第九章20 『命の使い方』
光が漆黒を切り裂いて、一縷の望みが胸を沸かす。
すぐ目前に迫ったどうしようもないおしまいが、無理をすれば押しのけられる遠ざけられる逃れられるそれに感じられ、期待が心を沸き立てる。
でも、違う。あなたはそんなに強くない。
知っていたつもりだった。あなたが強くないことを。――本当に、つもりだった。
本当のことなんて何にも知らないで、ただ餌をねだる雛鳥みたいに、あなたがくれた一秒一秒を、その一秒のために何が費やされたのかも知らないで、啄ばんで。
「エミリア……?」
沸き立った心に冷たい水を浴びせられ、あなたの鼓動が強く跳ねる。
黒い、闇そのものみたいに黒いヴェールの向こうから、覗いてはいけない顔が覗いて。
長い睫毛が、綺麗な紫紺の瞳が、整った目鼻立ちが、桜色の薄い唇が、愛おしい君が。
ヴェールの向こう、最も憎らしいはずの顔が、最も愛おしいそれと同じで。
「――ッ」
躊躇いの瞬間、自由は奪われ、永遠の執着に魂さえ籠に入れられる。
それを拒むための手段は、光を纏った白い布切れとしてあなたの手にあって。
やめてと、これまでで一番強く叫んだ。
やめさせてと、これまでで一番強く縋った。
やめてあげてと、これまでで一番強く希った。
その全部が間に合わなくて、その全部が力及ばなくて、その全部が――、
「俺が、必ず――」
――お前を、救ってみせる。
その覚悟と誓いを胸にしたあなたを――ナツキ・スバルを、『わたし』が殺した。
△▼△▼△▼△
――衝撃に、空中にいたアルデバランの全身がひしゃげる。
大木に巻かれた鋼糸、それを拠り所にしていた体を打ち据えたのは、それこそこちらの頭部ほどもサイズ感のある強大な拳だった。
大岩めいた拳骨は、それに相応しい丸太のような腕に繋がっていて、腕はさらに分厚く重厚な筋肉の鎧を纏った胴体から伸びている。その胴体は戦場に似つかわしくない黒のスーツに包まれており、着ているのは巨大な豚面の男――、
「豚のようには泣き喚かんか」
低く唸るような声でつまらないジョークを口にし、豚面の男が豚鼻を鳴らす。
その二メートル近い上背と、二百キロを下らないだろう体重を併せ持ちながら、豚面は砲弾めいた跳躍力で中空のアルデバランに迫り、一撃を見舞った。
完全なる不意打ちで、即死しなかったのはただの奇跡――否、奇跡ではない。
「……それだと、腕は今晩の食卓行きですか?」
壮絶な一撃を浴びたアルデバランの横で、無感情な顔つきのヤエがこぼす。
その細められた彼女の瞳が見るのは、真っ直ぐに伸ばされた豚面の腕――アルデバランを殴りつけた拳が、その指先から賽の目状にばらけていくところだ。
空中に張り巡らされたヤエの鋼糸、それが豚面の拳撃を真正面から受け止め、その巨体の腕力が自らの腕を強靭な鋼糸によって切り刻んだのだ。
結果、アルデバランは即死を免れ、豚面は片腕を失った。
しかし――、
「そうだな。ねぎらいに部下共に喰わせるとしよう。偏った食事で脂身が多いがな」
「きゃ~、私、亜人の方々の族虐冗句大好き! ちなみに、脂身の多いお肉は煮るのがおススメです」
「ならば、貴様らから絞った血で煮てやろう」
片腕を失った豚面も、切り札を力ずくで突破されたヤエも、表面上は冷静に、その瞳には極限の殺意を宿しながら、上品にそれを交換する。
そうして、常人の頚木を外れたものたちのワンランク上の会話を続けてくれるのはいいが、ワンランク下のアルデバランの方はもはや限界だった。
ずるりと、大木に押し付けられる形で落ちずに済んでいた体が斜めに傾いて、そのまま支える力を発揮できずに自由落下に呑まれる。
即死は免れたものの、残念ながら頭が割れて、たぶん、兜の中に色々とこぼれ出てはいけないものがタプタプしている状況だ。
当然だが、そんな状態でここから先を続けることはできないから――、
「やぇ」
と、うまく発音できない唇でヤエを呼ぶ。
次の瞬間、地上に落ちていくアルデバランの首に絡んだ鋼糸がピンと張り――視界が大きく跳ねて、アルデバランの首と胴が泣き別れ。
万一の取りこぼしがないよう、アルデバランが自裁に失敗したとしても、ヤエが権能を発動するための安全弁として機能する仕組みだ。
「――――」
その効力を確かめるのと同時、くるくると跳ねた世界が回転するのを目の当たりにしながら、アルデバランは「ここからだ」と気を引き締める。
そして――、
「つぃだ」
× × ×
「――アル・ゴーア!!」
怒号めいた詠唱、それに続くのは赤々と膨れ上がった二つ目の太陽――と、そう見せかけたハリボテの火球、薄く広がった炎は金魚すくいの網のような脆さの代物だ。
