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【『ムー』に掲載拒否された伝説のノンフィクション】「おじろく・おばさ」の真実

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〜2月19日 00:00

この原稿は当初『webムー』に掲載予定で執筆したものです。当初、担当編集からは「すごく読み応えのある内容で、おじろく・おばさの全貌がわかる決定版というべき素晴らしい内容」「年末年始の目玉として配信します」とまで絶賛されました。

ところが……。

年が変わっても、いっこうに掲載の気配がありません。そこで、連絡してみると担当編集が「○○さん(註:上の人)がノンフィクションの強烈な内容に尻込みしている」という理由で掲載見送りだと申し訳なさそうにいうのです。
天下の『ムー』から掲載拒否!!
編集からはめちゃくちゃ謝られたのですが、こちらとしては「オレ『ムー』に掲載断られたんです」としばらく楽しめそうな話のネタを提供していただき感謝です。
なので、今後も寄稿はさせて頂くのですが、一方でせっかく書いた原稿がお蔵入りではもったいない。
そこで、改めて手直しを加えてnoteで公開することとしました。
『ムー』が掲載を躊躇した「おじろく・おばさ」の真実とは——。


【おことわり】
 本稿は、昭和30年代までの南信州に存在した習俗「おじろく・おばさ」について、当時の文献や証言をもとに実態を明らかにしようと試みたものです。記事中には、現代の価値観からすれば不適切と思われる表現や考え方が含まれる資料からの引用が含まれています。これらは歴史的事実を正確に伝えるために原文のまま掲載していますが、決してその価値観を是認するものではありません。

なお、記事の一部を有料にしています。今後もこのようなテーマの取材・調査を続けていきたいと考えておりますので、よろしければ記事購入という形でご支援いただけますと幸いです。

<1> インターネットで語られる悲惨な「習俗」

睡眠薬を使わなければ話せなかった人々?

昭和30年代まで、長野県の山奥の村々に「おじろく・おばさ」と呼ばれる人たちがいた。彼らには、結婚が禁じられていた。そのために多くは童貞や処女のまま一生を終え、中には精神科医でさえコミュニケーションを取るのに睡眠薬を用いた、特殊な方法を使わなければならないほど人との関わりを絶っていたという。
この驚くべき習俗が広く知られるようになったのは2010年代に入ってからだ。ネット上の都市伝説系サイトやオカルトネタを扱うYouTubeチャンネルで、衝撃的な「風習」として繰り返し取り上げられるようになったためだ。
しかし、どのサイトやチャンネルも、同じ情報源からの引用を繰り返しているにすぎない。多くは「人として扱われなかった悲惨な人々」という一面的な描写に終始し、彼らが実際にどのような生活を送り、どのような思いを持っていたのかには触れようとしない。このステレオタイプな描写の向こう側には、もっと複雑な実態があるのではないか。そこで筆者は、この世に存在するほぼすべての資料を収集し、「おじろく・おばさ」の知られざる実態に迫ることにした。

精神科医・近藤廉治の衝撃的な報告

「おじろく・おばさ」について、最も多くのサイトが引用しているのは、精神科医・近藤廉治による「未分化社会のアウトサイダー」という論文だ。これは1964年、医学雑誌『精神医学』6巻6号に掲載されたものだ。
近藤は信州大学医学部を卒業後、開放病棟での治療を推進した進歩的な精神科医で、後に長野県上伊那郡南箕輪村に開放治療による精神科病院・南信病院を設立している。
彼が「おじろく・おばさ」の存在を知ったのは1961年のことだった。晩年に記した自伝によれば、偶然の機会に三人の「おじろく・おばさ」が当時もなお生存していることを知り、現地を訪れたという。
その調査を報告した「未分化社会のアウトサイダー」では、おじろく・おばさは、長野県下伊那郡天龍村に16世紀頃から伝わる習俗で、長男以外の兄弟姉妹は、養子に行くか嫁に行かない限り、世間との交際を禁じられ、村の祭りにもでることすら許されず、一生独身のまま実家で無報酬で働かなければならないというものだとし、1872年当時で人口2000人の村に190人もいたとしている。
そして、近藤は、当時僅かに残っていた彼らの調査を試みたが、コミュニケーションが困難なため精神科で用いられる、睡眠薬を投与して口を開かせるアミタール面接という手法と用いた調査を実施し、その結果を報告している。

