名実ともに、百貨店が小売業の王様だった戦前、大陸に広がる巨大百貨店チェーン「三中井(みなかい)百貨店」があった。
1905年に朝鮮の大邱に1号店を構え、並み居る競合を抑えて急成長。朝鮮に12店舗、満州に3店舗、そして中国に3店舗を構えた。
日本では百貨店のチェーン店すら珍しかった時代だ。
1929年「三中井呉服店案内」より。実際にはすでに百貨店だった(京都府立京都学・歴彩館所蔵「京の記憶アーカイブ」より)
働く従業員数は約1万人とも語られる。年間売上高は最盛期で1億円、現在の5,000億円ほどあったといい、当時の三越をも圧倒する規模だった。
しかし終戦とともに、その存在はこつ然と消えてしまった。幻の巨大百貨店だ。
支店の一つだった釜山店(国際日本文化研究センターより)
三中井は「近江商人」の発祥地の一つ、滋賀県の五個荘(現在の東近江市)の商人たちの英知が結集したという。
この「近江商人」をルーツにしている企業を挙げると、西武グループ、伊藤忠商事、丸紅、住友、東レ、高島屋、ワコール、日本生命など、大会社がズラリ。トヨタ自動車も初代社長など近江出身者が大きく発展に貢献した。
いったい、希代の一大百貨店グループはどのように発展し、なぜ消えた? それを作り上げた「近江商人」って何だ?
それを知るために、筆者は滋賀県の彦根へ向かった。あちこちから「おおきに」が聞ける街。
(以下、決して日本統治化時代を美化するわけではございません)
三中井の総本社が滋賀に残っていた
三中井百貨店消滅の後、中江一族が苦難の末に築き、繁盛させたのが1954年創業の洋菓子店「三中井」だ。
写真左から、三中井を経営してきた中江進さんと、その妻の中江悦子さん。
さっそく三中井百貨店のことを伺う前に、お店の名物「オリンピア」を食べたい。
「オリンピックに出られるくらいにおいしいお菓子」ということで、この名前がついた。
観光客より、地元・彦根民に愛される名物
ふんわりたっぷりの生クリームに、ゴロゴロ入った黄桃、シュー皮のロールケーキが合わさった、甘さひかえめで華やかな味わい。
どこかレトロかつ、現代でこそますます愛されそうなお菓子だった。
三中井ブランドを今に伝える一品を食べ、筆者は「近江商人のふるさと」と言われる東近江市の五個荘(ごかしょう)地区へ向かった。
五個荘へ向かう車窓から
かつて滋賀の多くの地域、とくに五個荘には主たる産業がなく、大成功したければ外へ出るしかなかったという。ハングリー精神が、近江の大商人たちを生んだ。
また、よそで商いをする際に摩擦を生まないため、売り手・買い手・世間が互いに信用できる商売をするための「三方よし」の精神が生まれたとか。
そしてやってきたのが、三中井百貨店の社長だった中江勝治郎の邸宅だ。
このそばで新入社員の修行(研修)も行った
勝治郎の家は三中井百貨店の総本社を兼ねており、京都本社と連携して、各店舗や仕入れ所に指令を出した。
司令部だった部屋。今は進さんが購入した絵画を置く
俳優・三浦春馬による最後の主演映画『天外者』の撮影にも使われた
「100年経つとは思えないほどキレイで、立派な家ですね」
「かつて、毎日念入りに掃除しましたから。近江商人の伝統で派手な家にはしませんが、見えないところにお金をかけています。
家主で社長の中江勝治郎をはじめ、兄弟たちが経営を支えました」
1914年の中江四兄弟の写真、右から順に
・富十郎 37歳……社交的で大物とも次々と関係性を築いた
・勝治郎 42歳……カリスマ社長。三中井を引っ張った三代目勝治郎
・久次郎 39歳(※養子になった関係で西村姓)……仕入・総務などの担当。倹約家
・準五郎 28歳……富十郎の右腕として経営を支えた
圧倒的に発展した三中井
「三中井百貨店は、三男・富十郎が作ったようなものです。行商時代の悔しい経験から『バカにされないためには、財閥を持つような大商人になるしかない』と考えたわけです」
「そこから大出世の道が始まるんですか?」
「日本を3年放浪した末に北九州の小倉で呉服店に勤め、そこで『娘をもらって』と言われるまで働くものの職を辞して。地理的に近い朝鮮に渡った際、身に付けたものを『売って』と盛んに言われ、『朝鮮にビジネスチャンスがある』と突き止めました」
「エネルギッシュすぎますね」
「当時の朝鮮はまだ物が少なく、どんどん売れたんです。家族を説得して1905年の大邱(テグ)で一号店を立ち上げました」
