平安時代の貴族は、日記を書くことによって、後世に記録を残していました。ちなみに、どのようなことが書かれていたのか…。
紫式部『紫式部日記』、藤原道長『御堂関白記(みどうかんぱくき)』『御堂御記抄(みどうぎょきしょう)』、藤原実資『小右記(しょうゆうき)』、藤原行成『権記(ごんき)』に記された主なエピソードを紹介します!
ちなみに
『御堂関白記』には…
寛弘3年(1006)6月14日条
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山階寺(やましなでら/興福寺)から、馬允(当麻)為頼のために打擲(ちょうちゃく)された池辺園(いけべのその)の預の者が作った寺の解文(げぶみ)がもたらされた。
ちなみに
『御堂関白記』には…
寛弘3年(1006)6月14日条
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(当麻)為頼を召している際に、人が云(い)ったことには、「山階寺(やましなでら/興福寺)から三千人ほどの僧が為頼の私宅に行き、数舎を焼亡しました」ということだ。・・・聞くにつけ、不審に思ったことは少なくなかった。
ちなみに
『御堂関白記』には…
寛弘3年(1006)6月20日条
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大和国が、山階寺(やましなでら/興福寺)の僧蓮聖(れんしょう)が数千人の僧俗を招集して、大和国内を存亡させたという解文(げぶみ)を進上した。
ちなみに
『御堂関白記』には…
寛弘3年(1006)7月3日条
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大和国の解についての宣旨が下った。下手人の俗人や追捕すべき僧たちの名が入っていたが、それを蓮聖(れんしょう)に進上させることになった。蓮聖の公請(くじょう)を停止(ちょうじ)した。
ちなみに
『御堂関白記』には…
寛弘3年(1006)7月12日条
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定澄(じょうちょう)僧都(ぞうず)が土御門第に来て云(い)ったことには、「昨日、京に参りました。これは明日、興福寺の僧綱(そうごう)や已講(いこう)が、こちらに参上することになっていることによるものです。蓮聖の愁訴(しゅうそ)の事です・・・
ちなみに
『御堂関白記』には…
寛弘3年(1006)7月12日条
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・・・もしも愁訴(しゅうそ)についてしっかりした裁定が無かった場合には、土御門第の門下および大和守(源)頼親の宅の辺りを取り巻き、事情の説明を請うて、悪行を致すことになるでしょう」と。これを聞いて奇怪に思ったことは少なくなかった。
ちなみに
『御堂関白記』には…
寛弘3年(1006)7月12日条
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私が答えて云(い)ったことには、「もしもそのようなことが有ったならば、僧都(ぞうず)や寺家の上臈の僧綱(そうごう)・已講(いこう)たちは、覚悟を致しておけよ。我が家の辺りにおいて、そのような事が有った場合には、どうして吉(よ)い事が有るだろうか。・・・
ちなみに
『御堂関白記』には…
寛弘3年(1006)7月12日条
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・・・汝(なれ)は僧綱(そうごう)であるとはいっても、その職に在ることは難しいだろうな。能(よ)く思量すべきである」と。・・・外記(大江)時棟に命じ、明日、陣定(じんのさだめ)を開くことを公卿(くぎょう)に通知させた。
ちなみに
『権記』には…
寛弘3年(1006)7月13日条
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右大臣(藤原顕光)がおっしゃられたことには、「『山階寺(興福寺)の法師たちが、理由もなく八省院(朝堂院)に集会(しゅうえ)している』ということだ。早く退去させるべきである」と。すぐに(小槻)奉親宿禰が宣旨を寺司に下した。
ちなみに
『御堂関白記』には…
寛弘3年(1006)7月13日条
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「朝堂院に参集している僧たちは、多数に上っている」ということだ。検非違使を遣わして追い立てるべきであるという宣旨が下った。右大臣(藤原顕光)は、その宣旨の上卿(しょうけい)を勤めた。
ちなみに
『御堂関白記』には…
寛弘3年(1006)7月13日条
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(藤原)説孝朝臣(あそん)を遣わして、(一条)天皇の仰せを伝えたことには、「仰せは、『僧たちが参上しているというのは、道理がない。早く奈良に罷(まか)り還った後、愁訴(しゅうそ)した事が有るのならば、僧綱(そうごう)が訴えるように。・・・
ちなみに
『御堂関白記』には…
寛弘3年(1006)7月13日条
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・・・もしこのような事が有ったならば、不都合なことではないか』と承っている」と。僧たちを定澄(じょうちょう)の許に追い立てた。
ちなみに
『御堂関白記』には…
寛弘3年(1006)7月14日条