インターネットでの拡散

近藤の論文は、発表当時はほとんど注目されることがなかった。しかし、21世紀に入り、思いがけない形で再び光が当てられることになる。
発端は2001年、精神科医で書評家としても知られる風野春樹のウェブサイト「サイコドクターあばれ旅」だった。このサイトは都市伝説として知られる「黄色い救急車」の検証など、独自の視点による考察で話題を呼んでいた。風野は2001年6月23日に投稿した記事で「おじろく、おばさ」について、こう解説している。

こうしたおじろく、おばさは結婚もせず、近所の人と交際することもなく、話しかけても返事もしないが、家族のためによく働いて不平も言わなかったという。怒ることも笑うこともなく、無愛想で趣味もない。おじろく、おばさ同士で交際することもなく、多くのも>のは童貞、処女で一生を終えたらしい。
(中略)
実際のおじろくへのインタビュー(普通に訊いても顔をそむけて答えてくれないので、睡眠薬を使ったアミタール面接を行ったのだそうだ)によれば、彼らは人と会うのも話しかけられるのも嫌い、楽しいことも辛いこともなく、世の中を嫌だと思ったこともなく、結婚したいとも思わず、希望もなく、不満もない。あるおじろくは、村を出たのは一生で一度だけ、徴兵検査で飯田まで出たとき(歩いて往復3日かかったという)だが、別に面白いことはなく、町へ行ってみようとも思わなかったという。
http://psychodoc.eek.jp/abare/ojiroku.html

風野の記事は、学術論文である近藤の文章を一般向けに噛み砕いて解説したものだった。特に「多くのものは童貞、処女で一生を終えたらしい」という刺激的な表現や、「睡眠薬を使ったアミタール面接」という不気味な調査方法への言及が、読者の興味を強く惹きつけた。その結果、「おじろく・おばさ」は過去の日本の寒村に存在した「怖ろしい風習」として、インターネット上でじわじわと広まっていくことになる。

<2> 「発見者」水野都沚生の記録


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地域の知の案内人

「おじろく・おばさ」についての情報は、長らく近藤の「未分化社会のアウトサイダー」という一つの論文だけを基に広まってきた。しかし近年、ネット上では新たな発見として、もう一つの重要な資料が注目を集めている。それが、水野都沚生が1962年に『國學院雑誌』1月号に発表した「置き忘られた制度の遺物『おじろく・おばサ』の調査と研究」である。

この水野の論文が特に重要なのは、彼が「おじろく・おばさ」たちと直接的な交流を持てたからだ。近藤は睡眠薬を使ったアミタール面接でしか調査できなかったと記しているが、水野は違った。彼は「おじろく・おばさ」たちと囲炉裏を囲んで、穏やかに話を聞くことができたという。この事実は、彼らが無口で人を避けるような存在だったとする、それまでのグロテスクなイメージを大きく覆すものだった。

では、記録を残した水野とは、どのような人物だったのだろうか。
1969年発行の『郷土の百年』第2集(南信州新聞社)によれば、水野は1910年、飯田市の生まれだった。國學院大學国文学科を卒業後、東京で『毎日新聞』や『主婦の友』の記者として活躍。戦時中の出征を経て、戦後は故郷の飯田に戻っている。調査当時は下伊那農業高校の教師を務める傍ら、飯田市松尾にある由緒ある古社、鳩ヶ嶺八幡宮の禰宜も兼任していることが『郷土の百年』には書かれている。昭和30年代の地方都市において、高校教師であり神社の禰宜でもあるという立場は、確かな知識と教養を持つ地域の名士である。

