大河ドラマ「光る君へ」

躍動せよ!平安の女たち男たち! 創造と想像の翼をはためかせた女性 紫式部

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ちなみに日記には… 大河ドラマ「光る君へ」第38回より

平安時代の貴族は、日記を書くことによって、後世に記録を残していました。ちなみに、どのようなことが書かれていたのか…。

紫式部『紫式部日記』、藤原道長『御堂関白記(みどうかんぱくき)』『御堂御記抄(みどうぎょきしょう)』、藤原実資『小右記(しょうゆうき)』、『小右記』の目録である『小記目録(しょうきもくろく)』、藤原行成『権記(ごんき)』に記された主なエピソードを紹介します!
 


ちなみに
『権記』には…

寛弘6年(1009)2月1日条

◆◇◆◇◆

左府(藤原道長)の許に参った。昨日、内裏(だいり/一条院)から持ってきた厭符(えんぶ)を示された。「これは帝皇(一条天皇)の后(藤原彰子)に対して、また若宮(敦成親王)に対して行ったものである」と云(い)うことだ。事は多くは記さない。退出した。
 


ちなみに
『権記』には…

寛弘6年(1009)2月1日条

◆◇◆◇◆

後に聞いたことには、「播磨介(高階)明順(あきのぶ)と民部大輔(源)方理(かたまさ)は、恐懼(きょうく)に処されて退出した」と云(い)うことだ。
 


ちなみに
『権記』には…

寛弘6年(1009)2月4日条

◆◇◆◇◆

中宮(藤原彰子)に厭術(えんじゅつ)を施した法師円能(えんのう)を捕え出した。「特に申した事が有った」と云(い)うことだ。
 


ちなみに
『権記』には…

寛弘6年(1009)2月20日条

◆◇◆◇◆

左府(藤原道長)の許に参った。内裏(だいり)に参られているということを、(菅原)為職朝臣(あそん)が告げ申した。そこで内裏に参った。(源)方理(かたまさ)及び宣旨(高階光子)<公行の妻>の除名を行われた。
 


ちなみに
『権記』には…

寛弘6年(1009)2月20日条

◆◇◆◇◆

また大宰帥(だざいのそち/藤原伊周)を朝参させてはならないという宣旨の作成を、内大臣(藤原公季)が、(一条)天皇の勅を承ったので、大外記(滋野)善言朝臣(あそん)に命じられた。
 


ちなみに
『御堂関白記』には…

寛弘6年(1009)3月4日条

◆◇◆◇◆

臨時除目(じもく)が有った。公卿(くぎょう)を任じた。
 


ちなみに
『権記』には…

寛弘6年(1009)3月4日条

◆◇◆◇◆

大納言に(藤原)実資<兼任>、権大納言に(藤原)斉信<兼任>・(藤原)公任<兼任>、中納言に(藤原)隆家<兼任>、権中納言に(藤原)行成<兼任>・(藤原)頼通<兼任>、・・・
 


ちなみに
『権記』には…

寛弘6年(1009)3月4日条

◆◇◆◇◆

・・・左少弁に(藤原)為時、大和に(藤原)輔尹(すけただ)、播磨に(平)生昌(なりまさ)が任じられた。
左衛門督に(藤原)頼通<兼任>、右衛門督に(藤原)懐平(かねひら)<兼任>、左兵衛督に(藤原)実成(さねなり)<兼任>。
 


ちなみに
『小右記』には…

寛弘6年(1009)5月15日条

(『御産部類記』五・後朱雀院による)

◆◇◆◇◆

(藤原)資平が内裏から退出して云(い)ったことには、「頭弁(源道方)が云ったことには、『皇后(藤原彰子)が懐妊した。宇佐宮使を立てられるか否か、前例を問うよう、一条天皇の仰せ事が有った。・・・
 


ちなみに
『小右記』には…

寛弘6年(1009)5月15日条

(『御産部類記』五・後朱雀院による)

◆◇◆◇◆

・・・これは密々の事である。事情を伝えるように』ということでした。『皇后(藤原彰子)は去る2月から懐妊されている』と云うことでした」と。
 


ちなみに
『権記』には…

寛弘6年(1009)6月19日条

◆◇◆◇◆

帥(そち/藤原伊周)が内裏に参ってもよいという宣旨が下った。
 


ちなみに
『御堂関白記』には…

寛弘6年(1009)6月19日条

◆◇◆◇◆

中宮(藤原彰子)が内裏から御出された。・・・午剋(うまのこく/午前11時~午後1時ごろ)に、若宮(敦成親王)も土御門第に移御された。内裏に伺候していた女房に物を下賜した。12人であった。
 


ちなみに
『御堂関白記』には…

寛弘6年(1009)9月24日条

◆◇◆◇◆

内裏に参った。夜に入って、退出した。一条天皇がおっしゃって云(い)われたことには、「来月13日の一親王(いちのみこ/敦康親王)の元服の儀は延期せよ」と。
 


ちなみに
『御堂関白記』には…

寛弘6年(1009)9月24日条

◆◇◆◇◆

「これと中宮(藤原彰子)御産の時期が、もし重なったならば、都合が悪いだろう」ということだ。(一条)天皇の御決定に随(したが)うということを奏上した。
 


ちなみに
『権記』には…

寛弘6年(1009)10月5日条

◆◇◆◇◆

辰剋(たつのこく/午前7時~午前9時)の頃、一宮(いちのみや/敦康親王)と一品宮(いっぽんのみや/脩子内親王)は、内教坊から帥(そち/藤原伊周)の室町第に移られた。
 


【『紫式部日記』(むらさきしきぶにっき)】

紫式部によって書かれた日記。寛弘5年(1008)~同7年(1010)正月までのおよそ1年半の間の出来事が記されている。

【『御堂関白記』(みどうかんぱくき)】

平安中期に摂関政治の最盛期を築いた藤原道長が書いた日記。長徳4年(998)~治安元年(1021)までの記事が収められている。

【『小右記』(しょうゆうき)】

小野宮流藤原氏の当主・藤原実資の書いた日記。貞元2年(977)~長久元年(1040)まで60年以上にわたり漢文で記された平安中期における最重要史料。

【『権記』(ごんき)】

九条流藤原氏の嫡流で三蹟(さんせき)の一人と称される藤原行成の書いた日記。正暦2年(991)~寛弘8年(1011)までのものが伝存し、さらに万寿3年(1026)までの逸文が残されている。 


 

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