渡辺美保さん

 

2000年10月16日22時10分頃、横浜市瀬谷区二ツ橋町の畑で近くに住む会社員の渡辺美保さん(22)の遺体が遺棄されているのを通行人が発見した。神奈川県警の調べによると、渡辺さんの首には鋭利な刃物で切りつけられた跡があったことから、殺人事件と見て、捜査を開始した。ところが、物証に乏しく捜査は難航した。渡辺さんの遺族が「犯人は何を思い、どこにいるのか。絶対に許さない」などと心情を綴った手記を新聞社に寄せるなどして情報提供を呼びかけていた。

事件発覚から3年が経過した2003年の春に民放テレビ局が特集番組で、超能力があるとされる外国人が作成した“容疑者の男”の似顔絵を公開した。すると、似顔絵と特徴が一部似ている男が2003年9月6日に、神奈川県警瀬谷署の特捜本部に名乗り出て「渡辺さんの帰宅を待ち伏せし、車でひいた後、ナイフで刺して殺害した」と供述したことから、特捜本部で裏付け捜査を開始した。容疑が固まったことから、2か月後の2003年11月5日に、男を殺人の容疑で逮捕した。  

 

穂積一

 

逮捕された男は事件現場近くに住む元スーパー従業員の穂積一(25)だった。穂積の供述によれば、2000年8月頃、偶然見かけた渡辺さんに一方的に好意を持ち、乱暴することが目的だったという。穂積は渡辺さんと中学の同級生だったが話をしたことはなかった。穂積は事件当日の午後8時50分頃、勤め先の横浜市南区の会社から徒歩で帰宅途中の渡辺さんを後ろから車で撥ね、乱暴しようとしたが、人が来たため諦め、所持したナイフで渡辺さんの首を刺して殺害し逃走した。

2004年2月19日の横浜地裁で開かれたこの事件の初公判において、穂積被告は取り調べ段階の犯行を認める供述から一転し、「やってません。そんなとこ(現場)にも行ってません」と無罪を訴えた。弁護人も「穂積被告の自首と供述は親の関心を引くためのものであり、虚偽であったことは明らかである」などと主張した。被告側は20回を超える公判のおいても一貫して無罪を主張し続けた。2004年12月に開かれた論告求刑では、検察側が穂積被告の無期懲役を求刑した。
   
渡辺美保さんの母である啓子さんは「守ってあげられなくてごめんね」と自分を責め、心的外傷後ストレス障害に苦しむようになった。夜は眠られず、食事ものどを通らない。体重は10キロ以上落ちた。「光のない砂漠の中にいるよう。親にとって我が子を奪われることがどれほど辛いか」と話していた。また、啓子さんは2004年の初夏頃から、リストカットを繰り返すようにもなった。自分では、カットした記憶すらない。主治医は「公判を傍聴した後にやってしまう」と証言した。

2005年3月28日、判決公判が開かれた。裁判長は自白の供述について「詳細かつ具体的で、臨場感にあふれている。被害者を車で衝突させた状況など、誘導で引き出されたものとは到底考えられない」とし、穂積被告に求刑通り無期懲役を言い渡した。穂積の極刑を望んできた家族は無期懲役に納得できず法廷で泣き崩れた。この日、主文の言い渡しが終わると、穂積は傍聴席の家族をにらみつけて「お前らが駅に迎えに行かなかったから娘は死んだんだよ!」と暴言を浴びせた。

 

渡辺啓子さん

 

啓子さんは2006年8月1日午後2時30分頃、横浜市瀬谷区の相鉄線三ツ境駅近くの踏切で普通電車(8両編成)に撥ねられて、搬送されたの病院で死亡した。遺書はなかったが、踏切のそばに靴がそろえられて置かれていたことなどから、神奈川県警は自殺と判断した。渡辺美保さんの父保さんは啓子さんの死亡の経緯について「自殺と思われるのは不本意。事件のショックで心療内科に通い、処方してもらった薬の副作用で正常な判断ができなかった結果だと思う」と述べている。

 

2006年8月29日、控訴審判の決公判が東京高裁であり、裁判長は横浜地裁の原審を支持し、同様に無期懲役を言い渡した。判決理由のなかで、裁判長は穂積被告が犯人しか知り得ない凶器など犯行の核心部分に関する事実を供述していることを指摘した上で「被告が犯人だということに合理的な疑いはない」と断じた。民事裁判で穂積に約5500万円の賠償が命じられたものの、1円も支払われていない。穂積の父親も「息子がやったのか分からない」と謝罪にも応じていない。

 

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