国会図書館のデータベースで水野の足跡を追ってみると、彼の旺盛な執筆活動が見えてくる。現在も続く郷土雑誌『伊那』では南信の文化や風習について数多くの論考を寄せ、他の雑誌でも世間話のような些細な習俗から、人々の口に上りにくい風習まで、幅広い民俗的な話題を精力的に記録していた。
昭和の時代、地方には水野のような「知の案内人」が各地にいた。大抵は、東京の私学で学んだ教養を持ちながら、故郷に戻って仕事の傍ら、誰も気にかけないような地域の言い伝えや風習を熱心に集めては記録する。そんな少し変わり者であった。そうした活動のを通じて「その土地のことなら、あの先生に聞け」と広く知られるようになっている人はあちこちにいた。水野もまた、そうした郷土の一風変わった記録者の一人だったのであろう。
こうした奇人変人系の記録者による「発見」には、しばしば共通したパターンがある。「たまたま聞いた話」や「誰かが教えてくれた」といった偶然のきっかけから調査が始まるのだ。

偶然の「発見」と『信濃毎日新聞』による報道


水野による「おじろく・おばさ」の調査も、まさにそんな偶然から始まっている。『信濃毎日新聞』1960年9月5日付朝刊によれば、きっかけは阿南高校(下伊那郡阿南町)での一場面だった。授業中、水野が古い家族制度について話していると、福島(下伊那郡天龍村)から通学していた生徒が「同じような人が、今でもうちの村にいます」と発言したという。この何気ない一言が、水野の探究心を刺激し、調査へと駆り立てることになったわけである。
当時の『信濃毎日新聞』は、この話題を異常な熱意で報じている。その背景には、時代の空気があった。
1957年、作家の深沢七郎の『楢山節考』が姥捨伝説を描いてベストセラーとなり、翌年には映画化される。さらに深沢は『東北の神武たち』で、東北の寒村に残る「長男しか結婚できない」という風習を描き、これも映画化されて大きな反響を呼んでいた。
人々は、これらの物語に描かれた習俗を「昔の話」として受け止めていた。ところが、それが我が県にも存在し、いまだに「生き残り」が存在してる。その重大性が記事の熱意に反映され、同紙は、1960年9月4日、5日の二日間にわたって詳細な記事を掲載している。

『信濃毎日新聞』の2回にわたる記事では、制度の概要を説明し、水野の調査の際に福島部落にある福島家から文政9年の宗門人別帳と明治の戸籍簿が見つかり、おじろく・おばさの実態が明らかになったことを説明。おじろく本人との一問一答も掲載している。
その上で、学術的な裏付けとして、民俗学者の宮本常一の談話を記している。生涯にわたって膨大なフィールドワークを行い、歴史には記されてこなかった庶民を記録してきた宮本の談話も衝撃的だ。

私の見聞したところでは、岩手県の北上山中、青森県の東側、秋田県奥羽山脈沿い、山形県新庄付近、福島県では会津盆地に濃厚にみられた。東北以外では長野県の伊那谷、岐阜県飛騨の白川、石川県白峯村の牛首部落、瀬戸内海の島々、大分県の山中などになごりがあり、また長崎県の対馬には、いまでも慣習そのものが徹底してみられる。

さらに宮本は、こうした習俗は農地が限られた貧しい地域に広く存在し、さらに深刻なことに、これらの男女に子供ができた場合、「殺すばあいがおおかったこともはっきりしている」とも語っている。

マスコミによる「発見」報道の過熱

この記事は社会に大きな衝撃を与えた。昭和30年代、高度経済成長期に入ったばかりの日本で、こうした前近代的な習俗が現存していたという事実は、多くの人々の関心を集めることになった。

その反響を、水野はこう記している。

東京放送(TBS)のアナウンサーがきて「おぢろく」について対談(9月3日放送)次いで『新週刊』『週刊実話』の記者も来訪、いずれも9月18日号で「おぢろく」をとりあげて「私の談」を載せました。
(『伊那』1962年10月号)

この時点で、おじろく・おばさがテレビでも取り上げられていたのは驚きだ。しかし、どういった内容だったかは、いまでは確認出来ない。また『新週刊』『週刊実話』は雑誌専門図書館である大宅壮一文庫でも欠号になっているため、今回は確認出来なかったことも記しておく。いずれにしても、この偶然の「発見」によって、おじろく・おばさは消滅前に、ある程度の記録が残ることになったのである。しかし、ここで筆者はいささかの疑問を感じた。
この制度が古い時代から行われてきたのであれば、まったく記録する人はいなかったのであろうか。
そこで、水野以前に、おじろく・おばさについて触れた文献はないかも調べて見ることにした。
『伊那』1960年7月号では、青山満という人物が「“おじろく”のこと」というコラムを書いている。これは『東北の神武たち』との関連で記されたものだ。同年の1960年10月号で水野は「県南に探る民俗二 残酷物語おじサ」を寄稿している。この冒頭で水野は、冒頭でこう記している。