よくよく見れば制御が甘く、ほんの三秒ほども維持させておけば、端から散り散りになって消えていきそうなぐらいの不出来な偽装――ただそれも、急造の戦場で目まぐるしく動く戦況の中に混ぜ込まれれば、立派な策として機能する。
「親父さん! あれは偽の――」
「うおあああああ!!」
結果、戻った直後だったこともあり、アルデバランの制止の声は間に合わない。
恐慌状態のハインケルが慌てて鋼糸を引っ張り、射出の準備が済まされていた倒木砲が次々と発射され、偽のアル・ゴーアへと飛び込んでいく。
止められなかった以上、それらが辿る結果は同じだ。――内心で舌打ちする。聞く耳を持たなかったハインケルにではなく、技術の未熟さを度胸でカバーしたラチンスにでもなく、しくじった自分に腹が立つ。
見た目に反してしょぼい爆発が起こったところで、カンニング済みのアルデバラン以外の二人にも敵の偽装工作の事実が伝わった。
後悔しても時すでに遅しと、突っ込んでくる敵の勢いを止められないまま、アルデバランはヤエの力を借り、先ほどと同じ鋼糸の檻で以て相手の突進を阻む。
ただし、今度は先ほどと同じにならないよう、木の上に逃れるのではなく、あえて後ろに飛んで、ハインケルの傍らに立って状況を変えた。
これで今度は――、
「――なんだ、豚のように鈍いな」
くる、と覚悟していた衝撃は、残酷なブラックユーモアと同時に真上から訪れた。強烈な一撃にぶん殴られ、アルデバランが頭から林の地面に埋められる。
立ち位置は変えた。警戒もしていた。それをなお、上から塗り潰してくる攻撃だった。
「な、ぁ!? どっから……ごぁっ!」
「豚のように喚くな。肉屋に並べるぞ」
ミサイルのような勢いで飛んできて、全身に鋼糸を浴びた傷を負いながら、血塗れの豚面が腕を振るい、為す術のないハインケルを背後の大木に叩き付ける。
地面に埋もれたアルデバランの方は、背骨がダメになったらしく、闘志が手足に全く伝わらない。飛び降りてきたヤエが豚面との衝突を始めたようだが、それを観戦するために首をもたげることさえできなかった。
ただ、検証すべき疑念が生じた。――空中にいても、地上にいても、豚面はどうやってか最初にアルデバランをぶん殴ってきた。
その情報だけを持って――、
「――次だ」
空中のヤエに解釈される前に、アルデバランは自ら毒を食んだ。
猛烈で膨大な致死性の熱が、アルデバランを喉から内臓から焼き尽くして――、
× × ×
「――アル・ゴーア!!」
「うおあああああ!!」
偽の太陽に怯え、大木の形をした無意味な抵抗が飛んでいくのを横目に、アルデバランは素早く周囲を見回し、空中でも地上でもない次なる退避場所を探した。
検証が、必要だ。――なけなしの最善を、手放さないために。
△▼△▼△▼△
――七十三回。
偽物のアル・ゴーアが空に上がるところから再開されるマトリクス、これを様々な角度から検証してわかったのは、たとえアルデバランがどこへ逃げようと身を隠そうと、豚面の豪腕は毎回確実にアルデバランをすり潰しにやってくるということだ。
つまり――、
「オレの居所が筒抜けになってやがる」
ヤエの傍だろうとハインケルの傍だろうと、地上だろうと空中だろうと木陰だろうと戦場から距離を置こうと、豚面の拳からアルデバランは逃げられない。
片腕を失う覚悟の拳打は、ヤエの鋼糸術を以てしても防ぎ切るのは困難だ。――無論、初撃をしのぐだけなら、ヤエの鋼糸とアルデバランの魔法の合わせ技で可能だろう。
だが、それで一発だけしのいでも、腕はもう一本あるし、なんなら足も二本ある。そして、四肢をどれだけ失っても相手を仕留めるという気概が豚面にはあった。
痛みも喪失も、あの豚面の足を止める理由にならない。
かといって、何者なのかと少しでも情報を得るために口を割らせようとしても――、
「――ぴいぴいと、子豚のように喚くな」
その一言で粉砕され、一切聞く耳を持たない。
アルデバランの経験上、自分のやることを決め切り、頑としてそれを動かさない覚悟を固めてしまった相手は厄介だ。
こういう輩には、アルデバランの試行錯誤の意味がなくなる。何と引き換えにしてもこちらを殺す、そう決めている輩は何を引き換えにしてもこちらを殺すからだ。
故に、状況を大きく変えるには、大きく変えるための切っ掛けがいる。
「まず、どうやってオレの居所を押さえてる?」
アルデバランを執拗に付け狙い、確実に仕留める何らかの手が打たれている。
そもそも論として、『神龍』まで陽動に使ったにも拘らず、こうしてアルデバランたちが林の中で追い立てられていることが不自然なのだ。
今ここで、この包囲網を完成させた方法を暴かなくては、たとえ豚面を躱し、フェルトたちを退けたとしても、第二第三の矢が放たれ、七日間を浪費する。