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定澄(じょうちょう)が申し入れて云(い)ったことには、「得業(とくごう)以上の法師たち三十余人ほどが、まだ留まっています。こちらに推参するのは如何でしょう」と。
ちなみに
『御堂関白記』には…
寛弘3年(1006)7月14日条
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私が云(い)ったことには、「得業(とくごう)の僧たちが来ることは無用である。ただ、僧綱(そうごう)と已講(いこう)だけが来るのが宜しいのではないか。今はまだ、騒然としている。後日に来るのが吉(よ)いであろう」と。
ちなみに
『御堂関白記』には…
寛弘3年(1006)7月15日条
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天が晴れた。興福寺の別当(定澄/じょうちょう)・五師・已講(いこう)が、土御門第に来た。西廊において会った。「諸僧たちは、罷(まか)り還りました。ただし、私たちは申文(もうしぶみ)を進上するために参上しました」ということだ。
ちなみに
『御堂関白記』には…
寛弘3年(1006)7月15日条
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その申文を見たところ、四箇条有った。第一条には、「検非違使を派遣され国司が申した。寺家の僧が(当麻)為頼の宅を焼亡した事、および田畠を踏み損じた事を調査してください。また、きっと追補を行わないという事にしてください」とある。
ちなみに
『御堂関白記』には…
寛弘3年(1006)7月15日条
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この二事について、私が云(い)ったことには、「この事については、調査は行われる様に、私は申しておいたのである。ところが寺の解文(げぶみ)が申上された後、議定を行う前に、汝(なれ)たちは悪行を致したのである。・・・
ちなみに
『御堂関白記』には…
寛弘3年(1006)7月15日条
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・・・これでは氏長者(うじのちょうじゃ)である私の思うところを蔑ろにしたようなものである。そこで調査を行わなかったのである」と。
ちなみに
『御堂関白記』には…
寛弘3年(1006)7月15日条
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第二条には、「大和守(源)頼親の停任(ちょうにん)をお願いいたします」とある。これまた、極めて奇怪な事である。頼親の身には罪は無かった。僧たちが申したことには、道理が無い。
ちなみに
『御堂関白記』には…
寛弘3年(1006)7月15日条
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第三条には、「(当麻)為頼もまた、停任してください」とある。これまた、奇怪な事である。為頼というのは、人のために宅を焼かれ、愁(うれ)いが有る者である。焼いた人を罰せず、愁人を罪に処すというのは、極めて不都合な事である。
ちなみに
『御堂関白記』には…
寛弘3年(1006)7月15日条
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第四条には、「蓮聖(れんしょう)が公請(くじょう)を停められたのを、免されるべきでしょう」とある。これについては、蓮聖は罪名が有る者とはいっても、優免(ゆうめん)を申上することについては、何の不都合が有るだろうか。
ちなみに
『御堂関白記』には…
寛弘3年(1006)7月15日条
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罪が有る者を免される事は恒例である。そうではあるとはいっても、この申文(もうしぶみ)の中には、裁可できない第三条までのことも入っている。そこで、そのまま奏聞することはできない。
ちなみに
『御堂関白記』には…
寛弘3年(1006)7月15日条
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もし蓮聖(れんしょう)について申上したいのならば、他の申文を作って奏聞しなければならない。これらの雑事を教示した。僧たちは、事毎に道理であると称し、還り去った。子細は、ここには記さない。衆人が聞いてくる事が有るであろう。
ちなみに
『御堂関白記』には…
寛弘4年(1007)1月5日条
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昨日の酉剋(とりのこく/午後5時~午後7時)の頃から、女方(源倫子)は、重く病んだ。これは御産によるものである。卯剋(うのこく/午前5時~午前7時)に、女子(藤原嬉子)を産んだ。巳剋(みのこく/午前9時~午前11時)に臍尾(へそのお)を切り、乳付を行った。
ちなみに
『御堂関白記』には…
寛弘4年(1007)1月5日条
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亥剋(いのこく/午後9時~午後11時)の頃、火事が有った。右衛門督(えもんのかみ/藤原斉信)の家であった<中御門(なかみかど)である>。「一物も取り出すことができなかった」ということだ。
ちなみに
『御堂関白記』には…
寛弘4年(1007)1月5日条
