23−12
その時、声を零した人は、意外にもクライスさんで。
「……ベル」
と呼ばれた名前の音に、どこか悲痛を感じ取る。
あの、とか。どうしました?とか。掛けたい言葉はあったのだけど。
「…クライスさん」
と言うのがやっと。それしか声が出なかった。
珍しくも焦燥を宿し、汗を浮かべる勇者な人は、ふと、東の門を見据えて、意を決して騎獣から降りた。
手綱を握ってこちらへ一歩。間の距離こそ一人分。
全身がガッとなりそうだったが、それをさせない真面目な空気に。どこか心がたじろいで、動く事もままならない。
「あの…」
と辛うじて出た音に。
「……急用が出来た。街を離れる」
その人の口は言い。
彼の胸中は知らないが、おそらくこちらを見かけた時から躊躇っていたのだろう。
手を———。
手綱を握っていない、左手をスッと伸ばして。
髪を———。
私の茶色の髪を、耳元より絡めて辿り。
驚いて見上げれば、見下ろす彼の瞳には、離れ難い愛執を…愛執の端を感じ取り。
するりと離れた指先と、東を向いた視線の先に、何ともいえない不安の種火が灯ってしまったものだから。
「あのっ、クライスさん!」
私は彼を呼び止めて。
もしかしたら。もしかしたなら。ここで言うべきなんじゃないか、と。
賭けに出るのは危うい気もする。
でも今、ここで言っておかなきゃ、一生、後悔しそうな予感。
ランクなんて関係無い。これは個人の“直感”で。
私は、ここで、賭けに出る。
だから、大事なことを言います———。
そう、意気を改めて、静かに息を吸い込んだ。
そんな私の様子に気付き、向かい合わせた彼は硬直。
まさか。まさか、言うのか…?と。目は口ほどに物をいう。
——あ、まずい。この流れだと、早く言わなきゃ止められる。
気付いた私は、即座に王手。
真っすぐに彼を見上げて。
「クライスさん。私は、貴方の事が大好きです。結婚を前提にお付き合いしてください…!」
と。
その時、吹き付けた旋風が、足元のスカートを揺らし。
まさに、こいつ言いやがった…!なクライスさんの驚愕の顔。見開かれた双眸に、一抹の絶望の色が宿る瞬間を目の当たりにして。だがここで負けてたまるか!と、畳み掛けるのは期日の延期だ。
「ひと月、ここで待ちます!」
貴方はきっと、急いでいるから。返事はすぐじゃなくていい。
だから、えぇと、その代わり。
「む…無理なら、来なくて、いい、ので…」
嘘。無理でも本当は、無理だ、っていう返事を聞きたい。
でも仕方ないじゃないか。一瞬でも絶望の端を目に留めてしまったのだから。
あぁ。この勝負の確率は、9割方負けだな…と。
思ってしまっても仕方ない。来ない、という返事であっても、仕方ないと思うんだ。
「えっと、あの、クライスさん。お忙しいところ仕事を増やして申し訳ないんですけど…」
空気を一転。なるべく変えて。
「どうぞ、道中気をつけて」
伝える言葉に笑顔を乗せる。
なるべく、何でもなかったような、そんな空気に無理矢理変えて。
あとを引きずらせちゃいけない。負担にさせちゃいけない、と。
でもまぁ、それを思うほど、悲痛になるのは仕方ない。
一般人と勇者の道が、掠っただけでも奇跡じゃないか。
運命だと思える人に、出会えただけ奇蹟じゃないか———。
「……ベル」
と彼は呟いて、知らずに溜まった目尻の涙を指で掬い取って行く。
ハッとした意識と同時に額にキスを落とされて。
「なるべく、早く戻る」
と、紡がれた声は深い音。
クライスさんは踵を返し、ひらりと騎獣に股がると、二度とこちらを振り向くことなく東通りに消えて行く。
全く姿が見えなくなって、零れかけた涙も消えた。
悲痛だった気持ちも一転。
——なななな、なんだ、今の反則……!!?
漸くたじろぐ私の頬は、街の藍色に負けないくらい真っ赤に染め上げられていた。
*.・*.・*.・*.・*.・*
勇者の嫁になりたくて。
異世界からの転生者、ベルリナ・ラコット18歳。
追いかけ始めて四年弱。紆余曲折を重ねた末に。
ついに愛しいあの人に、想いを伝えてしまったのです…!