そうならないために――、
「――なんだ、豚のように鈍いな」
お馴染みの豚面のつまらないジョークが拳撃と共に訪れ、今回はラチンスを肉の盾にしようとしたアルデバランを頚椎がへし折られた。
余談だが、巻き添えを喰らったラチンスも散々な目に遭っていたのが、意識が途絶する寸前の目の端を掠めていってい――、
× × ×
「――アル・ゴーア!!」
「うおあああああ!!」
空に偽物の大魔法が浮かび上がり、恐慌状態のハインケルが先走る。
もはや見慣れた火球の爆発光を目の端に留めながら、アルデバランはハインケルの暴走に呆れ顔のヤエを呼びつけ、ラチンスたちを誘い込む檻とは別の糸を張らせた。
新たな鋼糸の発射台、これまで散々倒木を飛ばしてきたそれで次に飛ばすのは――、
「引けぇ!!」
目を白黒させ、思考停止状態に陥ったハインケルが言われるがままに糸を引く。その非凡な腕力に推進力を得て、空へ放物線を描くのはアルデバランとヤエの二人だ。
猛然と、風と重力から解き放たれる感覚を味わいながら、片手でヤエを抱いたアルデバランが林の木々の頭を飛び越え、ラチンスたちのくる戦場を離脱する。
一人、その場に残されるハインケルは、雪崩れ込んでくるラチンスたちにもみくちゃにされるだろうが、今回は確かめたいことを確かめるための捨て回だ。
この検証中は、ハインケルの尊い犠牲に目をつむる。
「舌、噛まないでください、ね~っ!」
罪悪感ごと置き去りにしたハインケルを尻目に、腕の中のヤエがそう腕を振るう。
彼女の細い両手、そのさらに細い五指の付け根には無装飾の指輪が嵌まっていて、目を凝らしてもほとんど見えない極細の鋼の糸はそこから伸びている。
卓越した技量の持ち主として知られるシノビ、その中でもまともに習得できたものが彼女だけという鋼糸術――それを十全に操り、ヤエは飛んでいく先々の木々に糸をかけ、放物線を描く勢いそのままにターザンロープの要領でどんどん距離を稼ぐ。
ただし――、
「――っ」
アルデバランとヤエが全身をスイングさせて突っ切るのは、煙によって誘導された逃走路――すなわち、今も容赦なく白煙が立ち込めている一帯だ。
鋼糸を用いた強引な突破で、アルデバランたちは追い立てられた白煙の逃走ルートを逆走し、検証を重ねた末の最終確認のために飛んでいく。
ただ、地上を走るのとは比べ物にならない速度と距離を稼げても、呼吸するチャンスはスイングの高さの頂点、林の頭から煙の外に抜け出せた瞬間のみだ。
それも、進めば進むほどに難しくなり、濃さと高さを増していく煙に、肺を、眼球を、粘膜を、手心のない苦しみが侵し始める。
この調子で無闇やたらに飛び回れば、超人であるヤエはともかく、十人並みのスペックしか持ち合わせていないアルデバランはすぐに煙にやられる。
故に、行く先を慎重に見極めなければならないが――、
「――北西だ」
鋼糸を伸ばし、スイングするヤエの耳元に口を寄せ、そう指示する。
目標は北西、間違いない。――もうすでに、それ以外の方角は確かめたあとだからだ。
最後の最後まで当たりが引けないあたり、どこまでも運に見放されている。生まれてから一度も、運に恵まれていると思ったことなどないが。
「……いや、一回だけあった」
――彼女と巡り合ったことだけは、間違いなくアルデバランの幸運だった。結局は失うことになった今も、出会ったことを間違いだったなんて思わない。
「――ッ」
胸中に湧き上がる激情を堪え、強く歯を噛んだ瞬間に状況が変わる。
スイングで白煙を突き破り、林の頭から飛び出した瞬間、中空にあるアルデバランとヤエを目掛けて、煙の外から猛烈な勢いで投石が飛来する。
単なる飛礫、そう馬鹿にできない威力のそれが雨あられと迫り、アルデバランはとっさに土の壁を作ると、それで第一波を強引に突破した。
だが、そのあとも飛礫は続くだろう。だからその前に、切り離しだ。
「――アル様!!」
ヤエの高い声が兜の中で反響し、鼓膜の痺れを感じるアルデバランが空中で彼女との結び付きを失い、高々と空へ放り出される。
スイングの最高到達点、そこからさらに向こうへヤエに投げ飛ばされたのだ。
「おおおおお――っ!!」
吠えながら、飛んでいく体の前面を土の壁で覆い、飛礫の歓迎に頭から飛び込む。
安定性を欠いた上、重量的に分厚く作ることもできなかった土壁は脆く、浴びる飛礫に対して毛布を被ったぐらいの効果でしか守ってくれない。
だが、それでも、アルデバランは白煙を突き抜けて、再び林の外へ出た。
一番最初の宣戦布告を受け、まんまとグラシスの一撃を浴びて姉の敵討ちを果たされたあの平野へと。
そして、そこではアルデバランの期待通り――、