三中井呉服店時代の各支店(国際日本文化研究センターより)
「最初から売れたんですか?」
「はい、新生活で物が必要な朝鮮に渡る日本人に加え、富裕層の朝鮮人にもよく売れました」
「当時はまだ『三中井呉服店』だったんですね」
「はい、当時の時代の流れに加え、政府の御用達への指定も狙って百貨店になったわけです。その後、不景気で物が売れなかった日本で大量に安く仕入れた物を、景気のいい朝鮮に送って大もうけし、支店を大陸に広げていきました」
かつては日本にも支店があり、丸ノ内ビルヂングにも存在した(Photo by PekePON)
渋谷の道玄坂にあるエリア・百軒店(ひゃっけんだな)にも支店があった
「市外電話もままならない時代に、京都本社と京城本店、満洲の基幹店・新京店の三店間の連絡は全て無線で結ばれていたと聞きます」
「はい、朝鮮と日本で連動して価格が動く3か月ほどのタイムラグを突き、無線を利用して、安いうちにいち早く日本で仕入れたものを朝鮮で売っていました。さらに一括大量仕入れも値引きに寄与し、品ぞろえは他社を圧倒したそうです」
「情報戦を制したわけですね」
「日本と朝鮮で大きく時差があった流行のアイテムも、いち早くそろえました。最高級の反物をほぼ独占状態で多く仕入れたようです」
社員を軍隊の階級で呼んだ?
三中井のシステムの中でも特筆すべき、「商戦士」について説明しよう。三中井では、社員たちがまるで軍隊の階級のような称号を付けていた。
例えば「商戦士元帥」は社長の中江勝治郎、富十郎や準五郎は「商戦士大将」とし、以下「商戦士大佐」「同少尉」「同兵長」などと階級で呼ばれた。なお一番下は「商戦士二等兵」といった寸法だ。
階級により身に付けられるものが変わり、バッジの色が変わったときの喜びは格別だったとか。社内報は全員が階級の順に掲載され、同じ階級でも上位のものが上で、社員は階級が進むのを楽しみに働いたという。
「大同大街 三中井百貨店・康徳会館(新京)」(京都大学附属図書館所蔵)をトリミング。手前が三中井百貨店 新京店
「当時の時代性的に、まさに『商売は戦い』だったわけでしょう。あと、全従業員に株を持たせたのも特徴でした」
「たしかに、現代の中国のビジネスパーソンも『(商売は)血の出ない戦争だ』と言っていたのを思い出します」
「そして、三中井の根底にあったのは近江商人の伝統、『始末してきばる』(=無駄にせず、倹約に努め、本気で取り組むこと)という、質素倹約の精神でした」
「社長の勝治郎でさえ、どんなお金持ちになっても、つぎはぎだらけのフンドシを履いていました。近江商人の精神を示すためです」
嗚呼、幻の超巨大旗艦店
堂々たる旗艦店だった「三中井京城本店」は6階建てで、ニュース映画とマンガ映画を流す専門館があり、大食堂も備えていた。
三中井の各店の入り口は何カ所もあって出入りがしやすく、夜は日本初とされるライトアップを行った。通路は広く、天井も高い。商品は立体的に配置され、勝治郎による3か月間のアメリカの視察旅行が生かされた。
これは増築前、5階建ての京城店。屋上にはすでに子ども用の遊園地があった
いち早く設置したエスカレーターやエレベーターの見物人も来て、混雑のあまり入場制限をしたこともある。なおテナントはなく、全フロアを自社により運営していた。
「さらに満洲の首都・新京では、国の協力で一番いい場所に4つの大きな店舗を建て、東洋一の百貨店群を作る予定もありました。戦争に負けて、とん挫しましたが」
「ちなみに、この写真は何ですか?」
「勝治郎邸で撮影された大正時代の日本の総理大臣・清浦奎吾と、朝鮮総督の宇垣一成らとの一枚です。彼らと関係を築いていたために、政府御用達で商品を納入でき、大きな商売の柱になりました」
「この一枚に当時の日本の重鎮たちが集まっているんですね」
「はい。三中井は昭和15年の時点で、朝鮮だけでおそらく2,600万円(※当時の日本円)以上の売上げがあったとも言われます。会社の発展に寮の建築が追いつかず、社員たちが毎日床にゴザを敷いて寝ていた時期もあったそうです」
なぜ三中井は消えたのか
そして日本が敗戦した途端、武器を持った現地の朝鮮人たちが店を占拠するなどし、日本人たちは次々と店を明け渡した。
三中井も同じ運命をたどり、その後は朝鮮人たちが経営を試みるも、それまでの取引先との関係は引き継げず、最終的に米軍が接収したという。
