25−4
コポコポという茶器からの注水の音が響いて、机の上にさり気なく置かれた遺物級のアイテムを取り、クライスさんは少し前から思案している表情だ。
「あの…お茶が入りました…よ」
「……あぁ。ありがとう」
と、一応の返事。
いえ、と断りを入れてから、そっと向かいに腰を下ろして、まだ何かを考えているクライスさんを盗み見る。
少し前、二人で家のドアを潜って、リビング・ダイニングな空間にある食卓の席に、誘(いざな)った私の視線は不意にピタリと縫い付けられた。
あの…一体、あれは…何———?
ダイニングテーブル上に放置された物体は、明らかに先ほどは…家を出るまでは確かにそこには存在しなかったもの、である。レックスさん……杖とか門とか色々面倒を見てくれて、食器も片付けられていたうえ、更に貴重な雰囲気の置き土産なアイテムまでも…?と。そそっとそちらの部屋を見遣って、おそらく痕跡もないのだろう、彼自身の生活の跡が綺麗さっぱり消えていることを、何となく心で察して私は静かにおし黙る。
ま…まぁ、確かに。異性との生活は、同棲と取られなくもない…から?
私と魔王(かれ)の関係は、やましい事の一片もない、清らかなものだった訳だが。
あのイシュでさえ呟いたのだ。何故、そちらの手を取ったのか、と。
それってつまり、よくよく思えば、見込みがないと思い込み、身近に居た知り合いの男に乗り換えた尻軽、感が……。
最も悲惨な末路を描き、サアッと顔が青ざめたことを、クライスさんはどんな風に解釈したのだろう。
表面がキラキラとして、ゆらゆらとするその球体は、地球儀よりもひと回り…いや、ふた回りほど小さいもので。近づいて目を凝らして見てみれば、歯車のような魔法陣やら、古代語やらがたゆたっており、いかにも貴重なアイテムです、と存在感を表していた。
釘付けになった私の姿を目の端で捕らえた彼が、ふとそれを持ち上げて、目の高さで零した言葉。
「……なるほど。これで飛んだのか。あれと違って…単体でも、転移する能力があるんだな」
思わず「え!?」となるこちらを見遣り、「オーズは大陸に二つと無い、とこぼしていたが。これは何処で手に入れたんだ?」と。クライスさんは純粋に、私の方に問うてくる。
「え…と、そのぅ…」
「うん」
「……ドルミール・レックスさんから頂きました…?」
や、置き土産な感じですけど、きっと、間違ってはいない筈……。
クライスさんは、ふとした顔で、あの男が?と、無言で語り。
その沈黙に耐えられなかった私は心で「やましくない!」と。
だから、全くやましくないし、ちゃんと説明できる筈です、と。スッと息を吸って言う。
「あ、あのっ。その、ですね。勇者様が、幼馴染さんと結婚する、ってニュースを聞いて…恐らく、心配だと、思うんですけど…心配したレックスさんが、気を使ってくれまして……」
俺がしてやれる事はあるか———?
と、雨の中に溶けた言葉に。
「その…つい、悲しくなって…誰もいない場所に行きたい、と」
相手が“誰”かも把握せぬまま、願ってしまった私の弱さを、クライスさんは静かに聞いて。
願いを聞いた———と、魔王(かれ)は言い、齎された現実は。
「そうしたら…その、こんな場所まで、連れてきてくれた訳なんですが…」
「彼はもう居ないのか?」
「えぇ…はい、そうみたいです、ね」
そして、そこからクライスさんの思案顔はしばらく続く。
音を立てぬようお茶をすすって、まだ何か考えているようだ、と。
先にリビングの日用雑貨を片付けてしまおうか。そう思って腰を浮かせて、クライスさんはこちらに戻る。
「あぁ、すまない。急がなくていい。あの男の話は後にしよう。先に自分の話を済ませる」
「あ…はい。では、お願いします」
「そうだな。どこから話そうか…」
「えっと…。では、リセルティアを出たところ、から?…あの、あの時の急用、って、その婚約のお話でした?」
私からの質問に、クライスさんはまず肯定を。
「あぁ。少し前、ダンジョンの帰りに、ライスがグランスルスの話をベルにしていただろう。それを思い出して欲しいんだが、職が勇者に転化して、家を出てから六年経った。その間ずっと…婚約だとか、そういう話がもし出たら、多分、呼び戻されるなりするのだろうと思っていたんだが。…そうじゃなくても初めての母からの便りだったから、もしかしたら、そんなくだらぬ用事ではなく…そう、父も戻ったというし、何か大変な話になっているのかもしれないと……」
