演劇における極私的三大元素
はじめに
以下の文章は正統な演劇教育を受けずに育った、アウトローの立場に身を置く者の独り善がりな(タイトル通り「極私的」な)感想録である。
「自分のことをいちばんよく知るのは、いちばん近しい他人である(Who knows you best is your closest stranger.)」という有名な格率の通り、演劇文法(それが果たして文法と呼べる程に洗練された代物かどうかはひとまず無視して)に毒された人々からは永遠に見通せない「何か」がそこにはあるはずだ。全員が専門家の国では職業としての専門家は存在しないだろう。
去年の秋頃から積極的に観劇するようになり、クラシックやコンサートを含めると今日まで数十本ほど、面白い舞台もつまらない舞台もたくさん観てきた。かといって僕は演劇にそれほど明るい人間じゃない。上には上がいるし、そもそも演劇を語る上で必要な共通言語を持ち合わせていない。だからこそ昨今の演劇、ひいては舞台芸術を取り巻く惨憺たる現状を語る意味がある。
このエラそうなnoteも「偉大なる器用貧乏」への第一歩だと思って、生温かい目で見守ってもらえれば幸いです。
1. 「場」と「空間」
大学公認演劇部の体験会に参加したときはちょっと絶望した。練習メニューには何のコンテクストもメソッドも感じられない。特に酷かったのは「テンアゲ」と称される練習で、大きな声と少しの頭脳が必要なミニゲームに盛り上がる様子は「ここは仲良しサークルか??」と錯覚するほどだった。
カラオケでも最初は歌いやすい曲から入るように、良い演技をするための助走は欠かせない。しかし個人の「声量」や集団の「関係」に注目するあまり、役者が演劇を司るという勘違いが蔓延っている。
演技の上手い下手はさして重要ではない。舞台上の人間は人間それ自身の手によっていくらでも変形される。最も注意を払うべきなのは、小さな人間存在ではどうすることも出来ない、巨大な「場」や「空間」ではないだろうか?
「場」とは、様々な大道具が総合して舞台上に形作られた具体的な場所のことを指す。例えば、木の柱とふすまと畳とちゃぶ台で表された「日本家屋の居間」であったり、背景の窓ガラスと客席にまで飛び出る大テーブルで表された「会社の会議室」など。
[ステージナタリーより引用]
これらはそっくりそのまま現実の模倣であることが多く、性質や息遣いは既にモノに宿っているため、役者は「場」に身を任せることで自動的に物語の登場人物へと成り代われる。「場」それ自身の補正作用が働くため、大雑把な演出も許される。制作に手間がかかるぶん、懐の広さが魅力的だ。
「空間」とは、裸の舞台に幾何学的な物体が置かれただけ、あるいは直接意味の繋がらない大道具しか存在しない抽象的な空間を指す。例えば、能舞台であったり、地中に埋まった郵便ポストと斜めに立った電柱が目を引く、一面に砂の敷きつめられた舞台など。
これらの一見掴みどころない舞台に命を吹き込むためには、高度に操られたバレリーナの四肢が大気の濃度を変えるように、役者にも繊細な演技が要される。劇団員全員に共有されたある種の哲学がない限り統一感ある演劇は生まれず、それを怠ったが為の千千に乱れた様子は見るに堪えない。制作が楽なぶん、それ相応の覚悟が必要とされる。
「場」と「空間」がないまぜになった劇の場合、スムーズに物語世界へ入り込めずかなり苦労する。学生劇団に限らず、公演で金をとるプロの劇団さえもこの点を見落としていることが多い。
2. 「マス」と軽さ
日本人なら誰しもが知る奈良東大寺の大仏。螺髪の彼とはじめて対面したとき、その圧倒的な存在感に自分自身のちっぽけさを思い知らされたものだ。大仏のみならず、渋谷の巨大広告や道頓堀のドンキ観覧車など、非人間的な大きさの物体にはなにかと目を奪われてしまう。質量の臨界点を超えた天体の行く末が万物を引き寄せるブラックホールであることから類推するに、質量の大きな物体は遍く求心力をもつのだろう。