それでも三中井が始まった土地の大邱では、戦後60年ほど経っても跡地のマーケットのことを「ミナカイ」と呼び、長らく「ミナカイへ買い物に行こう」などと日常語に定着していたとか。
「日本が敗れると、三中井は一気に百貨店を失ったわけですね……!」
「父・中江悌一が店長をしていた釜山店や新京店などは営業を続け、中には1年ほど健在だった店舗もあったようですが、最終的には全てを手放さざるを得ませんでした。そして、戦後の日本で店舗を出すことはなく、三中井百貨店の歴史は終わりました」
「いったい、なぜだったんですかね……?」
「三中井がひどいのはね、日本が戦争に負けるまで何もしていない。当時の主な日本企業は、1年ほど前から日本が負けるのはわかっていましたから、よその会社はみんなヤミ船で財産を日本へ送り返していたんです」
「歴史のウラ話が……あと、日本の敗戦前に近鉄百貨店の前身・京都の丸物百貨店や、山口県下関市、さらには小倉の玉屋から三中井出店の要請があったようですが? とくに丸物は京都本店を『三中井日本本店』にするというお誘いだったと聞きます」
1932年ごろの丸物百貨店京都本店
「三代目・勝治郎の後を継いだ養子で、四代目・勝治郎となった新社長・修吾らが、大陸での拡大路線を重視して首をタテに振りませんでした。三中井の会社自体も先を考えていなかったのです。軍と密着しすぎて、心中してしまった。日本が負けるという情報はあっても、それを信じられなかったのかもしれません」
「それでも、たくさんお金はあったんですよね?」
「はい、しかしお金は跡取り社長の修吾が使ってしまいました。まずい話に乗ったり、やったことが全部裏目に出たり、全然働こうとせず、祇園や島原で遊んでパーッと使ったり……従業員にも退職金さえ渡さずに、追い返していたそうです」
「放蕩息子に財産が食いつぶされていったんですか……!?」
「そのころ、中江四兄弟もみんな鬼籍に入っていましたし、誰の言うことも聞かず。近江商人、そして三中井の信条である質素倹約を破り、株を買って大損しました。勝治郎邸の蔵にも絵画だけで400点あったんですが、みんな修吾がたたき売ってしまった。
そして母のきみを追い出し、この家さえ売り払ってしまいました。私が家を買い戻すのはずっと先のことです」
「三中井黄金時代の歴史が詰まったこの家まで!?」
「修吾はその後、金を借りまくっても返せなかったからみんなからひどい目に遭って、京都では『三中井』という言葉は一時期使えなかったんですよ。養鶏場の経営も失敗して、最後は物乞いになり47歳で亡くなりました。葬儀にも親戚はほぼ誰も出ませんでした」
「絶対的な権力を持つ後継者が親の遺産を食いつぶし、会社とともに沈んでいく……同族経営の一番悪いところが出たわけですか」
「はい。そして三中井が元気な時代から、優秀な人間を支店長にするんじゃなくて、自分の息子たちを若いうちから支店長にしていったのも失敗だと思います。当時は世襲する企業が多かったのもありますが」
全てを失って、洋菓子店で再起する
かつての大・近江商人の子孫が、彦根の「地商い」で再起した
「そして再出発したのが、1954年に生まれた『洋菓子 三中井』でしたが、当初の売れ行きはどうでしたか?」
「苦しかったです。ですが三中井でも釜山店店長を務めた親父が、当時の百貨店を彷彿とする営業を行いまして。彦根のお店の中でも一番に電話を導入して、一番に車を買ったり、毎月広告を入れたりしました。お金はかかりましたが……宣伝力はありましたよ」
「ある種、三中井の進取の精神も感じますね。洋菓子がマイナーな時代でしたが、それで知ってもらえたでしょう」
「はい、今の店にも大きく影響を与えたと思います。ただし、和菓子の時代でしたからまだまだ経営は厳しくて。
しかし親父はとても貧しい八百屋の息子と同級生で日ごろから親切にしていたんですが、彼が天津や大阪で成功して。彼にお金を貸してもらい、何とかしのげたんです」
「結果的にその方へ手厚く接していて、よかったですね……!」
「親父はええ人ではあったんですよ。また、当時は安い食材で儲けようとした店も多かったんですが、うちは、ええ食材なので菓子への評判はよかったんです。私が23歳で彦根へ帰ったころから洋菓子が受け入れ始め、店も軌道に乗りました」
「『ええものを使う』はまさに三中井の精神ですし、近江商人の教えにも、『一時的に高価であっても、結果的に安い買い物になるようにお金を使いなさい』とありますね」
