大河ドラマ「光る君へ」

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をしへて! 倉本一宏さん ~藤原伊周による道長暗殺計画は本当にあったの!?

大河ドラマ「光る君へ」第35回で描かれた藤原伊周(三浦翔平)による藤原道長(柄本佑)の暗殺計画。時代考証を担当する倉本一宏さんに、道長の金峯山詣(きんぶせんもうで)に際して、伊周が本当に暗躍していたのかについて伺いました。

――藤原道長を恨む藤原伊周が、金峯山詣の帰りを狙って襲撃しようとするシーンが描かれましたが、これは本当にあったことなのでしょうか?

本当にあったかどうかはわかりませんが、当時、そのような噂(うわさ)があったことは確かです。道長は寛弘4年(1007)8月2日に都を発(た)ち、8月11日に金峯山寺の山上蔵王堂に参詣するという日程で金峯山詣に向かいましたが、『小記目録』の寛弘4年8月9日条に、「(藤原)伊周と(藤原)隆家が、(平)致頼と相語らって、左大臣(藤原道長)を殺害しようと欲した間の事。」と記されています。

――『小記目録』というのは、どのような史料なのでしょうか?

『小記目録』は、藤原実資の日記『小右記』の目録です。『小右記』は、日記として日付ごとにその日の出来事が記されていますが、同じ儀式を一つの巻につなげて部類記を作るための材料でもあります。

例えば、年中行事の一つに石清水八幡宮で3月の午(うま)の日に行われる「石清水臨時祭(いわしみずりんじのまつり)」がありますが、日記の中からこの「石清水臨時祭」についての記事だけをまとめると「石清水臨時祭」の部類記が出来上がり、より簡単に「石清水臨時祭」に関する先例を知ることができるようになります。この部類記を作るにあたり、日記の一つ一つの記事に内容を要約した一文(首書)が記事の冒頭の左肩に書き加えられ、寛仁2年(1018)3月13日の記事であれば「八幡臨時祭事」とあります。この書き加えられた一文(首書)をまとめた『小右記』の目録が、『小記目録』になります。

――要約した一文を書き加えたのも実資なのでしょうか?

実資ではないでしょうね。部類記は、実資、実資の養子・資平(すけひら)、資平の長男・資房(すけふさ)の3人で作ろうとしていたようです。実資は偉く、より高度な判断を行ったでしょうから、一文を書き加えたのは資平か資房だと思います。

残念なことに、『小右記』の本文はかなり散逸しています。たくさん残っているように思われるかもしれませんが、実資の子孫は没落してしまい、『小右記』を売ったり何かと交換したりしてしまったため、実はその何分の1という程度しか残されていないんです。しかし、本文は残っていないけれども目録には要約がある記事が結構あります。その逆に、本文は残っているけれども目録にはない記事もあるので、とても不思議なんですけれども、目録はあくまでも存在していた記事を要約したものですから、その内容は信頼できる。

ですから、寛弘4年の『小右記』の記事はほとんど残っておらず、8月に関しては1つも残ってはいませんが、『小記目録』の寛弘4年(1007)8月9日条から、伊周が道長を暗殺しようとしている噂があり、それが実資の耳に入ったということがわかります。本当に伊周が計画していたかまでは、わかりませんけれども。

 

――貴族の中で噂が出回っていたのでしょうか?

藤原行成の日記『権記』にも、藤原道長の日記『御堂関白記』にも、この噂については一切書かれていませんので、真相はわかりません。けれども、『御堂関白記』の寛弘4年8月12日条に、道長に仕える軍事貴族である源頼光(みなもとのよりみつ)、平維叙(たいらのこれのぶ)と、高階業遠(たかしなのなりとお)の3人が迎えに来たと書かれています。「他の人々は私の意向によって来なかった」とも書かれていますが、これは出発前の道長の意向でしょうから、伊周による道長暗殺計画の噂があり、彼らが急きょ主人のもとへ駆けつけた可能性は十分にあります。9日かけた行きと違い、帰りは野極から馬に乗り、舟で泉河を渡って、急いで3日で土御門殿まで帰っていますからね。噂だけだった可能性が高いとは思いますけれども、何かあったのだと思います。ちなみに、野極は現在の金峯山寺蔵王堂あたりだといわれています。また泉河とは、木津川のことです。

 

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