あれからどれだけの時間が経ったのだろう。瞼を腫らし、鼻をすすりながらふとそう思ったのも束の間、考えることを放棄して不貞寝を決め込む。考えると思い出してしまうから。あの温かさを、あの微笑みを。いや、正確には認めたくないのだろう。本の少し前にあったものが失われたことを。そうして、感情に蓋をしようとしたとき、
――――ぐうぅぅぅぅ……
「お腹すいた…」
寂寥感と喪失感に苛まれながらもいつもより重く感じる身体を無理矢理動かす。いつもの場所に置かれているパンを齧りながら、自分以外の気配がしない部屋の一点をただ見つめる。
人としての欲求を満たしていると、さっきまで押さえ込もうとしていた感情が湧き出してくると同時に記憶までもが蘇ってくる。
そっと僕の頭を撫ででくれた母さんが、僕をギュッと抱きしめてくれた父さんが
蘇る蘇る蘇る蘇る蘇る蘇る蘇る蘇る
腹を満たすと不思議なもので、さっきまでは何もする気が起きなかったのに身体が動き出したいと訴えてくるようだった。いつものように、誕生日にもらった姿見の前に立つ。いつもより赤く腫れた瞼の内にはクリクリとした紺碧色の瞳。モフモフでピンと張った猫耳と肩で切り揃えられた髪は淡い茶髪に染まっている。腰から伸びる尻尾が僕がキャットピープルであることを堂々と証明していた。
――――男の子だって、かっこよくなるためにオシャレしないとね。だから家を出るときは必ず、身だしなみを整えなさい。約束よ、チェルシー。
背丈を越えるほどの鏡に興味津々な僕に、優しい眼差しを向けて母さんは言っていた。
――――じゃあ、父さんとも約束だ。いつか他人に左右されない自分だけのものを見つけなさい。それがチェルシーの力になるはずだから。
我が子に期待するように見つめる瞳は紺碧に輝いていて、いつになく真面目な雰囲気の父さんは言っていた。
「行ってきます……」
僕以外誰もいない家に背を向けて呟く。
そして僕は思い出を振り返るように、母さんと父さんとの繋がりを感じたくて家族でよく訪れていた教会へ向かうことにした。
夕陽が照らすオラリオの街は活気がなく人々も笑顔が少ないが、いつものことだと割り切り教会へ足を進める。いつもの通りを抜けてメインストリートから外れた道を歩いていると、
「おい、聞いたか?昨日、奥の通りで夫婦が闇派閥の連中にやられちまったらしい。」
男が誰かに語りかけている声が聞こえてきた。別に盗み聞きするつもりはなかったのだが、種族柄耳がいいので聞こえてしまったのは仕方ない。しかし問題はその会話の続きだった。
「ああ、聞いたぜ、グラヴェルんとこだろ。あそこの夫婦、結婚して随分経つのに仲がいいって有名だったてのに。闇派閥のクソ共が…」
急に足が鉛のように重くなる。
だって、だって、だって、その家名は……ぼ…ぼ…ぼくの
「こんな時代になっちまって何年経つんだ。早くアストレアのとこでもガネーシャのとこでもいいからなんとかしてくれんかね〜。」
「本当だよな。次は自分なんじゃねえかと怯えながら暮らすのはごめんだぜ。」
そんな会話をしながら男たち歩いていったが、僕はそこで動けずにいた。
うまく呼吸ができていない気がする…あの時の記憶が蘇ってくる…
いや、お……お…落ち着け、大丈夫だ…だいじょ
「落―着――聞き――い。キミの――――と――――はね、」
し……し、深呼吸するんだ。息を吸って吐くだけ。大丈夫だ、余計なことは考えるな。ゆっくり、ゆっくり
すぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅ
でも1度考え始めるともう止まれなかった。鮮明に思い出す。今朝のことを。いつも挨拶する隣のドム爺さんから聞かされた話を、
「落ち着いて聞きなさい。キミのお母さんとお父さんはね、今朝に死体として発見された。」