七月号のおじろくを興味深く読ませて頂いた。青山さんはすらすらと紹介程度に書き流していられたが、教えを乞いたいと思った。かねがね資料を集めていたので、私も私なりに民俗としての見方で取り上げて見ることとする。

こうしてみると『信濃毎日新聞』ではセンセーショナルな「発見」であるかのように取り上げているが、地域ではなかば存在は常識だったともみることができる。

戦前から地域では知られていた、おじろく・おばさ

しかし、実際には、おじろく・おばさが、この時までまったく誰も知らない存在だったわけではない。
さらに、古い時代の文献を探してみたところ『南伊那農村誌』(山村書院1938年)という本を見つけた。これは地元の郷土史家たちが、土地の人々に生活を聞き書きしまとめたもので当初は伊那富小学校郷土研究會が発行していた雑誌『蕗原』に「下伊那探訪記」として連載されていたものである。この文献では、下伊那の集落ごとに風習や組織などを整理して掲載している。ここで、おじろく・おばさについては、いくつかの記録がある。以下、整理して記してみよう。

和田の部 「をぢぼうず―福の神」
「をぢぼうず」は家族ではあったが、待遇等は全く奉公人と大差なく、寝所も別にするという風であった。

和合の部 「「をぢ」「をば」のこと」
和合の「をぢ」は経済は別に持ちそれに兄の干渉は受けぬが、兄の家に居住し、衣食はそれから給され、一生正式の妻を娶らない。
「をぢ」が死亡すれば、その貯蓄は皆兄のものとなるので、「をぢ」のある家はそのおかげで裕福ともなった。
全然性生活を拒否されたという風ではなかった。相当ルーズな所もあって、適当なはけ口はあったのである。その多くはよばひによって、他のをば等と交渉を持つのであるが、極端な例では兄の嫁と関係しても兄は無頓着といった場合さへあるらしい。

山原の部
「をぢ坊主」として一生独身で暮し生家に居過すものもあったが、大抵は多少欠陥のある者でさう多くはない。今は全くない。二三男も昔は大体養子等に片付いたといふ。それに昔は三番目になると、大概はひねってしまって、大きくしなかったのでもあった。

現代の価値観では、なかなかにショッキングな記述だが、この本では話を採訪した日時と人物も記しており、信憑性は高いと思われる。
こうした詳細な記録が1938年の時点で既に存在していたにもかかわらず、なぜ1960年の「発見」まで広く知られることがなかったのだろうか。

その大きな理由は、記録の性格と時代背景にある。『南伊那農村誌』の元となった『蕗原』は、国会図書館にも所蔵がないほど流通範囲が限られた地域の研究誌だった(なお、後にまとめられた『南伊那農村誌』自体は国会図書館に所蔵されている)。この研究誌では「おじろく・おばさ」は、地域に存在する多くの習俗の一つとして淡々と記述されているにすぎない。1930年代当時の地方では、むしろこうした習俗は珍しいものではなく、記録すべき「異常な慣習」とは考えられていなかったのだろう。
これに対し、1960年の「発見」は、全く異なる文脈で報じられることになる。高度経済成長期に入り、近代化が進んだ日本社会において、「おじろく・おばさ」は「前近代的な風習の残存」として大きな注目を集めた。同じ事実が、わずか20年余りの間に、その受け止められ方を大きく変えたのである。

<3> 水野都沚生の研究による拡散


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広範に存在した、おじろく・おばさ

こうして「発見者」となった水野は、精力的におじろく・おばさに関する執筆活動を行っている。

水野は、おじろく・おばさの研究を進める中で各地の類似例も集めていたようで『伊那』1960年10月号に掲載された「県南に探る民俗 二」では、こう記している。

島根県八束郡の一部では長く独身でいる男をオジゴと呼んでいる地方があり、隠岐島では弟夫婦が兄の家に同居生活している者があり(分家しない)それをオジグラシと呼んでいる。