舞台上に大きな物体を配置するのは、観客の視線を引きつけるための非常に有効な手段である。直接触れずとも理解出来るとてつもない重量が身に迫る感覚は、観客である自己を天秤の上で相対化し、物語世界へ没入するきっかけをもたらす。このような視覚情報のみに依存する質量感覚を、私は「マス(mass)」と呼んでいる。
上記以外にも、お尻の大きなスーツ姿のおじさんであったり、王様の身につける豪華絢爛な衣装など、種々のものに「マス」は宿る。風で波打つ茫漠な砂浜さえも、そこに風の圧力を感じるならばそれは「マス」である。つい先日シアターコクーンで観た『パンドラの鐘』では「マス」そのものである巨大な釣鐘が、舞台を引き締める中心点として劇中で機能していた。
個人的な考えでは、演劇を通して描かれるべきものの中には「マス」と対をなす「人間の軽さ」も含まれる。「軽さ」は単に状態を表す言葉なので、以降は括弧で括らない。
それは「軽妙洒脱」という四字熟語の一部を構成するような軽さではなく、とうの昔に成長が止まった青年の身体に巣食うスカスカの肉体と精神の、虚無感にも似たどうしようもなさだ。先進国の地表を覆い全国民を窒息に至らしめる透明なパラフィン・フィルムこそ、不況の元凶たる軽さなのだ。
現実を否定することでしか見通せないこの本質は、間断ない自己批判を迫るために仲良しサークル改め学生劇団との相性は最悪である。
3. 「ヴィークル」としての演劇
ドニゼッティ『愛の妙薬』で、大西宇宙演ずるベルコーレの歌声をはじめて聴いたとき、かつてないほどの衝撃を受けた。天性の声質で放たれるまろやかで力強いバリトンは、今まで耳にしてきたどの男声とも違う。そんな日本を代表するオペラ歌手が出演するコンサートに丁度この前行ってきた。
中央にSTEINWAYが鎮座するだけの(擬)素舞台の上、旋律ひとつで彼は提督に怒れる秘書にも、生後間もなく生き別れた娘と感動的な再会を果たす父親にもなれる。不接合面はまったく見られず、歌詞とメロディーと伴奏が一直線に撚られて突き進むさまに私は多元宇宙を垣間見、不思議と込み上げるものがあった。
ここで大切なのは、曲は歌手に選ばれると同時に歌手を選んでいるという事実である。ヴェルディの曲は大西宇宙の歌声に耐えうる構造を有していた。加えて大西宇宙という乗り物を通し、時空を超えた先の未来へと「愛」やら「正義」やらの主題を新鮮な状態で運び込んでいる。
クラシックじゃなくてもいい。Adoに歌われなかった「うっせえわ」は、きっと単なる若者の戯言として片付けられただろう。
村上春樹は自身のオリジナルな文体を「ヴィークル(乗り物)」になぞらえる。ここで主張したいのは、声楽を含めたあらゆる芸術は「ヴィークル」として機能しなければならないということだ。芸術作品が作者の死後もなお(それどころかより一層)重宝される理由はここにある。絵画や楽曲や小説や映画の正体は、此岸と彼岸を繋ぎ止めるパイプラインそのものなのだ。
くだらない演劇の多くは(大抵は演出も兼ねた)脚本担当の伝えたいテーマ(らしきもの)が見え透いており、観客のこちらが小っ恥ずかしくなる。別に赤面するために観ている訳ではないのに、とんだトバッチリだ。一読しただけではちんぷんかんぷんな脚本を演劇化したところで観客はその一割も汲み取れず、落胆した彼らは「演劇とはつまらないものだ」と早とちり、劣悪な自己表現主義者のせいで演劇は遂に地に堕ちる。
「それ」はひた隠しにされなければならない。「それ」を意識してはいけない。「それ」は観客自身の手によって掘り起こされなければならない。高圧洗浄機で完璧なまでに洗われた、土塊ひとつ見当たらない宝箱に果たして価値はあるのだろうか?
上記三点はあくまで自分勝手な演劇哲学であって、特定個人や特定団体を傷つけるためのものではありません。そこのところよろしくお願いします。


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