目の前が真っ暗になって、後ろに倒れ込んだ。しかし、いつまでたっても体が地面にぶつかる衝撃はやってこなかった。その代わり、肩を誰かに支えられていることに気づく。その手は力強くありながらも、小さな僕を傷つけないようにと優しさを含んだものだった。
「ちょっと、大丈夫?完璧に受け止めてあげたから怪我はないと思うけど。」
その声は女性のものだったと思う。でも何を言っているのか全くわからない。声は聞こえているのに理解ができない。気味の悪い感覚。そして、それは焦りへと繋がっていく。呼吸が浅く早くなっていく。心臓がいつもより早くドクドクと脈打つのを感じる。支えられているはずの肩の感覚もなくなってくる。
――――ふと、気づいた。背中を触られていることに。いや、優しくさすられていることに。僕を安心させるように、身体の中に巣食う不安を取り除くように。
「ほら、大丈夫だから深呼吸しなさい。はい、吸って〜吐いて〜吸って〜吐いて〜」
さっきまでは気味の悪い音のように思えた声が意味を持ち始める。言われるままに意識して息を吸って吐いてを繰り返す。震えていた身体が、真っ暗だった視界が、蘇る。
――――あぁ、あったかい………
さすられている背中に温もりを感じる。気づくと、そんなことを考えるほど心に余裕が生まれていた。
「もう大丈夫そうね!いきなり倒れそうになるからびっくりしちゃったわ!」
女性は僕を心配する声をかけながら、身体を彼女の方へと振り向かせる。
「あら、可愛い顔してるじゃない!もうお日様も沈む頃だっていうのに1人でどうしたの?っていうか、顔も真っ青じゃない?送っていってあげるわ!家はどこなの?」
矢継ぎ早に言葉を投げられるが、そんなことはどうでもよかった。僕を覗き込んでいる彼女の顔にみとれていたから………
――――赤、真っ赤、紅
1番に目を引くのは彼女の紅色の長髪だろう。整った目鼻立ち、一目見るだけで吸い込まれそうな瞳は翠玉色。ショートパンツからは健康的な太ももを覗かせいた。
「すっごく美人…………」
――――思わず、そんなことを口走っていた。はっとして、口を塞ぐがすでに手遅れであった。すると彼女は、ニヤニヤと笑みを浮かべる。
「ふっふーん。当然よ!私は完璧美少女なんだから!見た目も完璧だけど、内面だって完璧なのよ!キミ、私に一目惚れしちゃったのね!ほれほれー」
ほっぺたをツンツンしながら、彼女は自信に満ち溢れた声で僕の脳を、心を、揺さぶる。さっきまでの不安はどこへやら、僕は彼女に釘付けになっていた。
「助けていただいてありがとうございます。」
名残惜しいが、羞恥心が限界なので彼女の手から逃れつつお礼を言う。
「うんうん、お礼をしっかり言えて偉いわね!相手に感謝の気持ちを伝えられるのはとっても大事なことよね。それじゃあ、自己紹介しましょうか。私はアストレア・ファミリアの団長、アリーゼ・ローヴェルよ!よろしくね。」
「僕はチェルシー・グラヴェルです。よろしくお願いします、アリーゼさん。」
大丈夫、言葉に詰まらず、ちゃんと自己紹介できた。
恥ずかしい姿は見せていないはず。
――――実際は顔を真っ赤にしていたのだが……
この人があのアストレア・ファミリアの団長さんなんだ。よく話を聞くけど、こんなに美人な人だったなんて…
「それでもう一度聞くけど、こんな時間に1人でどうしたの?迷子なら一緒についていてあげるわよ。」
――――どうしよう……なんて話したらいいんだ。さっきはお母さん達のことを考えただけで、具合が悪くなっちゃったけど、今なら大丈夫かも……それにアストレア・ファミリアの団長さんならちゃんと話を聞いくれるよね、多分。知り合って間もないアリーゼさんに自分の身の上話をしていいものかと考えていると、
「見つけましたよ、アリーゼ。もうすぐ夜のパトロールが始まる時間だというのに、こんなところで何をしているのですか。」
――――透き通ったようでどこか芯を感じる。彼女の声を聞いて、初めに思ったことはそんなことだった。