筆者は、この記事を書くにあたって全国のほかの地域での同様の制度についても史料調査を進めた。しかしながら、同様の制度があったことを示すものを発見するには至っていない。このような民間慣行は、記録に残りにくい性質のものだが、「おじろく・おばさ」については実在を示す史料が確認できており、その点で貴重な事例といえる。

水野の研究からは、この制度の実態がより明確に示されている。現在のネット上では「おじろく・おばさ」は数軒の閉鎖的な集落にのみ存在した特異な習俗のように語られることが多いが、実際にはもっと広範な習俗だったこともわかる。

発生、存続した地帯というのは、千代村・泰阜村・和田村・南和田村・木沢村・上村・八重河内村・平岡村・神原村・大下条村・下條村・和合村・旦開村・売木村という辺境の山村である。
(『伊那』1968年1月号)

最近では、YouTuberたちが天龍村神原を「おじろく・おばさ」ゆかりの地として訪れる様子を見かけるが(https://www.youtube.com/watch?v=tnK6UWknTjc)、これは実態の一部でしかない。実際にはより広い地域で見られた習俗だった。ただし、水野の研究によれば、その分布には興味深い特徴があったという。

売木村の隣村である平谷村、千代村の隣村龍江・上久堅の両村やその他の町村には、ぱったりと陰を潜めたように見当たらない点は、ひとつの注目点だと思う。このことは、往時、大きな川と、山の峠で交通が途絶していた山間僻地にのみ発生したものと考えられ、往還の激しかったと推定されるところには存在しなかったと断定できそうである。

中世的身分制度が残存した南信の山村

この制度が分布した南信の地理的特徴は、実に示唆的だ。この地域は天竜川が深い谷底を刻み、その周囲のわずかな平地に人々が暮らしを営んでいる。一見すると完全な隔絶地のようだが、実は天竜川を挟んで西に伊那街道、東に秋葉街道が通っており、主要な交通路は確保されていた。
しかし、これらの街道から一歩外れると様相は一変する。高くそびえる山々が往来を阻み、人や物資の流通は著しく制限される。水野が指摘するように、「おじろく・おばさ」の習俗は、まさにこうした街道から外れた土地に集中していた。

この地域の歴史を紐解くと、より深い背景が見えてくる。1772年に編纂された『熊谷家伝記』には、天龍村の坂部を開拓した熊谷家の歴史が記されている。南北朝の動乱期に、この地に逃れてきた武士たちが開拓を始めたという。記述の細部には疑問も残るが、南北朝以降、それまで無人だった山深い谷々が、僅かな入植者によって切り開かれていったという大筋は事実と考えられている。

注目すべきは、こうした中央から離れた地域では、江戸時代以降も中世的な身分制度が存続していたことだ。伊那地方の一部では江戸時代中期まで、「被官」と呼ばれる隷属農民の制度が続いていた。これは奴隷同然の身分から小作人に近いものまで、様々な形態があった。農業の生産性が低い時代にあって、経営を安定させるための必然的な制度だったのである。現代のような個人の人権という概念が存在しない時代、「おじろく・おばさ」もまた、こうした文脈の中で生まれたと考えられる。

そして、この制度が消滅していった理由も、交通の変化から理解できる。明治政府による支配は山深い地域にも及び、徴兵制度などを通じて外部との接触は避けられないものとなった。決定的だったのは1937年の三信鉄道(現在のJR飯田線)三河川合〜天竜峡間の開通である。外部との交通が確立したことで、地域内だけで生産を維持しなければならない時代は終わった。もはや、隷属的な制度によって生産性を維持する必要はなくなっていたのである。

情報源は、ほぼ2人の調査に限られている

このように「おじろく・おばさ」は地域の歴史的な文脈の中で生まれ、近代化とともに消滅していった制度だった。では、この制度はどのように記録され、そして現代に伝えられることになったのだろうか。
『信濃毎日新聞』の報道以降、おじろく・おばさの文献への登場は、ほぼ水野の研究成果のみによって成立している。『伊那』1968年1月号では、こんな記述がある。