「――単身で旗頭を押さえに出たか。そりゃ、下から数えた方がいい下策じゃろう」
眼下、白煙から飛び出したアルデバランを見上げ、禿頭の老巨人がそう言った。――その太く長い巨人の腕に、複数の『対話鏡』を装着した籠手を嵌めた人物が。
それを見て、ピンとくる。――全ての罠は、あの老巨人が仕組んだものなのだと。
「あんたがブレーンかよ……!」
見た目とポジションのイメージに落差がありすぎて、想像だにしていなかった。
あれだけチンピラ然とした見た目のラチンス、彼が作戦参謀と聞かされた方がまだ納得がいく人選。普通、巨人族はそのフィジカルを活かした前線担当だろう。それが頭脳労働担当――エッゾもそうだが、小人族と巨人族がそれぞれそうなのは出来過ぎだ。
そんな益体のない悪態で頭の中を溢れ返させ、アルデバランは気付く。
「フェルト嬢ちゃんが――」
平野のどこにも見当たらない。――これも、アルデバランには痛手だ。
当然だが、この戦いを終わらせるのに五百人の敵を全滅させるというのは現実的とは言えない。だから、実現可能な目標として、フェルトの身柄の確保は常にアルデバランの頭の中にあった。それを、まんまと相手方に封じられている。
当たり前だが、こちらの一番わかりやすい勝利条件は、向こうにとっては一番わかりやすい敗北条件なのだ。憎らしいが、フェルトを下げるのは理に適っている。
「クソ」
アルデバランの勝利は揺るがない。確定している。
だからあとは、勝ち方を探すだけなのに。
「お前、余所見なんかしてんじゃねえぞ!!」
「――ッ!」
勝利条件の更新に頭を使った刹那、その頭を真上からの衝撃が突き抜けた。
聞こえた声は太いが、かけられた言葉はお馴染みの豚面ジョークではなかった。見ればそれは、白煙より高みにあるアルデバランの脇に飛び上がり、組んだ両手で鉄槌を叩き込んできた大柄のチンピラ――ガストンの一発だった。
「マジ、か……」
間違いなく、『流法』を修めた相手の攻撃にアルデバランは苦鳴をこぼす。
『流法』は並大抵の修練では身につかない、一流の戦士となれるかの登竜門だ。それを操る脅威の追加に、アルデバランは舐めてかかった相手の戦力を修正する。
修正しながら、その一発で地上に叩き落とされた。
「が、ぐおぁぁ……ッ」
とっさに受け身を取るのに失敗して、下手な突き方をした右腕が肘で折れた。折れた骨が肉と皮を突き破る無駄なダメージに悶絶し、アルデバランは地面に兜を擦り付ける。
痛い、痛い、痛い痛い痛い痛い痛い、痛い、痛いが、見たいものは、見た。
「ここからは、オレと、あんたの、知恵比べだ……っ」
噛みしめた歯を割れるほどに軋らせ、立ち込める煙に肺を侵されて苦しみが増大する感覚の前に、慣れ親しんだ動作で毒の薬包を舌で開いた。
あまりに煙が濃く、咳き込んで危うく毒を吐き出しかねない。まさか、そこまであの老巨人の狙いだとは思わないが、悪い出目が出すぎるのが問題だ。
この悪い流れを断ち切らなくてはならない。その上で、どこかにあるはずの勝ち筋を探し、探し、探し探し探し探しさがしさがしさがさがさがさがさささがが――ぁ。
△▼△▼△▼△
「――もうパイロ樹の追加はせんでいい。これ以上は相手に乗じられる恐れがある。儂らの策に少し物足りんぐらいでちょうどいい」
煙で追い立てる作戦の切り上げを指示し、バルガ・クロムウェル――否、今はロム爺と呼ばれている『亜人連合』の元大参謀は、その老いた頭を全霊で回転させる。
死亡したプリシラ・バーリエル、その騎士だった通称『兜野郎』の包囲網は完成し、あとはじっくりと相手を釣り上げるだけ。だが、油断は禁物だ。
相手は『神龍』ボルカニカと『嫉妬の魔女』を利用し、『剣聖』ラインハルト・ヴァン・アストレアを封殺する術を講じてきた。その神算鬼謀には驚嘆を禁じ得ない。
もっとも、そうした危険で狡猾な『敵』の存在は、ロム爺の望むところだった。
非常に好戦的で荒々しい性質の持ち主が多い巨人族、その本能が血沸き肉躍る戦いを求めている――なんて馬鹿げた理由ではない。
欲しかったのは、王国を揺るがす危難と、その存在を排除する名誉だ。
――フェルトが王選を勝ち残るにあたり、『剣聖』の存在を抜きにした名声が欲しい。
水門都市プリステラで、魔女教による大災害を王選候補者たちが退けた出来事は記憶に新しいが、あれは五人の候補者が全員一律で株を上げた戦果だ。
王選における相対的な評価は変わらない。だから、フェルト単独の功績がいる。
王選どころか、世界を揺るがしかねない兜野郎の行いは、その功績に十分だ。
「無論、フェルトはそんなことは考えておらんじゃろうがな」
