兄・伊周(三浦翔平)の死後、喪に服した格好で左大臣・道長(柄本佑)のもとを訪れた藤原隆家(竜星涼)。大河ドラマ「光る君へ」で風俗考証を担当する佐多芳彦さんに、喪に服していることを示す縄纓(じゅうえい/なわえい)などについて伺いました。
――隆家が変わった冠をかぶっていますが、これは何というのでしょうか?
この写真は、とても貴重ですね。垂れている状態を垂纓(すいえい)、巻いている状態を巻纓(けんえい)というと以前にお話をしましたが、これは喪に服すとき専用の冠の纓(えい)で、縄纓といいます。
をしへて! 佐多芳彦さん ~かぶったまま寝る!? 冠と烏帽子
隆家の格好は、わかりやすく言うと喪服仕立ての束帯姿(そくたいすがた)です。喪に服している人が着る鈍色(にびいろ)の上着(袍[ほう])を着ており、表袴(うえのはかま)もふだんの赤い裾(すそ)のものではなく、甘子色(かんずいろ)というオレンジ色の裾のものをはいています。平安時代の貴族は、家族や親族が亡くなった際には、ある一定期間を喪服姿で過ごしていました。この隆家の場合は、兄・伊周が亡くなったために喪に服し、喪服仕立ての束帯姿で内裏(だいり)の道長の直廬(じきろ)を訪れています。
をしへて! 佐多芳彦さん ~ビシッとキメて! 「男性の衣装」束帯 編
――烏帽子(えぼし)の場合は、喪に服している際も特に変化はないように見えるのですが、冠と烏帽子とでは事情が違うのでしょうか。
そうです。烏帽子はもともと公的な場所でかぶる物ではなく、私的な場所や日常生活において着用するかぶり物です。このため、わざわざ喪に服していることを示すような特別な仕様は行わないのがふつうなんです。一方、冠の場合は、男性貴族のフォーマルな格好になりますので、喪に服している際には“喪に服している”と、しっかりと示さなければならないんですね。
――縄纓が2本の輪なのは、何か理由があるのでしょうか。
奈良時代や平安時代初期において冠は、頭頂部と後頭部をそれぞれ2本の紐(ひも)で、計4本の紐で固定していました。日本最古の肖像画といわれる聖徳太子二王子像(しょうとくたいしにおうじぞう)に描かれた聖徳太子の肖像画を、教科書などでご覧になったことがあるかと思いますが、後頭部を2本の紐で2つの輪を作って結び、冠を固定した姿で聖徳太子が描かれています。「2」であるのはこの名残で、よく見ていただくと、垂纓と巻纓も1枚ではなく2枚なんですね。そして輪なのは、おそらく蝶(チョウ)結びの輪の名残だと思います。
また縄纓は、平安時代中期には黒く塗った縄であったと考えられていますが、当初は麻をよったような紐で、色も白であった可能性があります。神社で神主さんがお払いをする際に、大幣(おおぬさ)という道具を使われるのをご覧になったことがあるかと思います。大幣に紙が用いられるのは後世になってからで、当時は麻や木綿(ゆう)が付けられていました。幣(ぬさ)というのは、麻の古名でもあるんです。それで“なぜ白い麻の束を使うのか”というと、それは色を付けていない=人の汚れがついていない比較的に清らかな物だからです。清浄なものという概念があるようなんですが、喪に服していることを示す縄纓にもこの概念が反映されていて、もともとは冠を固定するために白い麻でよった紐が使用され、それがのちに黒い縄へと変わったと考えることもできるんですね。
――縄纓は、冠の後ろのところに挿して取り付けているのでしょうか。
平安時代中期に縄纓があったことはわかっているのですが、その固定方法は、残念ながらはっきりとはしていません。このため、少し時代が下る固定方法になってしまうかもしれませんが、纓壺(えつぼ)という取り付け部分に縄纓を挿し込むという鎌倉時代くらいの縄纓の固定方法を採用しています。
――平安時代中期における縄纓の取り付け方は、わかっていないのですね。
文献に情報があるだけで、わかっていないんです。縄纓をはじめとした喪に使用した物は、葬儀が終わったり喪が明けたのちには埋めたり焼いたりして処分するというのが、平安貴族の基本的な考え方でした。喪に服して死に触れた物になりますので、穢(けが)れを恐れる当時の貴族は、そういうものを家で大切に保管して置こうとはあまりしないんです。経済的な理由などで使いまわしていた貴族も中にはいたかもしれませんが、基本的には遺品なども残さないんです。もしも現物が見つかるようなことがあれば、非常に歴史的な価値の高い発見となります。