大河ドラマ「光る君へ」

躍動せよ!平安の女たち男たち! 創造と想像の翼をはためかせた女性 紫式部

共有

をしへて! 倉本一宏さん ~越前へ向かう藤原為時一行の旅程とは?

大河ドラマ「光る君へ」第21回において、任国となった越前(※注1)へと向かう藤原為時(岸谷五朗)の一行。時代考証を担当する倉本一宏さんに、その旅程について伺いました。

【注1】越前(えちぜん)… 越前の国。現在の福井県嶺北地方(岐阜県北西部含む)と敦賀市に相当する地域。

――越前へと向かった藤原為時一行ですが、どのような旅程だったのでしょうか。

越前守となり任国に下向した為時ですが、その旅程については、実はわかっていません。ルートについては、紫式部の和歌集『紫式部集』からだいたいわかりますが、『紫式部集』は日記ではないため、日にちが書かれておらず、いつ、どこにいたのかまではわかりません。『延喜式(えんぎしき)』という律令の施行細則をまとめた法典には「各国までは何日」と記されており、京都と越前の間は4日とありますが、これは国司が行き来する日程ではなく、農民が税を持ってくる日程になります。

為時が越前に下向する際には、家財道具や室礼(しつらい)だけではなく、紫式部の分も含めて書物をたくさん持っていったと思います。荷車に載せて大荷物を運ぶことになりますので、移動の速度は遅くなります。また女性も同行しており、陸路では紫式部は輿(こし)での移動になりますから、さらに移動の速度は遅くなります。峠越えもいくつかありますし、10日前後はかかったかもしれませんね。

――京都から越前まではどのようなルートだったのでしょうか。

まず、都を出発して山城(※注2)と近江(※注3)の国境の逢坂関(おうさかのせき)を越え、打出浜(うちでのはま/現在の滋賀県大津市)まで行きます。そこから舟に乗って琵琶湖の西岸を北上し、北端の塩津(現在の滋賀県長浜市)で上陸します。

そして深坂越(ふかさかごえ)という近江国塩津と越前国敦賀とを結ぶ道を越えて、敦賀に入ります。この深坂越まではけっこう歌が詠まれていて、『紫式部集』に収められています。

けれども、越前に入ってからは、歌が残っていないんですよ。ですので、敦賀から越前国府までのルートについては、正確にはわかりません。このような長旅は初めてだったでしょうから、紫式部も疲れ切ってしまい、歌を詠む余裕がなかったのかもしれません。敦賀から越前国府へ行くには、さらに峠を二つ越えなければいけませんしね。

【注2】山城(やましろ)… 山城の国。現在の京都府南部に相当する地域。
【注3】近江(おうみ)… 近江の国。現在の滋賀県に相当する地域。

――為時とその家族だけではなく、都から同行する人たちがたくさんいるのですね。

家人がたくさんいないと現地の支配ができませんので、受領(ずりょう)が決まると、ツテを頼って人がいっぱい集まってきます。清少納言が著した『枕草子』の「すさまじきもの」の段に、“ある貴族が受領になりそうだ”となると、その人のもとへ縁を頼った人が集まってきて、“ダメだ”とわかるとみんなが帰っていくという描写がありますので、そのようなことが当時はよくあったのだと思います。同行するのは、侍と称される人たちです。侍というのは武士という意味ではなくて、身分が侍階級ということです。帳簿を付けられる、計算ができる、腕っぷしが強いなど、さまざまな分野の実務者が一緒に行きます。

ただし、為時にそれだけの人脈があったのかどうかは、かなり疑問です。例えば、道長の家司をしていた人物が受領になることはよくあるのですが、その場合は道長の息のかかった人がたくさんいたでしょうから、そういう人たちの中から選ばれて同行したと思います。道長関係の仕事をしたいという人はたくさんいたでしょうし、また下の階級の人たちも、現地で儲(もう)けようと考えていたと思いますから。けれども、為時にそのような人脈があったかどうかは、まことに疑問です。

――ちなみに、道中の食事と宿はどのようにしていたのでしょうか。

律令制では、駅(うまや)という食事や宿泊、新しい馬の調達などができる施設が30里(およそ16km)ごとに置かれおり、国司はこれを利用することができました。平安時代中期のころには、この駅はなくなっていた可能性があるのですけれども、中世の旅日記を読むと、駅のある場所で宿泊しているようなので、なんらかの後継施設があったのかもしれません。あとは受領の下向ですから、地元の豪族などが食事や宿泊の用意をしたりもしていたと思います。

をしへて! 佐多芳彦さん ~越前へ向かう藤原為時一行の輿・衣装とは?

全特集 リスト