あくまで、フェルトが兜野郎を相手するために立ったのは、そうした打算含みの長期的な目線ではなく、目前に迫る危難に対し、自分が抗える力を持っていたことと、こうした状況で一番に切り込む義務を負わされた一の騎士のためだ。
故に、この状況を後々のために利用しようと目論むのは、図体のでかさに反して姑息な自分や、黒社会を支配する汚れ切った大人たちだけでいい。
『地竜の都』フランダースで名高い三大組織、『天秤』と『華獄園』、それに『黒銀貨』の荒くれ者たちを利用し、フェルトに冠を被せるための戦果を獲得してみせる。
――当初、ロム爺はフェルトが王選に参加することにも、ルグニカ王国という大きなものの芯に関わることにも、断固として反対の立場だった。
フェルトの出生と、その身に流れる血の宿業を知るロム爺からすれば当然のことだ。
しかし一方で、ロム爺はフェルトと王都に留まり続けた。その気になれば、物心のつく前のフェルトを連れ、王都から遠く離れた片田舎で暮らす選択肢もあったのだ。
にも拘らず、ロム爺はそうはしなかった。それはおそらく、心のどこかで予感があったのだと思う。――避けられない大きなうねりが、いずれ自分たちに追いつく、と。
そのとき、自分がフェルトの傍にいられれば、無駄に大きな体を目一杯使って、盾でも鎧でも何の役目でも果たしてやろう。
だが、そうできない可能性も十分ある。自分も老いた。今は差し迫った衰えこそ感じていないが、この先は巨人族だろうといつお迎えがきてもおかしくはない。
だからこそ、必要なのだ。フェルト――可愛い孫が、永劫に守られる確信が。
その約束手形がこの王国の頂だというなら、フェルトに王冠を被らせる。
そのために、二度と振るうまいと誓っていた采配を再び振るうことも躊躇わない。
「昔と比べれば、ずいぶんと機会は減ったが……いまだに、悪夢が儂を手放さん」
もう半世紀近い時間が流れ、『亜人戦争』も遠い彼方の記憶だ。
それでも、その長い長い時間の中で、ロム爺の中では沸々と鍋にかけられ続けていた後悔の残り火がある。日の目を見る機会を得たと、その鍋の蓋が開く。
あのときの、愚かなバルガ・クロムウェルでは足りなかった。――その、愚かさを時間で補い、愚鈍さこそ変わらぬままに、ロム爺は知恵を巡らせる。
すなわち――、
「ここからは、儂と兜野郎との知恵比べというわけじゃな」
△▼△▼△▼△
「――糸、だとぉ?」
林に飛び込んだ途端、その全身を極細の鋼糸に搦め捕られて拘束されたラチンス、彼が悔しげにそうこぼすのを、アルデバランは手の届く位置で聞いていた。
あえて相手に姿を晒し、自分目掛けて敵が殺到するよう誘導し、罠にかけた形だ。
ヤエの鋼糸術により、拘束される敵の数は五十二人。
すでに人数まで数え終わるぐらい付き合った敵だが、もちろん、ヤエは腕力で彼らを押さえつけているわけではない。
「見ての通りの細腕のヤエちゃんですよ~? 周りの木だったり障害物だったり、本人たち同士の体だったりを支点にして、地面に足のついたまま吊ってるんです」
と、ヤエからは種明かしを受けたものの、その骨子の部分は聞いてもわからなかった。
ともかく、幾重にも絡みついた鋼糸に囚われたラチンスたちは、ヤエの意思なしでそこから逃れることはほとんど不可能と、それだけわかれば上等。
その上でアルデバランは、標的を目の前にして動けずにいるラチンスの四白眼に睨まれながら、有無を言わさず彼の服に手をかけ、懐をまさぐった。
「な、なんだ、テメエ!? オレにそんな趣味はねえぞ……!」
「わ~お、アル様ったら大胆! 道理でヤエちゃんがいくら誘ってもノリが悪いと思ったんです。納得と同時に女のプライドがめきめき回復……」
「ふざけてんじゃねぇ! 鏡だ! 鏡を探せ! 誰かが持ってる……親父さんもだ!」
もがいて逃れようとするラチンスを押さえつけ、アルデバランはヤエとハインケルにそう怒鳴ると、動けない相手の持ち物を探り、『対話鏡』を探し出そうとする。
――情報伝達の速さと正確さは、戦争の在り方を変えた。
そんな話は古今東西のあらゆるフィクションで使い古されたものだが、ぼんやりと字面でしか受け止めていなかった概念に殴られ、ようやくアルデバランも実感する。
ブレーン役の老巨人は、いくつもの『対話鏡』を嵌めた籠手を用意していた。
あれで老巨人は陣営の司令塔となり、リアルタイムで情報を交信することで、五百人を意のままに動かしていたのだ。あの調子でアルデバランの居場所や味方の数を常に共有され続ければ、こちらが息つく暇など二度と与えられないだろう。
だから、各部隊の所有する『対話鏡』は確実に割らなくてはならない。
そのために――、
「「「――あった!」」」
