書の達人として知られ、一条天皇(塩野瑛久)と藤原道長(柄本佑)からともに信頼されるも、たびたび板挟みとなり、苦労の絶えない藤原行成(渡辺大知)。大河ドラマ「光る君へ」で時代考証を担当する倉本一宏さんに、一条朝の四納言の一人である藤原行成について伺いました。
――ドラマを見ていると行成は“苦労人”という印象なのですが、どのような人物なのでしょうか?
行成は摂政の孫にあたりますが、祖父である藤原伊尹(ふじわらのこれただ)は行成が生まれた天禄3年(972)に亡くなっていますし、父である義孝(よしたか)は2年後の天延2年(974)に病気のため早世しています。また、母方の祖父である源保光(みなもとのやすみつ)も、長徳元年(995)に当時流行した疫病により亡くなっています。縁者を次々と亡くしていますので、若いころはほとんど後ろ盾がありませんでした。
寛和2年(986)に左兵衛権佐(さひょうえのごんのすけ)に就き、永祚2年(990)からは備後権介(びんごのごんのすけ)を兼任しますが、位はずっと従五位。正暦2年(991)に正五位下となり、正暦4年(993)にようやく従四位下を与えられるのですが、これにより左兵衛権佐を解任され、官職は備後権介のみとなってしまいました。四位では位が高すぎるため、左兵衛権佐ではいられないんです。備後権介は国司の役職になりますが、権介である行成は現地に赴くわけではありませんので、給与は支給されますけれども、中央での仕事は特にありません。行成の家系は花山天皇との関係が深く、叔父である藤原義懐がその側近として補佐していましたので、対立していた道長の父・兼家、長兄・道隆から遠ざけられていたのかもしれません。
長徳元年(995)に道長が政権を握ると蔵人頭にいきなり抜擢(ばってき)され、ようやく表舞台でその才を発揮するようになるのですが、行成は非常に不遇で、ものすごく苦労をした人物だと思います。
――行成が蔵人頭に抜擢されたのは、なぜでしょうか?
行成は非常に優秀な人物でしたので、これほどの人材を放っておくのはもったいないということで蔵人頭に抜擢されたのだと思います。ただし、ふつうは近衛中将(このへのちゅうじょう)か、中弁(ちゅうべん)が昇格して、それぞれ頭中将(とうのちゅうじょう)、頭弁(とうのべん)になるんです。行成は五位・六位の蔵人もやったことがない人物ですので、彼が蔵人頭にいきなり就いたのは異例のことです。いずれは…という考えは、行成を知る人々の中であったのだろうとは思いますけれど。
実直で能力に優れる行成はみなから信頼され、一条天皇の側近だけではなく、道長、詮子、そして、定子の側近でもありました。一条天皇が厚い信頼を寄せるあまりなかなか手放してくれず、およそ6年にわたって蔵人頭のままであったのは、ちょっとかわいそうだと思います。
――蔵人頭を長年勤めることは、珍しいのでしょうか?
蔵人頭は大変な激務で、当時の日本において最も忙しい人物だと思います。このため、わりあいとすぐにその功績によって参議へ昇進するのがふつうなのですが、行成はおよそ6年にわたって蔵人頭であり続けました。同じく優秀であった実資は、円融天皇、花山天皇、一条天皇の三代で蔵人頭に就いていますので、実資もまたすごいのですが、一条天皇の一代だけですけれども、およそ6年も蔵人頭に就いていた行成もかなりすごいと思います。ただし、行成自身は早く参議に上げてほしいと思っていて、蔵人頭を辞める夢を見た話などを一条天皇や道長にして、たびたび出世をアピールしています。残念ながら、なかなか聞いてはもらえませんでしたけれど。
――縁者を早くに亡くしていた行成は、どのように勉強をし、能力を身に付けたのでしょうか?
曽祖父である藤原師輔(ふじわらのもろすけ)の日記『九暦』は持っていたでしょうから、それで勉強していたとは思います。それから、行成はいろいろな人のところへ足を運び、儀式について意見の交換を行っています。最もよく通っていたのは、道長の兄・道兼です。ドラマでは乱暴者のような描かれ方をされていましたけれども、道兼は実資と打ち合わせをするほど儀式などに精通し、非常に熱心な勉強家で、別荘に人を呼んで宴会をするなど人付き合いも良い、本当に立派な人物です。もしも道兼が病気で亡くなることがなかったら道長の政権は誕生しなかったと思いますし、行成は彼の優秀さをよく知る道兼によって引き立てられていたと思います。
ちなみに行成は実資にも目を掛けられていて、『権記』正暦3年(991)5月21日条には、左兵衛権佐であった若き行成が荒手結(あらてつがい)という儀式で失敗したのにもかかわらず怠状(たいじょう/始末書)を進上せず、一条天皇の怒りを買ったところ、上官の左兵衛督であった実資が取り成し、事なきを得たことが記されています。このとき実資は、行成に何度も手紙を送ったようですから、かなり目を掛けていたのだと思います。
――行成は道兼や実資に、若いころから目を掛けられていたのですね。
優秀ですし、可愛(かわい)がられていたのだと思います。あまり知られてはいませんが、行成は公卿(くぎょう)になってから、宣命使(せんみょうし)を長く任されています。宣命使というのは、大事な儀式の際に天皇の詔(みことのり)を詞(ことば)で宣する文書である宣命を読み上げる係で、主には納言が任されるのですが、誰にでもできるわけではありません。漢文としてふだんは使わない詞がたくさん出てくるのですが、その意味をきちんと理解し、正しく読めなければなりませんので、高い教養が必要です。そのうえで、みなに聞こえるように読み上げなければなりませんから、声も良くないといけない。ですので、かなり難しいんです。長く宣命使を任されていたということも、行成の優秀さを示すエピソードの一つだと思います。
――倉本先生から見た、行成が書き記した日記『権記』の一番の価値は、何になるでしょうか?
特に行成が蔵人頭であった時期の、宮廷社会の一番奥まったところの秘事が細かく記されていることが一番の価値だと思います。「天皇=一条天皇」「女院=藤原詮子」そして「内覧=藤原道長」の連絡係でしたので、『権記』にはそれぞれが話したことがたくさん書かれています。『御堂関白記』は権力を握っている道長が書いていますけれども、秘事について細かく書いたりはしていません。また『小右記』は、実資は立場が上がったために、一条天皇のころの奥まった秘事についてまでは知らされることはなく、儀式や政務の詳細な様子が中心で、そこまでは記録されていないんです。現職の天皇が、誰を后(きさき)にするか、誰を皇太子にするか、そしてそこにはどのような願いや葛藤があるのか、というようなことは『権記』に一番書かれています。やはりこのことが『権記』の一番の特色であり、一番の価値だと思います。