2人しかいない阪神の日本一監督同士が、最後の別れを惜しんだ。岡田彰布オーナー付顧問(67)が5日、脳梗塞のため、3日に91歳で亡くなった吉田義男さん(日刊スポーツ客員評論家)の兵庫県内の自宅を弔問した。永遠の眠りについた吉田さんと1時間対面し、大粒の涙をこぼした。阪神監督として吉田さんは85年、岡田氏は23年に日本一を達成。愛弟子は育ててもらった感謝を込め、恩師を悼んだ。
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最後の別れだった。吉田さんの死去が報じられた一夜明け、兵庫県内の自宅を弔問に訪れたのは、阪神前監督でオーナー付顧問の岡田氏だった。この日は阪神キャンプ視察のため沖縄入りする日で、出発前の訪問。通夜と告別式に参列できないため、2人しかいない阪神の日本一監督同士、これが最後の対面になった。
「もう感謝しかないよね…」。座敷に置かれたベッド上の亡骸(なきがら)と向き合うと、ジッと立ち尽くし、眠っているかのような吉田さんの顔をのぞき込んだ。何かを話しかけているかのようで、師弟関係にあった2人だけの“無言の会話”が続いた。
走馬灯のように記憶がよみがえったのか、しばらくすると、もうこらえきれなかった。「ありがとうございました…」。岡田氏の目から涙があふれた。
現役時代はディフェンスの大切さを身をもってたたき込まれた。「野球をやってて『守りで攻めろ』と言われたのは、吉田さんが初めてでした」。
吉田さんが2度目の監督に就任した1985年(昭60)、外野で埋もれていた岡田氏を二塁にコンバートして生き返らせた。真弓を右翼、平田を遊撃に固定し、捕手に木戸を抜てき。センターラインを中心にした“吉田野球”は日本一になった。
岡田氏は2度目の監督に就いた23年、当時の成功体験を踏まえ、ショート中野を二塁にコンバートし、遊撃の木浪で二遊間を固定した。「当たり前のことを、当たり前に」といった吉田イズムを継承しながら頂点に上り詰めた。
吉田氏が岡田氏に厳しくもあったのは、監督としての“器”を見抜いていたからだ。グラウンドを離れても気に留める存在だった。だからこそ日本一を遂げた際は「素晴らしい優勝です。岡田は名将になりましたな」と手放しで喜んだ。
自宅をあとにする時、岡田氏はもう一度頭を下げた。「またゴルフや食事ができると思っていたのに…。かけがえのない人。ご恩は忘れません」。永遠の別れを惜しみ、沖縄に向かった。【寺尾博和】
◆吉田義男と岡田彰布 吉田監督が2度目の復帰となった85年から87年までの3年間、岡田を中軸に据えた。就任直後の85年には正二塁手の真弓を右翼にコンバートし、一塁や右翼を守っていた岡田を二塁に固定。岡田は35本塁打、101打点で21年ぶりリーグ優勝と球団初の日本一に貢献。ベストナインとダイヤモンドグラブ賞(現ゴールデングラブ賞)を受賞した。第3次吉田政権の98年には、現役を引退してオリックスの2軍助監督兼打撃コーチをしていた教え子の岡田を2軍打撃コーチで阪神に復帰させた。吉田は85年、岡田は23年に阪神監督として日本シリーズを制し、球団で2度しかない日本一に両者とも導いた。阪神での監督通算勝利数は岡田が1位の552勝で、吉田が3位の484勝。両者とも選手と監督の両方の立場から阪神を長年支えてきた。
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