平安時代の貴族は、日記を書くことによって、後世に記録を残していました。ちなみに、どのようなことが書かれていたのか…。
紫式部『紫式部日記』、藤原道長『御堂関白記(みどうかんぱくき)』『御堂御記抄(みどうぎょきしょう)』、藤原実資『小右記(しょうゆうき)』、『小右記』の目録である『小記目録(しょうきもくろく)』、藤原行成『権記(ごんき)』に記された主なエピソードを紹介します!
ちなみに
『権記』には…
寛弘4年(1007)8月2日条
◆◇◆◇◆
「この丑剋(うしのこく/午前1時~午前3時ごろ)、左大殿(ひだりのおとど/藤原道長)は金峯山(きんぶせん)に詣でられた。源納言(俊賢)が御供に供奉(ぐふ)された」と云(い)うことだ。
ちなみに
『御堂関白記』には…
寛弘4年(1007)8月2日条
◆◇◆◇◆
金峯山詣(きんぶせんもうで)に出立した。丑剋(うしのこく/午前1時~午前3時ごろ)に土御門第から出立した。
ちなみに
『御堂関白記』には…
寛弘4年(1007)8月4日条
◆◇◆◇◆
井外堂(いどどう)に宿した。雨が、日を尽くして降った。
寛弘4年(1007)8月5日条
◆◇◆◇◆
一日中、雨が降った。軽寺(かるでら)に宿した。
寛弘4年(1007)8月8日条
◆◇◆◇◆
一日中、雨が降っていた。野極(のぎわ)に宿した。
ちなみに
『小記目録』には…
寛弘4年(1007)8月9日条
◆◇◆◇◆
(藤原)伊周と(藤原)隆家が、(平)致頼と相語らって、左大臣(藤原道長)を殺害しようと欲した間の事。
ちなみに
『御堂関白記』には…
寛弘4年(1007)8月9日条
◆◇◆◇◆
時々、雨が降った。寺祇園に宿した。宝塔において、昼飯を食べた。両寺共に、諷誦(ふじゅ)を修(しゅう)し、御燈明料(とうみょうりょう)を奉った。
ちなみに
『御堂関白記』には…
寛弘4年(1007)8月10日条
◆◇◆◇◆
時々、雨が降った。蔵王権現御在所の僧房<金照(こんしょう)の房>に到着した。午剋(うまのこく/午前11時~午後1時ごろ)に沐浴し、解除を行った。
ちなみに
『御堂関白記』には…
寛弘4年(1007)8月11日条
◆◇◆◇◆
早朝、金峯山寺の湯屋に着し、水十𣏐(せき)を浴びた。解除を行ってから、蔵王権現に献上するものを御前に立てた。・・・御燈明を供して、経を供養した。・・・
ちなみに
『御堂関白記』には…
寛弘4年(1007)8月11日条
◆◇◆◇◆
・・・法華経百部・仁王経(にんのうきょう)□□部は三十八所の神々のために、また主上(一条天皇)・冷泉院・中宮(藤原彰子)・東宮(居貞親王)のためには理趣分八巻、八大竜王のために般若心経百十巻を、七僧と凡僧を招集して供養した。・・・
ちなみに
『御堂関白記』には…
寛弘4年(1007)8月11日条
◆◇◆◇◆
・・・また、先年(長徳4年[998])、私が自ら書き奉った金泥法華経(こんでいほけきょう)一部と、今回、書き奉った弥勒経(みろくきょう)三巻・阿弥陀経(あみだきょう)・般若心経(はんにゃしんきょう)を同行の僧七口に申上させた。・・・
ちなみに
『御堂関白記』には…
寛弘4年(1007)8月11日条
◆◇◆◇◆
・・・この経は、蔵王権現御在所に金銅の燈楼(とうろう)を立て、その下に埋め、常燈(じょうとう)を供すのである。今日から燈(とも)し始めた。・・・春宮権大夫(藤原頼通)も、経を供養した。
ちなみに
『御堂関白記』には…
寛弘4年(1007)8月14日条
◆◇◆◇◆
土御門第に着いた。すぐに内裏(一条院)、および東宮(居貞親王)の許(枇杷殿北対[びわどののきたのたい])に参った。退出した。
ちなみに
『権記』には…
寛弘4年(1007)10月2日条
◆◇◆◇◆
前大宰帥三品(さんぼん)敦道親王が薨去(こうきょ)した。年は二十七歳である。冷泉太上天皇(だいじょうてんのう)の第四親王である。母は女御(にょうご)藤原超子。前太政大臣(藤原兼家)の第一女である。
【『紫式部日記』(むらさきしきぶにっき)】
紫式部によって書かれた日記。寛弘5年(1008)~同7年(1010)正月までのおよそ1年半の間の出来事が記されている。
【『御堂関白記』(みどうかんぱくき)】
平安中期に摂関政治の最盛期を築いた藤原道長が書いた日記。長徳4年(998)~治安元年(1021)までの記事が収められている。
【『小右記』(しょうゆうき)】
小野宮流藤原氏の当主・藤原実資の書いた日記。貞元2年(977)~長久元年(1040)まで60年以上にわたり漢文で記された平安中期における最重要史料。
【『権記』(ごんき)】
九条流藤原氏の嫡流で三蹟(さんせき)の一人と称される藤原行成の書いた日記。正暦2年(991)~寛弘8年(1011)までのものが伝存し、さらに万寿3年(1026)までの逸文が残されている。