「はい。それからしばらく経って、人気の『オリンピア』も生まれました」
「我慢して続けたからこそ、上昇気流をつかめたと」
「はい。『彦根城』なども地元の人が大阪・神戸などに行く際、持っていく贈答品としてヒットしました。日持ちもしますので」
「かつての近江商人のように『持ち運び』を考えたヒットアイテムなんですね」
「また、エクレアとシュークリームはお姉さんが三中井百貨店にいるときに好きで、メニュー化したらしいです。作り方は長らく変わっておらず、うちの創業ごろからありましたよ」
「当時の歴史が味わえる、貴重な一品ですね」
「今、地方の小さな店は大変ですが、駐車場と大きなお店にないヒット商品があれば何とかなります。このお金で、かつて修吾が売り払った勝治郎の家を取り戻せました」
「他に、三中井出身者で裸一貫から建て直した方々はいますか?」
「例えば、ワコールを支えた名参謀たちです。
中江正次は経理面でのトップとして会社を支え、2割無償増資などの施策で株主を増やしましたし、奥忠三はわずか2年半で大阪・神戸・和歌山の全てのデパートと取引を成立させた豪腕でした」
JR京都駅前にあるワコール本社
「経営の中心だった、中江一族からは活躍者は出ましたか?」
「1946年に『東京カリント』を創業した、二代目西村(初代の旧姓:中江)久次郎の長男・西村慶一ですね。かりんとうの製造・販売による売上げで日本一の会社に成長しました」
近江商人の鉄則「質素倹約」を最も守り「渋久」と呼ばれた西村久次郎。その長男の商売が華開いた
なぜ滋賀県は大商人が多かった?
「なぜ滋賀県で、大商人たちがたくさん生まれたんだと思いますか」
「地元で商売にならないので出ていくしかないですから。周辺の都市へ出やすい地の利もありましたし。
琵琶湖の鮎は他の川に放したほうが大きく成長するんですが、商人も同じです。日本も、世界に出た企業ほど儲けていますから」
「今だって、日本のマーケットが伸び悩んでいますからね」
「日本のマーケットが飽和していた当時、三中井が朝鮮に出たのと同じように……」
「最近、内向き志向の人が増えていて、パスポートの取得率も17%(2023年現在)しかないんですよ。『今こそ近江商人になれ』ですかね」
「そうそう。ちなみに滋賀に大きな産業が作れなかった代わりに、豪商たちは屋敷を建てて家族を住まわせてきました。東京や大阪に家族を出すと派手な生活になりますが、ここなら質素に暮らせますから」
「最後に、三中井の歴史を繋いできた証言者として、その歴史から言える人生訓を教えていただければ幸いです」
「三代目・勝治郎さんの奥さん、きみさんが好きだった言葉に、『随処楽』というのがあります」
「どんな意味なんですか?」
「『どんな境遇にあっても、そのときを楽しむ』。百貨店で一番いいときも、天から地へ落ちるほどに落ちぶれても、ふてくされたりしないでその時々を楽しむんです。『たられば』は言わずに」
きみが四代目・勝治郎である修吾に家を追い出されたとき、たった一つ持ってきた「随処楽」の額
「楽しむ……!?」
「『どんな境遇でも一生懸命に生きる』わけですね。いいときでも有頂天にならず、悪いときでも落ち込まず」
「とても難しいですけど……大事ですね。『天国から地獄』を味わった方の言葉だからこそ、身に染みます」
◇ ◇ ◇
小売り業界の正真正銘の巨人・三中井が、絶対的な権力を持つ後継者一人の暴走と、それを止められなかった組織により、幻のように瓦解してしまった。
それはあまりに壮大かつ、あまりにも時代が違うように見えて、今に通ずる教訓に思えた。
そして、時代に翻弄された近江商人たちは、わが世を極めた一時代から転落しても、生き抜く力を持っていた。
参考出典
・幻の三中井百貨店(林広茂/晩声社)
・今、甦る近江商人魂 〜五個荘散策と幻の三中井百貨店(田中秀湖/ブイツーソリューション)
・近代近江商人経営史論(末永国紀)
・五個荘町史 第3巻(五個荘町史編さん委員会)
・中江四兄弟と三中井百貨店(東近江市立近江商人博物館) など
一部画像提供:洋菓子 三中井
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この記事を書いたライター
卓球と競馬と旅先のホテルで観る地方局のテレビ番組が好きなライター、番組リサーチャー。過去には『秘密のケンミンSHOW』を7年担当。著書に『強くてうまい! ローカル飲食チェーン』 (PHPビジネス新書)。