大河ドラマ「光る君へ」

躍動せよ!平安の女たち男たち! 創造と想像の翼をはためかせた女性 紫式部

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をしへて! 倉本一宏さん ~多くの日記に記された寛弘5年の中宮彰子のお産

寛弘5年(1008)9月11日に一条天皇の第二皇子・敦成親王(あつひらしんのう/のちの後一条天皇)を出産した中宮彰子(見上愛)。紫式部(吉高由里子)は、このときの様子を彼女の日記『紫式部日記』に記しています。大河ドラマ「光る君へ」で時代考証を担当する倉本一宏さんに、寛弘5年の中宮彰子の出産について伺いました。

――藤原彰子の出産では、多くの公卿(くぎょう)や殿上人(てんじょうびと)、僧たちが集まってお祈りをしています。藤原定子の出産の際よりも人数が多いように感じるのですが、違いがあるのでしょうか?

彰子の出産に限らず、天皇の皇子が生まれるかもしれないというのは、当時は国家の大事業でしたから、出産にあたっては多くの人々が集まってお祈りを行います。

定子の場合は、出産するときには出家をしていましたし、父・道隆は病死し、兄・伊周も失脚していたので後見もいませんでした。実家であった二条第(にじょうてい)は焼失しており、出産を行った場所はかつて中宮大進を勤めた平生昌(たいらのなりまさ)という人物の屋敷で、その敷地は決して大きくはありません。表立って権力を握っている道長に反抗するわけにもいかないでしょうから、僧たちもあまり呼べず、儀式も十分には行えなかったと思います。

定子の出産については、ほとんど記録が残っていません。記録が残っていないということは、人々が関心を寄せていないということです。かわいそうではありますが、出家をしていましたし、しかたがありません。

――彰子の出産のお祈りには、やはり高僧が来られているのでしょうか?

そうです。即物的には、道長から禄がたくさんもらえるということもあるのですが、もしもお祈りが成功して無事に皇子が生まれたら、お祈りをしていた僧は効験(こうげん)があると認知されます。つまり「この僧に頼むと良いことが起こる」と評判が立ち、このあとにも仕事が次々と舞い込むようになるんです。病気の際には、頼まれて向かったけれども、回復が見込めないので、評判が落ちることを怖れて何もせずに帰るということがよくあったようですけれども、彰子の出産については、皇子が無事に産まれればお祈りをした僧の評判はものすごく上がりますので、道長の呼びかけに応じて高僧がたくさん集まり、真剣にお祈りをしていました。

――寄坐(よりまし)もたくさんいますが、なぜこんなに集められているのでしょうか?

寄坐には、出てきた怨霊(おんりょう)などを乗り移らせるという役割があるのですけれど、かなり疲れる仕事だったようです。道長と彰子については、二人を恨んでいる人物はたくさんおり、寛弘5年以前であれば、道長の兄である道隆と道兼がお決まりのパターンのように怨霊として登場します。そして史料に明記されているわけではありませんが、彰子の出産となれば、定子も出てきたと思います。これらをすべて一人で引き受けるのはとても大変でしょうから、対応する人物をあらかじめ決めて分担し、一人ずつ対応したのだと思います。

――突然誰かの怨霊が現れて対応するのではなくて、事前に担当が決まっているのですね。

例えば恐山のイタコは、いつ亡くなったのかをはじめ、呼び出してほしい人物の特徴を細かく伝えると、その人物を呼び出してくれます。「誰でもいいから」ではダメなんです。知識からその人物がよみがえってきます。同様に寄坐も、僧たちを通して怨霊として現れるであろう人物の特徴をしっかりと聞いて、この場に臨んでいると思います。

寄坐の存在は、産婦を非常に安心させます。彰子は、父・道長を恨んでいるのは道隆や道兼だとわかっているし、自身を恨んでいるのは定子だと思っていたと思います。そのような存在が乗り移ったと騒ぎ暴れている人が高僧たちの説得によって納得し、この場から立ち去る。それを聞けば彰子は、安心して出産ができるでしょう。これは、極めて高度な精神ケアだと思います。

 

――寛弘5年の彰子の出産については、『紫式部日記』に詳しく記されていますが、なぜ紫式部は日記に書いたのでしょうか。

紫式部が日記に記したのは、道長に依頼されたからだと思います。寛弘5年の彰子の敦成親王の出産に際しては、男性貴族の日記もずいぶんと残っていて、中にはふだんは日記を書いていない貴族の記録もあります。けれども男性の場合は、お産を行っている母屋(もや)には立ち入ることはできません。しかも漢文で書くため、細かいニュアンスまでを記すことは難しい。一方、女性である紫式部であれば、彰子がお産をしている母屋に入ることも可能ですし、なおかつ人々の感情やセリフを仮名で細やかに記すことができます。このため紫式部は、道長から特別な指名を受けていたのだと思います。

 

――男性貴族の記録も多く残されているとのお話ですが、これは珍しいことなのでしょうか?

『御産部類記』というお産の記録を集めた部類記が中世に作られたのですが、一番最初に記されているのは仁和元年(885)の光孝天皇(こうこうてんのう)の時代の記録であり、これまでもお産を記録した男性貴族による漢文日記はありました。けれども寛弘5年の彰子の出産については、それまでよりもはるかに記事が残っています。また、道長の『御堂関白記』、実資の『小右記』、行成の『権記』だけではなく、源倫子の甥(おい)である経頼(つねより)の日記『左経記(さけいき)』、太政官に置かれた官職の一つである外記(げき)によって書かれた日記だと思われる『外記(げき)』、そして、誰が書いたか不明の『不知記(ふちき)』が3名分というように、書いた人物も多岐にわたります。彰子は翌寛弘6年(1009)にも出産をし、敦良親王(あつながしんのう/のちの後朱雀天皇)が産まれますが、このときは前年の敦成親王と比べると記事数は減り、書かれている文章も短くなっており、これらのことからも寛弘5年の彰子の出産が、いかに道長や公卿たちから期待をされ、みなが力を入れていたのかがうかがえます。

――道長だけではなく、公卿たちも皇子の誕生を期待していたということでしょうか?

そうです。一条天皇には、定子が産んだ第一皇子の敦康親王(あつやすしんのう)がいますが、敦康親王が皇位の第一継承者である東宮になると、伊周・隆家が権力を持つ時代に変わって、自身の立場が危うくなるかもしれませんし、道長の政権が続いたとしても、道長と伊周による激しい抗争が再び起こる可能性があります。また、一条天皇の在位中は居貞親王(いやさだしんのう/のちの三条天皇)が東宮に就いていましたが、東宮妃である藤原娍子の父・済時は亡くなっており、その兄弟は地位が低く後見が非常に脆弱(ぜいじゃく)です。しかも、居貞親王と娍子との間には男児が4人いましたが、第一子である敦明(あつあきら)は『小右記』において実資が乱暴者と評するような人物であり、もしもこのような人物が天皇となったら世が乱れてしまうかもしれません。

公卿たちは没落しないようにバチバチと出世を競っていたりはしますが、基本的には平穏を尊(たっと)び、平和を願っています。このころになると、道長が政権を握ってから10年を越えていますので、当初あった未熟さもかなり薄れていると思いますし、わりあいとみなに気を使うので人望も高くなっていると思います。ですので、道長の娘が皇子を出産し、その皇子が天皇を継承して道長による安定した政権が続くのであればそのほうが望ましいと、多くの公卿たちが考えていたと思います。

 

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