最近、旧知の県立阿南病院院長・宇治正美博士から「信州大学医学部、神経科がおじろく・おばサの医学的究明に着手しているのでその人らの精神状態については、調査にあたった、あなたが文献を持っていることを教えて、あなたを訪ねるように連絡してある。その節はどうぞよろしく……」との挨拶を頂いた。
>私がおじろく・おばサを発掘し大沢和夫先生と、信濃毎日新聞、信越放送ともども現地に出向いたのは、もう7年も前のことである。当時信毎が特報し、SBCがテレビ放送し、NHKラジオ第二放送や、東京放送諸週刊誌が採りあげたので、それはさながら夜空を彩る花火のようにパッと開いたものだったが、一瞬の閃光のように忘れ去られてしまっていた。

この記述からは重要な事実が浮かび上がる。水野は「おじろく・おばさ」の存在を発見した後、積極的にその情報を広めようとしていたのだ。近藤廉治の「未分化社会のアウトサイダー」として知られる医学的研究も、実は水野が調査の段取りをつけ、資料を提供し、実現に導いたものだったと推測できる。
つまり水野は、単なる「発見者」ではなく、この習俗を広く知らしめようとした「宣伝マン」でもあったのだ。
1960年代、『旅』1963年1月号(新潮社)や『税経通信』1965年3月号(税務経理協会)など、多くの雑誌がこの話題を採り上げた。いずれも『信濃毎日新聞』の報道を受けて、水野の研究で示された南信の山間部での特異な家族制度を紹介するものだった。
また、1974年、水野はそれまでの研究をまとめた『秘境伊那谷物語:民俗拾遺集』(国書刊行会)を出版。ここでも「おじろく・おばサの話」として詳しく記している。
1970年代後半から80年代にかけて、いくつかの郷土史でも触れられているが、新しい発見は少ない。1979年の『新野民俗誌稿』では「オジロク・オジクソ」という呼称が記録されているものの詳細な説明はなく、1981年の『伊那街道ふるさとの道』も概要を記すのみだ。1985年の『坂部民俗誌稿』でも、聞き取り調査は行われていない。この頃には既に、水野が調査した「おじろく・おばさ」たちは皆世を去り、完全に過去の習俗となっていたのだろう。

2000年の『天龍村史 下巻』は、民俗の項で制度を紹介しているが、これも『秘境伊那谷物語』の要約に留まっている。その後、研究書での言及は途絶え、代わってインターネット上での言及が増加していく。2021年の『信州怪談』(竹書房)では怪談の一つとして取り上げられているが、本文中に近藤廉治の名があり、参考文献でも近藤の著書に触れていることから、インターネット経由の情報に基づいているものと思われる。

こうして見てくると、「おじろく・おばさ」をめぐる情報の流れには、二つの大きな転換点があったことがわかる。一つは1960年の水野による「発見」とその後の精力的な発信と浸透。もう一つは21世紀に入ってからのインターネットでの「再発見」である。しかし後者では、近藤の「未分化社会のアウトサイダー」のみが突出して注目され、水野らによって明らかにされた豊かな調査研究の蓄積は、ほとんど顧みられることがなくなってしまった。

「発見者」である水野は、一時多くの影響を与えたものの、その存在は現代では、ほぼ忘れ去られてしまったというわけである。

<4> おじろく・おばさの生活実態

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コミュニケーションに難があるというのは偏見

では、ここからは水野の残した記録から「おじろく・おばさ」の実像に迫ってみよう。
現在のネット上では、アミタール面接でしか話を聞けなかったという近藤の記述が一人歩きし、彼らがコミュニケーション不全の人々であったかのように語られている。
これが、風習のおどろおどろしさを伝える一つの要素になっている。

しかし、実像はそうではない。
前述の『信濃毎日新聞』の記事では福島に残る、おじろく・おばさは75歳の男性、75歳と73歳の兄弟。54歳の女性の合計4人だと記している。この取材も水野が采配したと思われるが、外部との関わりをまったく避けていたかのような印象とは裏腹に、温度差があるもののコミュニケーションは取れており、取材にも応じている。

