪魔はビルの給水塔の上に立っていて、翼を広げている。

 最後に日付とサインを書き殴った。ちょうど、ボールペンのインクが切れたのか、最後のワンストロークが酷く掠れた。


「その絵、売ってくれない?」


 そこに女性がいたことに、やっと気づいた。いつからいたのか、隣に座って、缶チューハイを飲んでいる。

 絵を描きながら酒を飲んでいたし、少しだけ酔っていたのもあって、反応は鈍っていた。驚きはしたが飛び跳ねることはなく、のっそりと、腐ったような目でそいつを見上げた。


「売るつもりで描いてたわけじゃないから、値段はつけられない」

「なら、プレゼントして欲しい」


 女は、プラチナゴールドの髪を揺らして笑った。


「いいっすよ。あげます」


 こんなものを欲しがるなんて、この国の人間じゃないなと思いながら、俺はペンケースのカッターナイフでスケッチブックのページを切り取って、渡した。女はこの国の人間ではなさそうだが、紙をファイリングするケースを持っていて、そこに悪魔の絵を仕舞い込んだ。

 観光客だろうか。身なりは、——金持ちには見えない。多分、流れものの〈屑浚くずさらい〉だろう。


 女は「額装して部屋に飾るわね」と言った。

 不気味な絵を集める趣味を持った女なんだろうと思った。こういう、抽象的な具象画、のような、不気味なテイストの絵が一部の界隈で需要が持たれることを知っている。だから描いたわけではなくて、自分が描けるものがそう言ったものだからというのが大きいのだが。

 俺はビールを呷った。


「名前は?」

「エスト」

「絵の名前を聞いたんだけどね。流石に人の名前を聞く時は自分から名乗りたいから……まあ、いいか」


 なんだかすごく幼稚なミスをしたみたいで、恥ずかしくなった。


「ポラリス・イェルテル。常夜の国、月夜皇国から来たの。またどこかで会えるといいわね」

「常夜の国……。わざわざここまできたのか。この国、そんなに楽しいか?」


 端的に問うと、ポラリスはどこか呆れるような、あるいは嘲ったような笑みを浮かべた。


「旗を振って誘導すれば、集団で崖から飛び降りていく様を観察できそうで、楽しいわよ。みんな不幸せな顔だから、相対的に私が世界でいちばんの幸せ者だって思えて、気分もいいし」


 変な女だ、と思った。

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