指先に求めた感触を見つけ、引っ張り出したそれを掲げてアルデバランが喝采――が、その喜びは、ほとんど同時に上がった二人の声に塗り潰される。
「あ?」とアルデバランが振り返ると、ラチンスをまさぐっていたこちらとは別に、他の荒くれ者の身体検査をしていたヤエとハインケルも目を丸くしていた。
――二人とも、その手に小さな鏡を持っていて。
「対話鏡は、複製できる『ミーティア』だが、それでもコストが馬鹿高い」
この部隊の指揮官だろうラチンスが持つのはわかる。
指揮官に通信までは任せまいと、補佐役が持っているのもわかる。だが、さらに他のものまで持たされているのは意味がわからない。
いくら何でも、『対話鏡』を戦力の大部分に持たせることは不可能のはずだ。
つまり、これは――、
「――ダミー、だとぉ?」
「バーカ」
唖然としたアルデバランの呟きに、舌を出したラチンスの悪態が重なった。
その長い舌先で揺れる彩環を目の当たりにし、アルデバランが反射的に奥歯の裏に仕込んだ毒の薬包を舌で解く。――瞬間だ。
「――なんだ、豚のように鈍いな」
耳にタコができるほど聞いたジョークが拳撃と共に届き、衝撃と猛毒のどちらが自分の命脈を断ったのか、アルデバランには区別がつかなかった。
ただ、心中で思ったことは豚面への悪態ではなく――、
「クソジジイ」
手強いどころか、無理筋を引いてくる敵への称賛にしかならない悪罵だった。
△▼△▼△▼△
「――糸、だとぉ?」
アル・ゴーアを偽装したゴーア、それによる引っ掛けが成功し、倒木砲の被害を最小限に敵中へ突っ込んだラチンスは、自分の動きを封じたものの正体が、ほとんど目視することもできないほど極細の糸だと気付いて驚愕を隠せなかった。
これがまだ、自分だけが捕まったなら無理やり納得もできる。
だが、動きを封じられたのはラチンスだけでなく、一緒に林に飛び込んできた五十人の荒くれ者たちもまとめてなのだ。
これを実現しようとしたなら、林中にどんな幾何学的な糸の檻を作り上げる必要があるか、頭の中で再現しようとして断念する。そのぐらい、規格外の出来事だ。
だが、ラチンスをさらに驚愕させたのは、糸でこちらを括った女よりも――、
「――悪ぃが、割らせてもらうぜ」
そう言って、荒くれ者の一人――鏡役に選ばれた男の懐を探って、引っ張り出した『対話鏡』を足下に落とし、あっさりと踏み割った兜野郎の行動だった。
「――ッ、ざっけんな」
思わず、絞り出すような怒りが口からこぼれ、ラチンスを締め上げる糸の食い込み方が一段深くなる。それは抗った結果というより、悪態をついたことへの、糸の繰り手である赤毛の女からの警告のようだった。
しかし、この瞬間は糸が肉を浅く切るより、怒りの方が上回った。
「何が、どうなってやがる! テメエ、どうやって一発で……」
「一発じゃねぇよ。十発や二十発でもねぇぞ。オレの引き、悪すぎ」
「あぁ?」
まともに答える気がないらしい兜野郎に、ラチンスが強く歯噛みする。
兜野郎はどういう方法でか、こっちが『対話鏡』を使い、クロムウェル――ロム爺を中心として連携を取っていたことを見抜いていた。しかもご丁寧に、見抜かれたとしても時間を稼げるはずだった囮の鏡を無視し、確実に本命を仕留める仕事ぶりだ。
つい今しがた、自分を戒めたばかりだというのに、首をもたげてくる。
自分の力では及ばないものたちへの、飽きることもなく湧いてくる劣等感が。
「おい、こいつらどうすんだ。……全員、殺すのか?」
そのラチンスの内心を余所に、そう口を挟んだのは赤毛の中年――ハインケルだった。
ラインハルトの父親と、そう聞いている男だ。確かに、赤毛に青い目、やたらと立派な騎士剣と、アストレア家を思わせる要素が多い。
息子が応援するフェルトではなく、対立候補のプリシラについていた時点で、自分の立つ瀬もまともに選べない馬鹿だと思っていたが、思った以上だった。
「――間抜け野郎」
ラチンスは、ラインハルトのことが嫌いだ。
どうせ、ラインハルトの方はラチンスのことを何とも思っていないだろうが、ある程度の家格がある家に生まれ、父親と確執があるという点では同類だった。もちろん、生まれつき背負ったものの重さの違いはあるし、ラチンスは身勝手に捨ててきたそれを、ラインハルトが捨てるなんて考えたこともないのもわかる。
一応は貴族の家に生まれ、家族との折り合いのつかなさを理由に出奔し、どういうわけかフェルトのところで働いている自分は、中途半端だ。
でも、ラチンスとラインハルトの抱える悩みは同じでも、決定的に違う。
ラチンスの父親は、尊敬できる。嫌いだが、尊敬はできる。
「けど、テメエは無理だろ」
尊敬に値しない父親と揉めて、それで心を痛めるラインハルトは間抜けだ。
