大河ドラマ「光る君へ」

躍動せよ!平安の女たち男たち! 創造と想像の翼をはためかせた女性 紫式部

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ちなみに日記には… 大河ドラマ「光る君へ」第39回より

平安時代の貴族は、日記を書くことによって、後世に記録を残していました。ちなみに、どのようなことが書かれていたのか…。

紫式部『紫式部日記』、藤原道長『御堂関白記(みどうかんぱくき)』『御堂御記抄(みどうぎょきしょう)』、藤原実資『小右記(しょうゆうき)』、『小右記』の目録である『小記目録(しょうきもくろく)』、藤原行成『権記(ごんき)』に記された主なエピソードを紹介します!
 


ちなみに
『御堂関白記』には…

寛弘6年(1009)11月25日条

◆◇◆◇◆

中宮(藤原彰子)が御帳に入られた後、辰三剋(たつのこく/午前7時~午前9時ごろ)に、男皇子(おとこみこ/敦良親王)を降誕させた。暫くの間、重く苦しむことが有ったのではあるが、大したことは無くいらっしゃった。
 


ちなみに
『御堂関白記』には…

寛弘6年(1009)11月27日条

◆◇◆◇◆

中宮職が(敦成親王の)三夜の御産養(うぶやしない)を奉仕した。
 


ちなみに
『小右記』には…

寛弘6年(1009)11月27日条
(『御産記』による)

◆◇◆◇◆

酉剋(とりのこく/午後5時~午後7時)の頃、中宮に参った<東御門から参った>。上達部(かんだちめ)の饗饌(きょうせん)を東対の西面に設置したことは、去年と同じであった。
 


ちなみに
『小右記』には…

寛弘6年(1009)11月27日条
(『御産記』による)

◆◇◆◇◆

左大臣(藤原道長)は、諸卿を歓引して座に着させた。参入しなかった人は、ただ右大臣(藤原顕光)・内大臣(藤原公季)・帥(そち/藤原伊周)だけであった。
 


ちなみに
『御堂関白記』には…

寛弘7年(1010)1月2日条

◆◇◆◇◆

(一条)天皇の出御が有った。殿上間(てんじょうのま)にお坐りになられた。管弦の公卿(くぎょう)や殿上人(てんじょうびと)は、小板敷(こいたじき)に伺候した。ほかの人は台盤に着した。盃の巡行が数度あった。御楽遊が数曲あった。御衣(おんぞ)を賜った。
 


ちなみに
『紫式部日記』には…

寛弘7年(1010)1月2日条

◆◇◆◇◆

公卿(くぎょう)方は清涼殿に参られ、主上(一条天皇)も殿上の間にお出ましになられて、管弦の御遊びがあった。殿(藤原道長)はいつものようにお酔いになられている。
 


ちなみに
『紫式部日記』には…

寛弘7年(1010)1月2日条

◆◇◆◇◆

私はうるさいと思って隠れていたのに見つけられて、「どうしてお前の父は、(一条天皇の)御前の御遊びに呼んだのに伺候もしないで急いで退出してしまったのか。ひねくれているな」などと、(藤原道長に)絡まれてしまった。
 


ちなみに
『権記』には…

寛弘7年(1010)1月29日条

◆◇◆◇◆

前大宰帥(さきのだざいのそち)正二位藤原朝臣(あそん)伊周が薨去(こうきょ)した<37歳>。
 


ちなみに
『御堂関白記』には…

寛弘7年(1010)2月20日条

◆◇◆◇◆

尚侍(ないしのかみ/藤原妍子)が東宮(居貞親王)の許(一条第)に参入した。時に亥剋(いのこく/午後9時~午後11時ごろ)であった。
 


ちなみに
『御堂関白記』には…

寛弘7年(1010)7月17日条

◆◇◆◇◆

天が晴れた。この日、一宮(敦康親王)の御元服の儀が行われた。時に巳剋(みのこく/午前9時~午前11時ごろ)であった。御室礼(しつらい)は常と同じであった。
 


【『紫式部日記』(むらさきしきぶにっき)】

紫式部によって書かれた日記。寛弘5年(1008)~同7年(1010)正月までのおよそ1年半の間の出来事が記されている。

【『御堂関白記』(みどうかんぱくき)】

平安中期に摂関政治の最盛期を築いた藤原道長が書いた日記。長徳4年(998)~治安元年(1021)までの記事が収められている。

【『小右記』(しょうゆうき)】

小野宮流藤原氏の当主・藤原実資の書いた日記。貞元2年(977)~長久元年(1040)まで60年以上にわたり漢文で記された平安中期における最重要史料。

【『権記』(ごんき)】

九条流藤原氏の嫡流で三蹟(さんせき)の一人と称される藤原行成の書いた日記。正暦2年(991)~寛弘8年(1011)までのものが伝存し、さらに万寿3年(1026)までの逸文が残されている。 


 

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