「あら、ごめんなさい、リュー。そういえば、もうそんな時間だったわね!この子と話すのに夢中になっていたわ。」
「いえ、少し心配しただけですので。それで、この子は?何か困ったことでも?」
アリーゼさんが、リューと呼ぶ人がこちらに目を向けてくる。思わず、息を飲んでしまった。彼女もアリーゼさんに負けず劣らずに綺麗だったから。
――――外套を羽織り、フードからたなびかせた金の地毛は美しく腰まで届いている。澄みきった空色の瞳は
「そろそろ日が暮れるっていうのに、この子が……あっ、チェルシーちゃんっていうんだけど。チェルシーちゃんが1人でいたから迷子とか大変じゃない?だから、家まで送り届けようとしてたのよ!」
「なるほど、わかりました。では、私はあなた達のことを仲間に伝えてきます。彼女のことは1人でも大丈夫ですね、アリーゼ。」
――――なんだか、とても気まずかった。いや、気まずいのは僕だけなんだろうけど。
「あのぅ、僕、男です。」
気まずいながらも訂正する。
「あら、ごめんなさい!こんなに可愛いお顔してるから勘違いしちゃった!てへっ」
「てへっ、じゃない!もっとちゃんと謝罪しなさい!あなたのせいで私まで彼に失礼なことをしてしまったではないですか!」
可愛く首を傾げてごまかすアリーゼさんにリューさんが叫ぶ。
「女性扱いしてしまって、本当に申し訳ありません。アリーゼには後で言って聞かせます。私はアストレア・ファミリアに所属しているリュー・リオンといいます。」
「僕はチェルシー・グラヴェルです。気にしないでください。それにアリーゼさんにはさっき助けていただいて感謝してます。あと、迷子じゃありません。家もすぐ近くなので1人で帰れます。」
嘘をついた。いや、迷子じゃないし家にも1人で帰れるから嘘では、ないか…この流れで母さん達のことを話すのはなんとなく違う気がして誤魔化してしまった。
「そう?でも、キミ、さっきはすごく具合が悪そうだったわ!心配だし送っていくわよ!リューも少しパトロールが遅れても大丈夫でしょ?」
「そうですね。パトロールも大切ですが、まずは目の前の人を救わなくては。アリーゼは彼について行ってください。私は仲間にこのことを伝えますので。」
――――どうしよう……このままだと家に連れ戻されちゃう。教会に行くことを伝えてもいいけど、母さん達の話しもしなくちゃいけないし。
「本当に大丈夫です。すでに助けていただいたのに、迷惑かけられません。お二人と話してりうちに体調も回復してきましたし。この後は、すぐ家に戻りますから。」
「うーん、わかったわ。そこまで言うなら仕方ないわね。いくら人通りがあるとはいえ、もうすぐ暗くなるから急いで帰りなさい。いいわね!」
「わかりました。助けていただいてありがとうございました。」
なんとかなった……助けてもらったのに誤魔化してしまったことに胸がチクチク痛む。そんな胸の痛みを遠ざけるように足早に歩いて2人から距離をとる。
「本当に1人で家に帰してよかったのですか?見たところまだ幼く、10才くらいに見えましたし、少し気になります。」
ファミリアで1番の末っ子が1人で歩いて行く彼を見ながら心配そうに話し始める。
「それに、もう日も暮れる時間に1人で何をしていたのか。今が暗黒期で、たとえ大人がいたって危険は少なくないというのに。」
「確かに、そうね…でも、あの子にも何か事情がありそうだったし。」
リューはあの子が精神的に不安定だった所を見ていない。そんな彼を見た後だから分かる。彼が何かを隠している、いや、自分達に気を遣っていることが。
「あの子を信じましょ。まだ小さいのに礼儀もちゃんとしてたし、きっと私の言うことも聞いてくれるはずよ!それじゃあ、皆のところに帰りましょ!遅くなって、
――――この少年と正義の眷属の邂逅が下界の運命を変える