そして、水野は存命していたおじろく・おばさに積極的に話を聞き、これまでの人生や現在の生活など踏み込んだことまで書き留めている。
 水野が寄稿した「県南に探る民俗二 残酷物語おじサ」では(『伊那』8巻10号)では、数年前に死去した、おじろくを紹介している。

 例えば、和合最後のおじろくであった、大石歌松とよばれる人物の記録は多い。その生活ぶりを、水野はこう記している。

この歌松さんは、大石家に作男のような立場で寄食し、営々として働いていた。オジサという身分は兄夫婦のかかりうどであることから、衣・食・住のすべてを世話になりながら家事労働の主力となって働いたもののようである。
(『伊那』1960年10月号)

水野は、「おじろく・おばさ」が家事を担う主婦よりも立場が下のあつかいであったことを指摘している。しかし、彼らの生活実態は、一般に想像されているような単純な隷属関係ではなかった。歌松さんの場合、戦後には「部落の外れの山麓に三方土壁で入り口三尺」という小屋を建て、独立した生活空間を確保していたという。
さらに興味深いことに、彼らは決して無給で家族に奉仕していたわけではなかった。水野は、歌松さんの経済状態についてこう記している。

若い頃、手内職や、日傭取賃取仕事でボツボツ稼ぎ溜めた虎の子を胴巻に入れて肌身は出さずもっていたが、田園で働いていた時腹巻きがほどけて、ずり落ちたので、中味のお金が濡れてしまった。(中略)死後、米を入れる甕の中にお金が蔵してあったともいう。

地域の伝統行事の担い手として

水野が、ここまで深く付き合って話を聞けたのは、なぜだろうか。水野は、この人物が、無形文化財に指定されている念仏踊りの重要なメンバーであったと記している。信濃毎日新聞編『信州の芸能』(1979年)にはこの風習が詳しく記されている。
この本によれば、この念仏踊りは同地の盆である7月13日の晩に行われるもの。美しい切り細工の灯籠を先頭に、カネや太鼓を持った念仏の衆が、熊野神社、和合の地を切り拓いたという宮下家(村では大屋と呼ぶ)、林松寺の順で念仏、和讃を唱えて踊る。踊りは、新盆を迎えた家も回りお盆の期間中毎日続く。山間に人家が散財する集落ゆえに、念仏の行列は夜を徹して続き、時には朝まで続くという。そうして盆が終わると、村をあげて盆踊りが行われるが、これも音のない独特のものだったという。カネや太鼓を鳴らして賑やかにしない盆踊りは全国で幾つかの存在する。一見奇妙に思えるこの無音の盆踊りだが、実は全国にいくつか類例があり、祖先の霊を祀るという本来の意味に照らせば、むしろ正統的な形式だとされている。

人為的にコミュニケーション能力を奪われて、一族の奴隷のように一生を過ごさなくてはならなかったイメージとは、かなり違う。実際に、才覚のある者は限られた手段の中で、現金収入を得ることもできたようだ。
 しかも、この歌松さんはコミュニケーション能力も低くはない。むしろ、高い。というのも、水野によれば、歌松さんは無形文化財に指定されている念仏踊りの重要なメンバーであったというのだ。

宗教的な芸能の担い手として認められていたことは、彼が地域社会で重要な役割を担っていたことを示している。1年に一度の重要な祭事で中心的な役割を果たすということは、決して社会から疎外されたアウトサイダーではなかったことの何よりの証左である。

この事例は、「おじろく・おばさ」についての一般的なイメージを大きく覆すものだ。彼らは決して、人為的にコミュニケーション能力を奪われ、一族の奴隷として生きることを強いられた存在とは限らなかった。才覚のある者は、限られた条件の中でも現金収入を得る方法を見出していた。

おじろく・おばさについてのもう一つの誤解に、写真撮影を極端に嫌がったという言説がある。多くの文献では、これを彼らが後天的にコミュニケーション不全にさせられていた証拠として取り上げている。ところが、実際にはこれも単に取材者が撮影を試みて断られたという程度の、ごく個人的な経験の記録に過ぎない。
確かに、いくつかの文献では背中を向けたおじろくの写真が掲載されているが、これが彼らの一般的な態度だったとは考えにくい。というのも、水野の記録には饒舌に語り、写真撮影にも快く応じた、おじろく・おばさの例も残されているからだ。この事実もまた、現在流布している非社会的で陰鬱な、おじろく・おばさ像が、実態とはかけ離れたものであることを示している。

