平安時代の貴族は、日記を書くことによって、後世に記録を残していました。ちなみに、どのようなことが書かれていたのか…。
紫式部『紫式部日記』、藤原道長『御堂関白記(みどうかんぱくき)』『御堂御記抄(みどうぎょきしょう)』、藤原実資『小右記(しょうゆうき)』、『小右記』の目録である『小記目録(しょうきもくろく)』、藤原行成『権記(ごんき)』に記された主なエピソードを紹介します!
ちなみに
『紫式部日記』には…
御冊子づくり
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中宮様(藤原彰子)が内裏(だいり)へ還御なさる時期が近づいたけれど、女房たちは行事がいろいろと続いてくつろぐ暇もないのに、中宮様は物語の御冊子をおつくりになられるという。
ちなみに
『紫式部日記』には…
御冊子づくり
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私(紫式部)は夜が明けると真っ先に御前に上がって差し向かいで伺候し、色とりどりの紙を選び整え、物語のもとの本を添えては、あちらこちらに書写を依頼する手紙を書いて配る。また一方では、書写したものを綴じ集めて整理するのを仕事にして日を送る。
ちなみに
『紫式部日記』には…
御冊子づくり
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殿(藤原道長)は、「どのような子持ちが、この冷たい時節にこんなことをなさるのか」と中宮様(藤原彰子)に申し上げなさるものの、上質の薄様紙(うすようがみ)、筆、墨などを何度か持っておいでになる。
ちなみに
『紫式部日記』には…
寛弘5年(1008)11月17日条
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中宮様(藤原彰子)が内裏(だいり)にお帰りになるのは11月17日である。戌の剋(いぬのこく/午後7時~午後9時ごろ)と聞いていたけれど、だんだんと伸びて夜も更(ふ)けてしまった。
ちなみに
『紫式部日記』には…
日本紀(にほんぎ)の御局(みつぼね)
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左衛門の内侍という人がいます。妙なことに私(紫式部)のことを快く思っておらず、そのことを知らないでいたら、彼女が口にしたという不愉快な悪口が、私の耳にたくさん入ってきました。
ちなみに
『紫式部日記』には…
日本紀(にほんぎ)の御局(みつぼね)
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主上(一条天皇)が、『源氏の物語』を女房に朗読させながらお聞きになっていたときに、「この作者は、『日本紀』を読んで理解しているようだな。実に漢籍の深い教養があるようだ」とおっしゃられたのを聞いて・・・
ちなみに
『紫式部日記』には…
日本紀(にほんぎ)の御局(みつぼね)
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・・・左衛門の内侍がふとあて推量に、「たいそう教養があるのよ」と言いふらし、私(紫式部)に「日本紀の御局」とあだ名を付けたのですが、まことに笑止千万なことです。
ちなみに
『紫式部日記』には…
寛弘5年(1008)12月30日条
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大みそかの夜、・・・中宮様(藤原彰子)がいらっしゃるお部屋の方角からものすごい悲鳴が上がる。・・・火事かと思ったが、そうではない。
ちなみに
『紫式部日記』には…
寛弘5年(1008)12月30日条
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「内匠の君、さあさあ」と私(紫式部)は彼女を先に立てて、「何はともあれ、中宮様(藤原彰子)がお部屋にいらっしゃる。まずそちらに参上してご様子を確認いたしましょう」と、弁の内侍を乱暴にたたき起こして・・・
ちなみに
『紫式部日記』には…
寛弘5年(1008)12月30日条
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三人してぶるぶると震えながら、足も地につかない有様で参上してみると、裸の女性が二人うずくまっている。靫負(ゆげい)と小兵部であった。さては引きはぎであったのかと、事情がわかるとますます気味が悪い。
ちなみに
『紫式部日記』には…
寛弘5年(1008)12月30日条
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中宮様(藤原彰子)は、納殿(おさめどの)にある衣装を取り出させて、被害にあった二人の女房に賜った。
ちなみに
『権記』には…
寛弘6年(1009)1月7日条
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帥(そち/藤原伊周)が加階された。
【『紫式部日記』(むらさきしきぶにっき)】
紫式部によって書かれた日記。寛弘5年(1008)~同7年(1010)正月までのおよそ1年半の間の出来事が記されている。
【『御堂関白記』(みどうかんぱくき)】
平安中期に摂関政治の最盛期を築いた藤原道長が書いた日記。長徳4年(998)~治安元年(1021)までの記事が収められている。
【『小右記』(しょうゆうき)】
小野宮流藤原氏の当主・藤原実資の書いた日記。貞元2年(977)~長久元年(1040)まで60年以上にわたり漢文で記された平安中期における最重要史料。
【『権記』(ごんき)】
九条流藤原氏の嫡流で三蹟(さんせき)の一人と称される藤原行成の書いた日記。正暦2年(991)~寛弘8年(1011)までのものが伝存し、さらに万寿3年(1026)までの逸文が残されている。