1923年の関東大震災の後、朝鮮人による暴動や放火といったデマが広がり、殺傷事件が多発。政府や首長がその歴史を直視しない動きが広まる中、埼玉県本庄市と熊谷市、上里町では犠牲になった朝鮮人を追悼する式典が長年続いており、首長も出席してきました。吉田信解本庄市長(56)は「過ちを繰り返さないために、何が起きたかきちんと調べ、殺された人の無念に思いを寄せて追悼することは大事」と語ります。(聞き手・石原真樹)
吉田信解(よしだ・しんげ) 1967年9月、埼玉県本庄市出身。生家は市内の真言宗智山派の大正院で、2022年から住職。1995年に本庄市議選で初当選し、2005年から本庄市長。早稲田大では雄弁会に入会し、副幹事長を務めた。
◆本庄市の追悼行事は戦前からあった
―本庄市では毎年9月1日に追悼慰霊式を開き、市長も出席して追悼の言葉を述べています。
追悼行事がいつ始まったのかははっきりと分かりませんが戦前からあり、祖父の英覚(1995年に85歳で他界)は「だいぶ昔からやっていたよなあ」と話していました。いつから行政主催になったかも分かりません。私自身は気づいたときには祖父に連れられて追悼法要に行っていたという感じです。
市内の和尚さんがみんな集まって短いお経を上げて、市長が追悼文を読んで、指名焼香して線香を手向けて。参加する在日本大韓民国民団(民団)と在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)が対立し雰囲気が険悪だった時代もありますが、今はとても静謐(せいひつ)を保っていますし、「毎年やってくれてありがとう」とお礼の言葉をいただき、こちらもありがたいです。昨年は89人が参加しました。
慰霊式が開かれる長峰墓地は犠牲になった朝鮮の方が埋葬された場所。慰霊碑には歴史的な変遷があって、震災翌年に新聞記者が建立した碑は「鮮人の碑」とありましたが、差別用語だろうとなり、戦後に新しく作り替えて「慰霊碑」となりました。長峰墓地の一画を自分の寺も所有していることから、祖父が追悼の角塔婆を毎年書いており、今は私が書いています。
◆東京から群馬へ向かう中継点で起きた悲劇
―1923年、本庄市で何があったのでしょうか。
9月4日、当時の本庄警察署内に収容されていた朝鮮人が大勢の群衆に襲われ、殺されました。なぜ本庄で事件が起きたかというと、地理的な要因が影響していると思っています。
当時、東京方面から朝鮮の人たちがトラックで群馬方面に移送されてきていて、本庄はその中継点でした。埼玉から群馬に向かうには神流川を渡らなければならないのですが当時は鉄道の橋しかなく、渡しの船を使おうとしたけれど群馬側に拒否されたようです。
引き返さざるを得なくなり、一方で東京からは次々と被災した人たちが押し寄せてくる。本庄でどんどん人が膨れあがっていき、「朝鮮人が襲ってくる」「井戸に毒を入れた」などのデマも流れ、殺気立った人たちが警察署を襲ったのだと思います。
なぜ朝鮮人が警察署に収容されていたかというと、守るためだったと思うのです。ところが警察署は人が少なく多勢に無勢でした。これは伝聞ですが、当時の警察署長と町民の折り合いがあまり良くなかったそうで、警察に取り締まられ警察に反感を持っていた無頼の徒が混乱に乗じて首謀したという話も聞きました。
殺された人数は実ははっきりしなくて、当時の記録で八十数人、といわれています。多少前後するかもしれませんが結構大勢いたはずです。祖母が見ていますから。
◆裁判後、正気でいられなくなった首謀者たち
―祖母はどのようなことを語っていましたか。
祖母の久枝(2018年に106歳で他界)は本庄生まれで、関東大震災のときは小学5年生でした。学校帰りに本庄警察署の前を通りかかったら群衆がたくさん集まっていて「こっちに来るんじゃない!」と言われ、翌日だったか数日後だか、菰(こも)をかぶされた遺体が大八車で中山道を運ばれていくのを見たそうです。「あんなに恐ろしいことはなかった」と聞きました。
事件の首謀者たちは逮捕され裁判にかけられ、しばらくして出てきて「みんなおかしくなっちゃった」とも話していました。ある草相撲力士は気がふれたかして、うちの寺に押し込み強盗のように入ってきて、祖母の父親が取り押さえるという...
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