だから、あの時はベルの申し出に思わず甘えてしまった、と。
少しだけ目を伏せて、クライスさんは後悔を語る。
「急いでグランスルスに戻れば、まぁ、気付ければ良かったんだが…母を取り巻く環境が、ややこしい事になっていたみたいでな」
「えっ?」
どんな風に?と込めれば、ばつが悪そうに苦笑して。
「邸宅(いえ)が他の貴族のものに、どうやらなっていたらしいんだ。恥ずかしい話だが、その事に全く気づかなかった。母曰く、困らなかったから、忙しいだろうこちらにわざわざ連絡しようとは思わなかった、という事らしいが」
勇者であった父が消え、息子の筈の俺が消え、図ったように高位貴族のダラスイェールという人物が、父が残した負債金というものを指摘して、グレイシスの邸宅の所有権を主張した。
「こんなボロボロの邸宅一つ、と。どこに価値を見出したのか?と、母は首をひねっていたが…簡単に済ませてしまえば、その一連の嫌がらせは、どうやら積年の愛憎という、そういう話だったらしい」
相手はとにかく母上の事を、困らせてやりたいと。邸宅(いえ)を取り上げた事に足らずに、父の負債金が残っていたから、息子をこちらが指定する令嬢と婚姻させて、持参金からその額を見繕うがよかろう、と。
ダラスイェールと浅からぬ縁を持つシフォレー家には、ちょうど、勇者に懸想した、行き遅れの娘があった。
「だが、とにかくその時点では全く事の運びが分からず、取り敢えず家に入って、言われるままに身支度をした。壁紙が褪せている事は気になっていたんだが…まさか、六年も放置されていたとは至らなくてだな。母に急かされるようにして、ダラスイェールの紋が入った馬車へと乗り込んだ」
窮屈だからと滅多にコルセットを着用しない、母が心なしか上等な服で着飾っていた訳で。合わせるように自分の服も新調されたもののようであり。そうした懸念がなかった訳ではないが、不意に、何故、今更、と。向かいの母の澄まし顔を見て、不意に、苛立ちが湧いてきた。
「縁談ならば断る———と、始めに断言したんだが」
そんな場面でクライスさんこそ驚く事を平気で言うので、ポカンと開いた私の口は、暫しそのまま硬直をする。
「母は得心したように、好きな娘ができたのか、と。まぁ…そんな事を言われたら、その…少し、意地が出て…。ベルの事を貴女に認めてもらえないなら、家名を捨てて市井に降りる、と。実際、俺のような男には、本気で貴族のフリをするなど、どうあがいても出来る筈がない。正直、これはいい機会だと、思ってしまったのは否めない」
再びばつが悪そうに、そっぽを向いたクライスさんだが。
開きっぱなしの口を合わせて、私もそっと俯いた。
お養母さんとの話は続いて、多分、さっきの流れのように、まぁ、そこから認めては貰えたんだろうなぁ…とは思うけど。
——この人、無自覚…無自覚だ……(// _ //)
と。
お養母さんに“好きな子”が…と、言われて否定しないのか。
そして、さりげに私の事を認めて貰えないなら云々と…。
そっ、そこまで割と本気で、すっ、好きに、なってくれたのか、と。
俯いた私の顔は、嬉しいやら困惑するやら、そして恥ずかしいやらで、きっと耳まで赤い事だろう。
「それで…そこから話し合いをして、ベルの事は無事に認めて貰えた。ただ、俺に好きな娘ができたのは分かったが、貴族同士の見合いという義理だけは果たして行けと。相手の娘が気に入らないなら、断って構わない。そう言われたら気乗りはしないが仕方ない、と。母と屋敷に踏み込んだんだ」
その…見合いの相手、リディアージュ嬢とは顔見知りだった。
クライスさんはどこか苦々しく、その名を呼んでお茶を飲む。
「長話をするつもりはなかったが、母が、こちらはこちらで話がある、と視線に込めてきたんでな。少しだけ庭に出て、貴女とは結婚できないと、直ぐ断りを入れたんだ」
「えっ…積もる話とか、少しくらいはあったんじゃ……?」
他人事なれど、いきなりそれ!?と。
