大河ドラマ「光る君へ」

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をしへて! 倉本一宏さん ~中宮定子の兄・藤原伊周ってどんな人?

父・道隆(井浦新)亡きあと、順風満帆だった人生に暗雲が立ち込めた藤原伊周(三浦翔平)。大河ドラマ「光る君へ」で時代考証を担当する倉本一宏さんに、藤原伊周の人物像や叔父である道長(柄本佑)との関係などについて伺いました。

――古記録から見える藤原伊周とは、どのような人物だったのでしょうか。

古記録から見ると、伊周の評判はあまりよくありません。長徳(995~999年)までは藤原実資の日記『小右記』にしか出てこないのですが、非難の対象になっています。先例を無視したり、トップに立つ前から自分のやり方を主張したりと、公卿(くぎょう)社会の円満な関係を軽視しています。清少納言が著した『枕草子』を信じるならば、伊周は見た目が良く、センスがあり、頭も良い、若くすばらしい貴公子ということになりますが、そういった人がしゃしゃり出て、さまざまなことを無視して自分の好きなようにすれば、当然、周囲からは嫌われると思います。

――『小右記』と『枕草子』とで、伊周の評価がまったく違うのですね。

清少納言が『枕草子』を書いているときに伊周は存命ですし、定子が産んだ敦康親王(あつやすしんのう)を一条天皇の後継者にしたいという思惑がありますから、『枕草子』は美化に美化を重ねて書かれていると思います。

『小右記』には、例えば、父・道隆とその周辺が伊周への権力継承を強く望み、母方の高階氏が道隆の病中に代理として内覧に留められた伊周を一気に関白にしてしまおうと陰謀を巡らせ、詔(みことのり)を作り変えようとしたがすぐにばれてしまったというような記録もあります。まあ、身内の中では非常に立派な人物という評価だったのだと思いますけれども、公卿社会では嫌われるタイプですね。その都度、実資が怒っていますが、当然だと思います。
長徳元年(995)2月28日の詮子の石山寺御幸に際して、伊周が途中の粟田口から帰洛し、その時に道長と確執を来しているなど(『小右記』)、中関白家と道隆の妹弟の世代との間の衝突は、もはや避けられないものとなっていたはずです。『小右記』に見える「人々、目を属す。其の故有るに似る」という観測は、この時期の公卿社会の雰囲気をよく伝えたものでしょう。

―― 一条天皇や詮子との関係は、どうだったのでしょうか。

『枕草子』を読む限り、公私ともに一条天皇とは非常に仲が良いです。詮子とはよくわかりません。よく「詮子は中関白家と仲が悪かった」といわれていますけれども、詮子は敦康親王を大事にしているんですよね。

――道長との関係は、どうだったのでしょうか。

道長政権ができて以降は非常に仲が悪く、確執が絶えなかったというように古記録には書かれていますが、それまではそれほどでもないと思います。転機となったのは、正暦五年(994)8月28日の伊周の内大臣への就任。このときに大臣大饗(だいきょう)という宴会をやって公卿を呼ぶんですけれども、道長をはじめ、伊周に官職を超えられてしまった人がみんな欠席をしているんですよ。ですから、この時点で関係はだいぶ悪くなっていると思います。

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