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「(藤原斉信は)叙位の議に出席していて、宿直(とのい)装束が無かった。束帯を着たまま、まだ内裏(だいり)にいる」ということだ。そこで宿直装束一具(よろい)を届けた。袿(うちき)を四枚に直衣(のうし)・指貫(さしぬき)・合袴(あわせばかま)であった。
ちなみに
『御堂関白記』には…
寛弘4年(1007)1月13日条
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未剋(ひつじのこく/午後1時~午後3時ごろ)に内裏(だいり)に参った。五位蔵人に右兵衛佐(藤原)道雅を補した。(一条)天皇は、「道雅は、若年ではあるが、故関白(藤原道隆)の鍾愛の孫である。そこで補すのである」と云(い)われた。
ちなみに
『御堂関白記』には…
寛弘4年(1007)1月13日条
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六位蔵人には兵部丞(藤原)広政と(藤原)惟規を補した。蔵人所の雑色や非蔵人を差し置いて、この人々を補せられるのは、現在、蔵人所に伺候している蔵人は、年が若く、また、補すべき巡にあたっている非蔵人や雑色たちも年少である。
ちなみに
『御堂関白記』には…
寛弘4年(1007)1月13日条
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そこで、この二人は頗(すこぶ)る年長であって、蔵人に相応しい者である。そこで補せられただけのことである。後世の人に判断を任せよう。この人事の賢愚(けんぐ)はわからない。
ちなみに
『御堂関白記』には…
寛弘4年(1007)3月3日条
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土御門第で曲水(ごくすい)の宴(えん)を催した。東渡殿の所から流れてくる川の東西に、草墪(そうとん)と硯台(すずりだい)を立てた。東対(ひがしのたい)の南唐廂(みなみからびさし)に公卿(くぎょう)と殿上人(てんじょうびと)の座、南廊の下に文人の座を設けた。
ちなみに
『御堂関白記』には…
寛弘4年(1007)3月3日条
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辰剋(たつのこく/午前7時~午前9時)の頃、大雨が降った。水辺の座を撤去した。その後、風雨が烈しくなった。廊の下の座に雨が入ってきた。そこで対の内部に座を設けていた頃に、公卿(くぎょう)が来られて、座に着した。
ちなみに
『御堂関白記』には…
寛弘4年(1007)3月3日条
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新中納言(藤原忠輔)と式部大輔(菅原輔正)の二人が、詩題を出した。式部大輔は、「流れに因(よ)って酒を泛(うか)ぶ」と出した。こちらを用いた。申剋(さるのこく/午後3時~午後5時)の頃、天が晴れた。
ちなみに
『御堂関白記』には…
寛弘4年(1007)3月3日条
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水辺の座を立てた。土居に降りた。羽觴(うしょう)が頻(しき)りに流れてきた。唐の儀式を移したものである。皆は詩を作った。
ちなみに
『御堂関白記』には…
寛弘4年(1007)3月3日条
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夜に入って上に昇った。右衛門督(藤原斉信)・左衛門督(藤原公任)・源中納言(源俊賢)・新中納言(藤原忠輔)・勘解由長官(藤原有国)・左大弁(藤原行成)・式部大輔(菅原輔正)・源三位(源則忠)、殿上人や地下の文人が二十二人、参会した。
ちなみに
『御堂関白記』には…
寛弘4年(1007)3月4日条
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詩ができあがった。流れの辺りに降りて清書した。流れの下に立った。草墪(そうとん)を立て廻られた。詩を披講(ひこう)した。池の南廊の楽所(がくしょ)に数曲が有った。
ちなみに
『御堂関白記』には…
寛弘4年(1007)3月24日条
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内裏(だいり)から退出した。亥剋(いのこく/午後9時~午後11時)の頃、南西の方角に火事が有った。事情を問うと、東宮傅(藤原道綱)の大炊御門(おおいみかど)の家であった。
ちなみに
『御堂関白記』には…
寛弘4年(1007)3月28日条
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一宮(いちのみや/敦康親王)は、霍乱(かくらん)を病んだ。
【『紫式部日記』(むらさきしきぶにっき)】
紫式部によって書かれた日記。寛弘5年(1008)~同7年(1010)正月までのおよそ1年半の間の出来事が記されている。
【『御堂関白記』(みどうかんぱくき)】
平安中期に摂関政治の最盛期を築いた藤原道長が書いた日記。長徳4年(998)~治安元年(1021)までの記事が収められている。
【『小右記』(しょうゆうき)】
小野宮流藤原氏の当主・藤原実資の書いた日記。貞元2年(977)~長久元年(1040)まで60年以上にわたり漢文で記された平安中期における最重要史料。
【『権記』(ごんき)】
九条流藤原氏の嫡流で三蹟(さんせき)の一人と称される藤原行成の書いた日記。正暦2年(991)~寛弘8年(1011)までのものが伝存し、さらに万寿3年(1026)までの逸文が残されている。