被爆80年 カープの歴史つなぐ 結成当時知る元選手の証言
- 2025年2月4日
原爆投下から5年後、焼け野原となった広島に誕生したのがプロ野球、カープでした。唯一の市民球団として広島の戦後復興のシンボルとなり、今も県民に愛され続けるカープ。球団の結成当時を知る、93歳の元選手がその原点を語ってくれました。
(NHK広島放送局記者 横山悠)
球団結成時を知る元選手 カープギャラリーを初訪問
広島市内で雪がちらついた1月上旬、長谷部稔さん(93)はカープの本拠地、マツダスタジアムを訪れました。長谷部さんは75年前のカープ結成1年目に入団し、キャッチャーとして7年間プレーしました。
この日はおととし球場にオープンしたギャラリーを初めて訪問し、在籍していた当時のユニフォームなど展示されている品々をじっくりと眺めていました。
長谷部稔さん
「現役のときはユニフォームのズボンが破れても縫って使っていた。こういうのはものすごく思い出が深いですよね」
原爆投下を目撃 野球を頑張る原動力に
1945年8月6日。
当時13歳の長谷部さんは、学徒動員で近くの工場で働いていましたがこの日は休みで、爆心地からおよそ10キロ離れた広島市安芸区の自宅にいました。
午前8時15分、突然、強い光を感じたといいます。
長谷部さん
「最初は家の奥まで光がきて、自分の家の前に爆弾が落ちたと思った。びっくりして家の外に出て川の土手のほうへ駆けていったら今度は爆風がきた。そのあと比治山の向こうにキノコ雲がぐわーっと上がるのを見ました」
長谷部さんはその後、通っていた学校がある市内の中心部にも入って凄惨な光景を見てきました。その経験が、野球を始めてカープで活躍する上での原動力になったといいます。
長谷部さん
「生きた人間でも、うじがわくもんですね。そうしたら今度は人がバタバタと死にだした。原爆によるむごいことを見てきた。野球で元気づけて不良にならないようにって、頑張ろうというのが最初だったですね」
結成直後から経営難 市民に支えられて…
カープは、原爆投下から5年後の1950年に誕生しました。
当時18歳の長谷部さんは、およそ100人が受験したテストをくぐり抜けて入団し、プロ野球選手としての第一歩を踏み出しました。
市民球団としてファンの熱烈な応援を受けたカープ。焼け野原となった広島の新たな希望になりましたが、親会社を持たないためすぐ経営難に陥りました。
長谷部さん
「カープに入るには入りましたが、金がないんじゃけんね。給料は遅配ばかりで私はまともにもらったことがなかった」
長谷部さんたち選手も、練習のあとに市内の商店街でカープグッズ1号と言われる鉛筆を販売して資金を稼ぎました。
そして解散の危機が迫る中、行われたのが今も語り継がれる「たる募金」でした。
戦後の貧しい時代でしたが、球場に設けられたたるに市民が入場料とは別にお金を次々と入れてくれました。地元の野球熱に支えられ球団の歴史をつなぐことができた光景を、長谷部さんは70年以上たった今も忘れられないといいます。
長谷部さん
「焼け野原になって自分たちのこともあるけど寄付をね、何かあってたるを置けば寄付金を入れてくれるんじゃけんね。いまだに感謝の恩は忘れませんね」
解散の危機を脱したカープは、その後、長い低迷期を乗り越えて1975年に初のリーグ優勝を達成。これまでに9回のリーグ優勝と3回の日本一を果たし、広島の人たちの心のよりどころとなってきました。
カープの歴史をつなぐ
長谷部さんは、現役を引退したあと、原爆の被害やカープ結成の歴史について語り継ぐ活動を続けてきましたが、いまは体調の影響もあり活動できなくなりました。
当時を語り継ぐ人がいなくなる中、球団はおととしオープンしたギャラリーで、昔のユニフォームや優勝トロフィーなどを展示してカープの歴史を伝えています。
長谷部さんも、現役時代に身につけていた、プロ野球選手の証し「選手章」を広島市に寄付し、去年、ギャラリーで展示されました。今後は大切に保管してきた現役時代の写真などを寄贈して当時を物語る資料として残してもらうことも検討しているということです。
カープ球団の担当者
「原爆投下からの復興という中で、カープはシンボルのひとつにもなっています。球団としても展示には意義があるものと思っています。偉大な方の功績をたたえつつ、新しい歴史をつむいでいきたいです」
長谷部さん
「私のできることと言えばやっぱり野球とかいろんな交流を広めていってという感じでした。とにかく平和いうことで、私は野球のほうで恩返しができると思って活動してきました。やりがいがありました。よかったと思っています」
長谷部さんを取材して
わたしは去年まで2年以上、カープの担当記者として球場で取材してきました。マツダスタジアムでは子どもからお年寄りまで多くのファンが選手のプレーに一喜一憂していますが、その熱意は75年前も変わらなかったことが今回の取材で感じられました。
広島で気兼ねなく野球を楽しめる日常は、長谷部さんなど多くの関係者が必死にバトンをつないだおかげでもあります。インタビューで“野球で恩返し”と繰り返した長谷部さん。球団の結成当時を知る人がいなくなる中、その歴史を知ることで改めて気づくこともあるのだと思いました。