昔の新聞点検隊
(2012/12/18)
寺内内閣は斯の如き理由の下に各地の米騒擾に関する一切の記事掲載を禁止せり
新聞雑誌に米騒擾に関する記事一切の掲載を禁ずる理由 当局者の弁明
各地騒擾に関しては我社は敏速なる報導をなし来りしも突然内務大臣の命令によりて報道禁止の止むなき事情に立至った、我社は内務当局の弁明を聴き読者に対して消息を明かにする義務がある、十四日夜午後九時四十分頃突如築地警察署の通告として「米価に関する各地騒擾に関係ある記事、及び大阪の騒擾に関する号外を発行する事の二項を禁止し且つ内務省に都下各新聞各通信社を請じ水野内相は小橋次官、永田警保局長列席の上禁止の理由を述べた(東京電話)
(1918〈大正7〉年8月15日付 大阪朝日朝刊7面)
【解説】
今回ご紹介するのは、94年前のお話です。冒頭の記事は、米騒動に関する報道が、政府によって禁じられたことを伝えるもの。記事が載ったのが、この紙面です=画像。
すごいですね。記事が削りとられた跡が、生々しく残っています。今の新聞では、考えられない無残さです。いったい何があったのでしょうか。
その前にしばし校閲。「報道」と「報導」が入り交じっているのは「報道」にそろえ、「十四日夜午後九時」とあるのは「夜」と「午後」のどちらかを抜いてもらいます。「『米価に関する各地騒擾……」も、その後に閉じカッコが出てこないので、手直ししてもらいましょう。
◇ ◇ ◇
第1次世界大戦の戦地にならなかった日本は輸出が増え、好景気に沸きます。しかし、物価は高騰し、軍備拡充目的の増税が行われたので、庶民の生活は苦しいものでした。
米価は比較的安定していましたが、都市部の人口や工場労働者が増えるにつれ、需給バランスが崩れていきます。1917年半ばから高騰が始まり、売り惜しみや買い占めをする商人や地主が出てきました。
追い打ちをかけたのが、18年のシベリア出兵です。軍用米の大量需要を見込んだ商人たちが、さらに買い占めを進めたのです。おりからの生活苦のなか、米価が1年で2倍になる地域もありました。そんな異常事態のなかで発生したのが、米騒動でした。
18年7月、富山県の魚津。米の高騰に苦しんでいた漁師の妻たちが、輸送船への米の積み出しを阻止しようとしたのが始まりと言われます。米を求める示威行動や、米商人への襲撃が各地に広がりました。
8月になると京阪神や名古屋など大都市でも発生。東京にも飛び火したことで、沈静化を急ぐ政府は、米騒動に関する報道の禁止に踏み切りました。
朝日新聞社史によると、警察を通じて禁止通告を受けたのは、東京朝日新聞が14日午後10時前、大阪朝日新聞は15日午前0時でした。
紙面がほとんど出来上がり印刷する時間がきていた大阪朝日は、鉛版から米騒動関連の記事を削ってしのぐしかなかったようです。1面を含め半分のページに、無残な削り跡が残りました。ちなみにこの日の1面はこんな感じです=画像。政府への抵抗として社会面トップに、冒頭で取り上げた記事を載せました。
報道各社の反発を受け、報道規制はしばらくして解かれます。米騒動は8月末ごろから沈静化に向かいました。
ときの首相は元陸軍大臣で長州閥の寺内正毅(まさたけ)。議会に制約されずに行動すべきだとする「超然内閣」でしたが、米騒動の責任をとり、9月21日に総辞職しました。
後を継いだのは、新聞記者から外務官僚を経て政治家になった原敬(はら・たかし)。「平民宰相」と呼ばれ、本格的な政党内閣を初めて組織しました。
◇ ◇ ◇
政府が報道機関に対して公然と、特定の記事の掲載を禁止することは、今では考えられないことです。
日本国憲法の第21条は、次のように規定しています。
「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」
民主社会の根幹をなす「報道の自由」。担保する条文が施行されたのは、47年5月。米騒動から29年後のことでした。
【現代風の記事にすると…】
米騒動の関連報道 政府が禁止
内務省は14日、報道各社に対し、各地で発生する米騒動の関連記事の掲載や号外の発行を禁止した。
◇ ◇ ◇
朝日新聞はこれまで、米騒動に関する各地の動きを報じてきました。報道禁止の経緯を、読者の皆さまに伝える必要があると考えます。水野錬太郎内相らが示した禁止の理由を以下に掲載します。
(高島靖賢)
原文どおりに表記することを原則としますが、読みやすさの観点から
等の手を加えています。ご了承ください