瓦版には幼馴染と確と書かれていた筈だけど…か、顔見知りだったんでしょう??(゜ー゜; と、思うのはいらぬ慈悲なのか。
養父さまの負債金につけ込んだ話ではあるが、婚約話を持ちかけるほど…その、結婚したいな、くらいは。好意があったんじゃないか?とは、女じゃないと至らないのか。
せめて今日のお天気は…とか、導入部分が必要では…?と。
バッサリいったクライスさんは、どうやら無慈悲な体(てい)だったっぽい。
「積もる話…?特にはないな」
「……あ、そ、そうですか」
うん、と頷く彼はそこから、その後を思って皺を刻んだ。
「まぁ、それで…リディアージュ嬢には断りを入れたんだが、平手打ちか、罵声くらいは甘んじて聞く覚悟で、少し返事を待っていたら、だな。母屋に…急に雷が落ちた」
え、という音にもならない音を、口に合わせてハクりとやれば。
「……母に何かあったんじゃないかと、急いで母屋に戻った訳だが。なんというか…予期しなかった…その、身内の恥の話で…。……父が」
「ジルさん?」
「あぁ。その、父が。ダラスイェールの当主と、母をめぐって…その、だな。…あれは、修羅場というものか?」
「えっ、修羅場っ!?待っ…えぇと、つまり、えぇと、お養母さんの取り合い、みたいな…?」
「そうだ。只の人間相手に、奥義を、出そうとしていて、な」
「はっ!?」
おぉう…確かジルさんは、有名な剣聖のお弟子さん…そして、年齢的なものからも、結構上位の勇者である筈。それは、その、なんていうか…めちゃくちゃ、凄そうですねぇ……と。思い切り自分の顔に出たのだろう。クライスさんは神妙に、あぁ、と頷き、両手を握る。そして、重く吐き出すように。
「すんでのところで止めに入ったんだが…到底、威力を去なせるような段階ではなくてだな…」
相殺と、その場の者を守るだけの防御魔法。
今思えばそれが狙いか、と、思える父の防御魔法は。
「家屋と、街は、守られた。だが、その間に挟まれたダラスイェールの敷地一帯が、緑も残らぬ壊滅状態に……」
という、勇者なお方の投げやり炸裂。
「ダラスイェールの当主は呆然。リディアージュ嬢は見事に失神。使用人は恐怖に引きつり……父は、母に怒られ消沈」
無駄な…全く無駄な、事後処理が俺に降りかかる。
「えー…と。その…クライスさん、お疲れさま、でした……です?」
「言い訳でしかないんだが…それで、出発が遅れてしまった」
深くうなだれ、忌々しげに吐き出された彼の心根は、そんな言葉で済みよう筈がないのだろう悲惨だが。
「いっ、いえ!いいえ!クライスさんは悪くないです!私もちゃんと待つべきでした!!」
そんな…そんな状況になっていようとは思わずに。魔が差した私は弱く、噂を信じてしまった…と。
ブンブンと両手を降って、お互い間が悪かったんです、と。
ふと視線を合わせていらしたクライスさんは、曖昧に微笑。
「だが、せめてギルドを使って、便りくらいは出すべきだった」
これから先は、二度とベルを、不安にはさせないよう…。
「努力する。いつまでも貴女の夫でいられるように。待たせた事を、許してもらえるだろうか…?」
と。
掠れたような、力強い、明確な音が届いて。
「そんな…許すなんて、上からみたいな…。私も悪かったんですし…」
あの、でも、私からも言いたい。
キュッと、唇を噛んでから、誓う。
「あの…私も、努力します。いつまでも、貴方の妻でありたい。この先、嫌なところを見せてしまうかもしれないけれど……」
それでも一緒に居たかったから、私は世界を越えてきた……。
「それで…あの、貴方の仕事は、解っているんですけれど…できれば、できればっ、ささやかな願いみたいなものでしてっ…例えば、これからお仕事で離れることになったとしても、せめて、生きて、私の元に帰ってきて欲しい———ですっ」
今度こそ。
せめて、互いに、歳をとるまでは———。
最後の言葉こそ、危ういものもない訳で。だから胸の内というのに、なんとか秘めておいたのだけど。
その時、ポタッと水滴が落ち、胸元の布に楕円の染みを。
それを目にしたクライスさんは、ほんの少しだけ息をのむ。
そんな雰囲気に逆に困惑、そうじゃなくて、と思うけど。
それでも零れた水滴が、二つ目の楕円を刻むのだった。