性とは無縁ではなかった

こうしてみると、「おじろく・おばさ」とは、必ずしも結婚の機会を与えられなかったという点で確かに特殊な立場ではあったものの、れっきとした村の一員として認識され、生活を営んでいた人々だったことがわかる。つまり、この制度の本質は、奴隷制度というよりも、人口を制限するための結婚抑制の仕組みだったと考えるべきだろう。

ゆえに、人間として当然、おじろく・おばさにも性欲は存在していた。性生活については先に触れた『南伊那農村誌』の記述からもうかがい知ることができる。
水野は、この性の問題についても、かなり踏み込んで話を聞いている。『伊那』1960年10月号には、飯田の歓楽街に出かけた経験を持つおじろくの証言が記されている。一方で、生涯そうした経験を持たなかった者もいたという。このように、個人によって生活様式には大きな違いがあった。また、同誌に水野は以下のように記している。

古くはこれらのオジサやオバサは生の本能には衝動を覚えていて、それぞれひそかに通じ合い、妊娠すればおろしたり、間引いたりして、長屋の縁の下へ埋めて、闇から闇へ葬ったものだ。とか、オジロクでもはげしい者は、近くの後家とねんごろになったり、のろまな兄の妻を寝取ってしまったという者もあったということある。現にこの村にオバサの身分の婦人が居り、一人の子供を儲けている。
(『伊那』1960年10月号)

実は、おばさが子供を持つケースは決して珍しいことではなかったようだ。水野は調査当時に存命だったおばさについて、村人から興味深い証言を得ている。「おばさにありがちなことというべきか、娘を一人産んでいる。だいたい、その父親もわかっている」というのだ。
こうした状況について、水野は詳細な追及を避けているものの、さらに踏み込んだ証言も記録している。あるおじろくに、過去には「おじろく」と「おばさ」が「仲よくなる」ことも多かったのではないかと尋ねたところ、以下のような答えが返ってきたという。

「いた、いた、ヨーサ(晩)になると猪ふぁ出てくるように、ガサガサ、ガサガサ出歩いて騒がしいもんだったニョ、ウラーせなんだがナァ」

水野の調査では、さらに興味深い習俗も記録されている。阿南町の新野地方では、兄嫁がおじろくに「からだを与える」という慣習があったという。これは単なる不倫関係ではなく、一種の制度として機能していたようだ。この関係によって、おじろくは兄嫁に頭が上がらなくなり、結果として一家の秩序が保たれたとされている。

このような習俗は、実は人類学的には珍しいものではない。一妻多夫制は世界各地で確認されており、特に農地が限られ、生産力の低い地域で見られる。一人の女性と子供を一人の男性が養うことが難しい環境下では、このような制度が発生しやすいのだ。南信のこの地域でも、「おじろく・おばさ」の制度は、そうした適応の一形態として発展していったと考えられる。
ただし、この習俗は必ずしも安定的なものではなかった。水野の記録によれば、明治時代に悲劇的な事件も起きている。あるおじろくが兄を殺害し、兄嫁を妻にしてしまうという事件もあったという。

そもそも「おじろく・おばさ」とは、産児制限と一妻多夫の要素を併せ持つ、独特の家族制度だったとみるべきだろう。
昭和30年代には既にその始まりは定かではなかったが、江戸時代から明治にかけて形成されたとされている。この地域では分家することを「田分け」(タワけに通じる)と呼び、本家との共倒れを恐れて極端に嫌った。そのため、田畑を与えられない次男・三男は、山仕事や小作などで自分の腕を頼りに生きるしかなかった。
ただし、彼らは家族のための労働力として重宝され、「おじぼうず」「福の神」と呼ばれることもあった。「おじろく・おばさ」は、単なる差別や抑圧の制度ではなく、限られた農地と経済的制約の中で生まれた、一つの生存戦略だったとも見ることが出来るのだ。

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