だからいっそ、ラインハルトが惨めになる理由を、取り除いてやる。
「……ゴーア」
括られた状態でも、詠唱はできる。
全身を糸に搦め捕られ、軋ませながらも体内のゲートを脈動させ、ラチンスは自分の顔のすぐ目の前に火の玉を浮かべ、兜野郎たちの警戒を招いた。
だが、浮かび上がったそれは、親指の先ほどしかない小さな火の塊だった。
「あ、焦らせやがって。あんな小細工、二度も引っかかるか!」
手前で張られた偽物のアル・ゴーア、その見た目に騙されたことの腹いせに、ハインケルが怒りに顔を赤くしながら、その騎士剣で火の玉を斬り上げる。
一瞬、その何気ない剣閃がやけに目に残るぐらい洗練されたものに見えたが、いい。
今はそんな感慨よりも――、
「バーカ」
舌を出し、精一杯の嘲笑で悪態をついてやる方が優先だ。
――ゴーアを薄く引き伸ばし、アル・ゴーアであるかのように見せかけた。だったら同じように、アル・ゴーアをほんの小さな火の玉に見せかけることもできる。
『ラチンスくん、君は飛び抜けた才能はないが、堅実だ。着実な歩みはきっと、君を君の辿り着きたい場所に辿り着かせる力になるだろう』
ラチンスに魔法の手ほどきをしたエッゾが、低い背丈で偉そうにそんな講釈を垂れていたのが思い出され、ラチンスは珍しく彼に悪いなと内心で詫びた。
堅実さを無視した、段階飛ばしの魔法の悪用、エッゾが一番怒りそうなことだ。
でも、もうその機会もこないのだから、自分の言い逃げみたいなもので――、
「――――」
剣先を浴びた火球が空中でほどけ、その内側に圧縮して溜め込んだ膨大な火力が解法、一挙に空間を焼き尽くす地獄の炎が爆発的に広がる。
その炎に自らの呑まれる寸前、ラチンスは「どこで人生ひん曲がっちまったんだ」と直前にもしていた嘆きが湧いてこなくて、おかしくてならなかった。
そのまま、笑みさえ浮かべたラチンスの体は炎に呑まれ――、
「そこまでだ」
発動するはずの命懸けの炎は、そうとわかっていたように割り込んだ兜野郎の手の中で握り潰され、その火力を発揮してはくれなかった。
△▼△▼△▼△
――二百六十四回。
「――――」
ぐったりと鋼糸に括られた体を脱力させ、俯いたラチンスは諦めたように見えた。
だが、そんなことはとんでもない。ラチンスは諦めるどころか、この状況でも相手を仕留めることを断じて諦めようとしていなかった。
だから――、
「そこまでだ」
口にしてから、それが忌々しい響きだと思い出し、内心で舌打ちする。
そんな苦々しい感慨を余所に、アルデバランはハインケルを押しのけると、彼が不用意に切り裂いたゴーア――否、今度はそれと見せかけた大魔法の発動を阻止する。
空中に浮かび上がった、一帯を焼き尽くさんとする大火力の構成をほどき、まだ火種に過ぎない状態のまま、方向性を失ったマナとして霧散させる。
これを阻止できなければ、強大な炎に一帯を焼き尽くされ、アルデバランたちも甚大な被害を被り、戦いを続けることができなくなる。
決死の、命懸けの自爆攻撃を仕掛けようとしたラチンスの覚悟には悪いが、命を捨てて何かをやり遂げようなんて、アルデバランの前で最も無意味な行いだ。
たとえ命を賭した何かだろうと、アルデバランはそれをことごとくふいにする。
だから、無駄なのだ。命懸けなんて、何の意味もない。
無駄だ。無駄、無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄、無駄。
無駄なのに――、
「ゴーア……」
「やめろ!!」
最初の火種を消され、それでも詠唱を重ねるラチンスに吠え、アルデバランは身動きのできない男の体に振り上げた拳を叩き込んだ。
横っ面を殴り飛ばし、腹に蹴りをぶち込み、もう一度頭をぶん殴る。耐えるために踏ん張ることもできないラチンスは、まさにサンドバッグ状態でそれを浴びた。
たとえ、アルデバランが二流三流の戦士だとしても、あのガーフィールさえ勘所を押さえれば打倒することができる。だというのに――、
「ごぉ、あ……」
――ラチンスは、詠唱をやめようとしなかった。
「なんでだ!」
生まれようとする火種を再び握り潰し、それをした拳をラチンスにぶち込む。
しかし、立て続けに拳を浴びても、ラチンスに周りに、新たに世界に干渉しようとする魔法の兆しが生まれることはやまなかった。
それはすなわち、自分の最後の策を見破られても、ラチンスが諦めない証。
「――アル様、キリがありませんよ」
息を切らしたアルデバランの耳に、そっとそんな声が投げかけられた。
次いで、目の前で吊られるラチンスの頭が持ち上げられ、その首にキリキリと鋼糸が絡み、彼の細い首を絞める――否、刎ねようとし始める。
「その方の目が言っています。自分を殺さないなら、何度でも同じ手を打つと。実にご立派なことです。男児の本懐じゃないですか。だったら……」
「黙ってろ!」
「――――」
持ち上げた右手の指を動かし、ラチンスの首に赤い血の筋を浮き上がらせるヤエ。その彼女を黙らせ、アルデバランは正面からラチンスを睨みつけた。
顎を上げられたラチンスは、見下すような角度からアルデバランを見ている。
そして――、
「ばぁ、か……」
右手を岩のプロテクターで覆い、アルデバランの一撃がラチンスを打ち据えた。
これまでとは質の違う重さの一撃に、ラチンスの額が割れ、バッと血が散る。あるいは撲殺も辞さない、そんな一撃だったが――、
「……お見事~」
パチパチと手を叩いて、ヤエがぐったりとしたラチンスを見ながら称賛する。
アルデバランよりも、他人の生き死にに敏感なヤエだ。彼女の目から見て、ラチンスは命を落とさずに、気絶で事が済んだということらしい。
「――――」
その称賛も、ラチンスが昏倒した事実も、アルデバランの慰めにはならなかった。
ただただ思った以上に、この五百という数を侮ってはならない。――これがただの数字ではなく、覚悟の極まった五百と、そう受け止めねばならないのだと。
「お、おい、アルデバラン……」
「悪ぃが、ちょっと黙っててくれ」
ラチンスを打ち倒したばかりのアルデバランに、ハインケルが声をかけてくる。が、思った以上の、領域を展開する以上の精神的な消耗があって、うまく取り合えない。
とにかく、『対話鏡』潰しを果たし、第一陣の脅威は退けられた。
あとは――、
「――なんだ、豚のように鈍いな」
「――――」
すっかり耳に馴染んだ族虐ジョークの到来、しかし、これまでとは形が違い、今度のそれは拳撃を伴っていなかった。
だが、ならば良しと、難所を乗り越えた扱いしていいものかはわからない。
何故なら――、
「無闇に足を止めるとは、貴様らは頭の中に豚の餌でも詰めているのか?」
そう重々しい声で告げる豚面は一人ではなく、ラチンス同様に部隊を引き連れ、突出するのではなく、第二陣としてアルデバランたちの前に立ったのだから。
「――領域展開、マトリクス再定義」
△▼△▼△▼△
『無闇に足を止めるとは、貴様らは頭の中に豚の餌でも詰めているのか?』
籠手に嵌めた『対話鏡』越しに『豚王』ドルテロ・アムルの声が届き、兜野郎と第二陣が接触したとロム爺は把握する。
最初の接触がラチンスたちであり、その一番近い位置に布陣していたのが、集まった顔ぶれの中でも強力な戦士であるドルテロたちだったのは幸運だ。
「――――」
ただ、ドルテロが到着する前に兜野郎とぶつかったラチンス、彼の率いた一団の安否はわからない。無論、指揮官だったラチンスも同じだ。
むしろ、相手の狡猾さを思えば、ラチンスは死んだと考える方が適切だろう。
「――いかんな」
戦いが起こった以上、無傷で事態が収拾することなどありえない。
当然だが、黒社会の荒くれ者たちはもちろん、陣営にも犠牲者は出る。――グラシスが受けたフラムからの報告、そこにある一握の希望を頼るのは愚かなことだ。
故に、ロム爺は瞬きを挟んで自分の心情に蓋をし、目の前の状況に集中する。
ドルテロであれば、兜野郎たちを一息に仕留められる。――と、楽観的に物事を考えることはできない。それは、兜野郎がある意味、『剣聖』と『神龍』と『嫉妬の魔女』をまとめて手玉に取った、という実績だけが理由ではなかった。
「……奴は、躊躇なく鏡役に持たせた『対話鏡』を割りおった」
それにより、ラチンスたちの動向が把握できなくなった以上、相手がこちらの情報を遮断する手段として最善手を打ったことは間違いない。
しかし、最善手の打ち方が、いくら何でも不自然だった。
こちらの連携具合や準備から、事前に『対話鏡』を用意していたことまでは察しがついたとしても、そこから先の行動は――、
「儂らの頭の中身か、あるいは別のものでも見えていない限り、不可能じゃろう」
いずれも荒唐無稽、ありえないと馬鹿にされて然るべき戯言の領域。
だとしても、百年以上を生きてきたロム爺は、この世界に自分の常識や想像を超えた力が存在し、それを操るものたちが同じ盤上に乗り込んでくることを知っている。
それらに対し、ありえないと思考を停止したものが辿る末路は、いつも同じだ。
そしてその悲惨な末路を、愛するものに辿らせることなどあってはならない。
「――確かめたいことがある。全部隊、指示を変えるぞ」
開いた『対話鏡』に一斉に語りかけながら、ロム爺はその瞳を細め、策を巡らせる。
兜野郎も、わかっているはずだ。
――この戦いが、自分たちにとっても、兜野郎たちにとっても、時間との勝負であることを。